『BLOOD THE LAST VAMPIRE』公開記念オールナイトVol.1
「北久保弘之Night」トークショーリポート

2000年11月24日 東京・シネセゾン渋谷


1966年、東京・横田基地。「組織」からアメリカンスクールに派遣されたひとりの少女、小夜<SAYA>は日本刀を手に、恐るべき吸血鬼たちに立ち向かう……。
スリリングなストーリーを、緻密な作画とフルデジタル処理による多彩な画面効果を駆使して描かれた、アニメーション映画『BLOOD THE LAST VAMPIRE』。その公開を記念して開催されたオールナイトイベントで、『BLOOD』の監督である北久保弘之氏と、幾原邦彦監督によるトークショーが繰り広げられました。元ビーパパスのメンバーで、雑誌「アニメスタイル」編集長の小黒祐一郎氏の司会で行われた、このトークショーの模様をお伝えしましょう。

『攻殻機動隊』オープニングアニメから『BLOOD』へ

小黒:じゃあ、まず幾原さんのほうから、最初に『BLOOD』を見た印象を聞かせてもらえますか?

幾原:
以前から、こういう作品を準備しているっていう話は聞いていたんですよ。4年前に、雑誌で北久保さんと対談をしたことがあって、その時にオフレコで聞いてたんです。僕もちょうど『ウテナ』の準備中だったんですけど、あれから僕はTVシリーズを39本作り、続いて1時間半の映画を作り、そのあいだ北久保さんは4年間かけて長大な48分に挑んでいたという(笑)。これは羨ましいなと。


左から、
  北久保弘之監督、幾原邦彦監督、小黒祐一郎氏

北久保:あの対談は、幾原さんのほうから俺を指名してくれたんですよね?

幾原:そう。北久保さんが作ったプレイステーション用ゲーム『攻殻機動隊』のオープニングムービーを見て驚いたんです。それで本人と話がしてみたいと思って。あれは士郎正宗さんの絵がそのまま動いている。漫画のようなフィルムとしか言いようがない。少なくとも手塚治虫さんが『鉄腕アトム』で定義したような、リミテッドなものではないと。単純に「動いている」とか「動いていない」ってことを言いたいわけじゃないんです。そもそも手塚さんが目指したのは、こういうもの(『攻殻機動隊』のオープニングムービー)じゃないかと思ったんです。初期のTVアニメっていうのは、いろんな事情でああいうリミテッドなスタイルになって、いまだに僕らはそのスタイルを引き継いでるんだけど、じつは手塚治虫さんが概念として実現したいと思っていたフィルムっていうのは、こういう気分のものなんじゃないかって思ったのが、『攻殻』のオープニングムービーだったんですよ。
北久保:あれを作るときに考えたのは、押井守さんが監督した『攻殻機動隊』のアニメーション映画があるじゃないですか。あれは「押井守監督作品」であって、士郎正宗さんの「原作」とはだいぶ雰囲気が違うわけですよ。でも、士郎正宗さんの『攻殻』が観たいっていう人もいっぱいいるんじゃないかなあ、と思って。で、自分が監督をやるんだったら、士郎さんの『攻殻』を映像化して見せたいって思ったんですよね。だからベースにはやっぱり、漫画の『攻殻機動隊』があるんです。あのオープニングムービーは2分間しかないんですけど、その2分間の中でどれだけお客さんの気持ちをキャッチできるかって考えたとき、あんまり多くを望んでも仕方ないだろうと。それでテーマを絞って、「セックス・ドラッグ・ロックンロール」でいこうと。その基本テーマに沿って、2分間突っ走ったんです。
幾原:4年前に対談したときにもその話が出たんだけど、あの2分間の映像を見たときの印象っていうのは、今の「セックス・ドラッグ・ロックンロール」って言葉だけでは、どうも理解できなかったんですよ。でも、あれから4年経って『BLOOD』を見ると、その言葉の意味っていうのが僕なりに多少は解釈できたかなって気がする。たしかに『攻殻』のムービーの映像を見ていると、気持ちが酔うような気がして、士郎さんが描いてる世界に入ったような感覚に襲われるんだけど、それだけではない。その先にあるものって何なんだろう。

ハリウッド映画への「親近感」

幾原:今までに「ハリウッド映画のようなアニメーションを目指します」っていうような発言をした人はけっこういたと思うし、北久保さんも今回の『BLOOD』にあたってそれに近いことを言ってたと思う。でも僕はその言葉には違和感があった。そもそも『鉄腕アトム』から始まった日本のアニメーションは、立脚点が映像というジャンルの中では特殊だから。
でも、今回の『BLOOD』を見て、多少、その言葉の意味(「ハリウッド映画のようなアニメーションを目指す」という言葉の意味)が僕なりに解釈できた気がしたんです。例えば、ハリウッド映画の「面白い」っていうのは、「観客が画面に集中することを喚起する要素」を羅列したってことを言うと思うのです。僕は『BLOOD』って作品は、日本のアニメーションとしては初めて「観客が画面に集中することを喚起する要素」っていうのを一番大切なこととして捉えた作品じゃないかと思うんです。

北久保:自分は、常に「娯楽」であり続けたい、と思ってるんですよ。自分が作る作品もそうだし、コラムを書くときもそうだし、こうやってお客さんの前でしゃべるときもそうだし。何か自分が起こすアクションっていうのが、全部「娯楽」であって欲しいと、そういうふうに願ってるんです。自分の中では、なんとなくっていう雰囲気の話でしかないんですけど、ハリウッドで作られているメジャーな作品と「自分」との「距離」って、そんなにかけ離れてる感じがしないんですよ。これは偉そうな意味合いで言ってるんじゃないんです。ただ、自分の中の感覚として、ハリウッドで作られてる作品にすごく親近感を感じるんです。その親近感をガソリンにして、自分のモーターに火を入れて、アクセルを踏んだのが、この『BLOOD』なんですよ。『BLOOD』はタイトルからも分かるとおり、吸血鬼物の映画なんですけど、単なる「モンスターパニックムービー」という側面ももちろんあるんですけど、それ以上に、どうしても表現したかったものがあるんです。それは、キャラクターの「実在感」なんです。どんなによくできたストーリー展開であっても、どんなにビックリするドンデン返しが用意されていても、そのキャラクターが「今そこにいるんだ」っていう、ライブな感覚が、どこまで信じられるか?。この作品に出てくるのは、自分自身が頭の中で空想したキャラクターでしかあり得ないわけじゃないですか。でも、そのキャラクターがどこかに「本当にいる」んだって、どこまで自分自身が真剣に「狂える」か。そこに、ある種の生命があるっていうか、生命を賭けてる部分があるんです。

北久保:『BLOOD』にもいろんなキャラクターが出てきますけど、彼らが「生きている」ってことに関して、それは真実であって欲しいんですよ。その真実に、どれだけ迫れるか。そこにフルデジタルアニメーションって技術を駆使して、徹底的に近づいていく。頭の中で、こういうところからこういうふうに見えているっていうのを、自分の頭の中で「想像する」のではなく、「実際に見てくる」わけですよ。絵コンテを描くときに、スタッフには「ちょっと『BLOOD』の世界に行ってくる」って言い方をしてたんです。……アブナイ奴だって、退かないでくださいね(笑)。自分はホントにそこに行って、見てきたものを帰ってきて紙に描く。俺は「そこ」に行ったとき、こういうふうに見えたと。で、こっちのほうはあんまり見えてないとか、このへんは薄ぼんやりしか見えなかったとか。でも、スタッフに対して、見なかったものまで見たっていう「嘘」はつかないんですよ。自分に見えたものしか描かないし、見えなかったものをスタッフに「見えた」とは言えないんです。……ヤバイですかねえ、俺?(笑)。

フルデジタルを使い倒して「情感」を描く

でも『BLOOD』は、そういうこととは別の装置で観客に感情移入をさせることを成立させようとしているように思える。それを僕はスゴイと思ったのね。
北久保:ありがとうございます。

幾原:そういう意味ではね、僕たちはこれまでのアニメで本当にキャラクターに感情移入していたのか?って思う。僕たちが今まで感情移入していたものはいったい何なのかっていうのが、この『BLOOD』の存在で明らかになったような気がする。僕たちがこれまで面白いと思っていた概念や、アニメーションってものはこういうふうに見るもんだろうっていう意識が、覆されたとまでは言わないけれど、それとは違う新しい定義の元にこの作品は作られていると思う。北久保さん自身がそれを意図したのかどうかは僕には分からないけど、PSの『攻殻』のムービーを見たときに僕が漠然と感じた点は、『BLOOD』の48分の中でさらに明確に定義されていると思う。

幾原:まるでイタコと話しているような(笑)。多くの制作者達がそういうふうに、キャラクターが実在してほしいと考えるし、僕もそう考えるんだけど、北久保さんが言ってるニュアンスは、僕らのそれとはちょっと違うんじゃないのかなあと思う。さっきの話に戻るけど、これまで「ハリウッド映画のようなアニメーションを目指す」なんて言ってた作品は、たいがい『ダイ・ハード』のアクションのシークエンスを模倣するようなことに終始してきたと思う。(右上に続く)

小黒:これまでのアニメで本当に感情移入してなかったっていうのは、具体的にはどういうことですか?

幾原:たとえばさ、僕たちの親の世代に、2時間のアニメを集中して観ろ…なんて言っても不可能だよ。僕らは『鉄腕アトム』以来、そのような表現が当たり前だという、特殊な環境の中で育ったから、それをすることが辛うじて可能な訳ですよね。「極端にディフォルメされたキャラクターがリミテッドで徘徊する画面に、実写映画のような劇伴が付けられている。だからそれはドラマである」という定義。僕たちは、それを無条件に受け入れられるように感性を特化してきた。これまで日本のアニメーションは「僕たちの特化した感性」に依存することによって成立してきたと思うんです。

北久保:フルデジタルだとか新しい技術をふんだんに取り入れた作品を作るときに、技術の品評会みたいな映像には絶対にしたくなかったんですよ。フルデジタルの技術を使い倒して、じゃあ何を表現するかっていったら、「情感」だと自分は思ったんです。なんかちょっと「湿り気のある感じ」がするとか、なんだか「居心地が悪い感じ」がするとか、少し「温度が下がったよう」な気がするとか、これから「何かが起こりそうな感じ」が画面の色の使い方から感じ取れるとか、そういった「情感」を、いちばん高い技術を使い倒して表現する。それを目指して作ったエンターテインメント作品ですね。

幾原:『BLOOD』を見て、前に北久保さんが監督した『老人Z』を見ると、そのことはよく分かるよね。

北久保:今日のオールナイトで上映される順番は、そうなってますよ。

幾原:前に『老人Z』を見たときは分からなかったことが、『BLOOD』を見た今では分かったような気がする。

北久保:そういう意味では、自分の根底にあるものは、ずっと変わってないんですよね。

幾原:それは分かるんだけど、『老人Z』の時点でそのことに気がつくのは、ちょっと難しいものがあったかもしれない(笑)。

北久保:今回は、『老人Z』の時に届かなかった距離にまで、足を伸ばしたような気はしますね。

幾原:そうだと思う。で、それは成功してると思う。『老人Z』の時には観客まで届かなかったものが、今度の『BLOOD』では届いているように思う。

北久保:そういう意味で言うと、『BLOOD』を見た上で、観客のみなさんが想像力を豊かに持ってくれれば、たぶん『老人Z』って作品も同じ血筋の作品だってことが、伝わってくれるんじゃないかと思います。<以上>



「BLOOD THE LAST VAMPIRE
」公式サイトはこちら。

<PROFILE/北久保弘之氏>
演出家/アニメーター。
1963年生まれ。80年代からアニメーターとして活躍し、やがて演出も手がけるようになる。その監督作は寡作ながらも、完成度の高さには定評がある。原画を担当した作品には、TV『うる星やつら』、映画『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』、映画『AKIRA』など。プロダクションIGホームページで連載中の「読んで泣け!」をはじめとする、切れ味の鋭いコラムでも知られる。

<主な監督作品>
1987年 OVA『BLACK MAGIC M-66』(共同監督)
1987年 OVA『ロボットカーニバル』
                   (オムニバスの1編「明治からくり文明奇譚〜紅毛人襲来之巻〜」)
1991年 映画『老人Z』
1993年 OVA『ジョジョの奇妙な冒険』
1995年 OVA『GOLDEN BOY』
1997年 ゲーム『攻殻機動隊』(ムービーパート)
2000年  映画『BLOOD THE LAST VAMPIRE』

なお、取材&リポート掲載にご理解、ご協力いただきましたSPEビジュアルワークス様に厚くお礼申し上げます。

text&photo : Seinosuke Ito


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