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2002/12/03 ふるさとの宝物 (30) 徳島藩御召し鯨船 千山丸

「ハイビジョン撮影」。画像はクリックすると拡大できます。

けさは 徳島市の徳島城博物館に収蔵されています、徳島藩御召鯨船千山丸(とくしまはんおめしくじらぶね・せんざんまる)をご紹介します。
江戸時代に作られた船で現存するのは世界にこの千山丸、ただ一艘。
日本の船舶の歴史を知るうえで貴重なてがかりとなる、国の重要文化財です。

 

徳島藩御召鯨船 千山丸。
江戸末期の安政4年、13代藩主蜂須賀斉裕(はちすか・なりひろ)のために作られものです。
全長 10.44メートル、幅 1.75メートル。

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細長い船体と尖った船首が鯨船の特長です。
おもに、沿岸の視察のほか参勤交代の際、沖に停泊する本船への渡し船としてつかわれました。
舳先に奢られた龍が藩主専用の船である証です。
側面の装飾は鯨船だけに見られるものです。
金箔に軍配うちわの彩色。
日本有数の海軍力を誇った蜂須賀家にふさわしい、豪華な設えです。

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(インタビュー)徳島城博物館主任学芸員 須藤茂樹さん

船尾に年号、いつ何の目的で、明らか世界にこれ一艘だけ
             価値の高い遺品

鯨船は本来、捕鯨用の漁船でしたが、波に強く、早い速力がだせたことからおもに戦での指揮や連絡用として多くの大名が利用しました。

蜂須賀家には千山丸をはじめ、全部で10隻の鯨船があったといわれています。

蜂須賀家が強大な海軍力を得たのは戦国時代、阿波の水軍 森一族を配下におさめ、紀伊水道一帯を支配していました。
当時、蜂須賀家の海軍力に注目していたひとりの武将がいました。
豊臣秀吉です。
天下を手中にしていた秀吉は、 あらたな領土をもとめて朝鮮へ攻め入ろうとしていました。

朝鮮出兵の成否は蜂須賀ら西国大名の優れた海軍力にかかっていたのです。
朝鮮で蜂須賀家は期待通りのはたらきをみせます。
蜂須賀と阿波水軍の名は一躍、全国にとどろきました。

徳島市安宅。
この一帯は江戸時代、徳島藩の船蔵があった場所です。
ここには数百隻におよぶ軍用船が収められていました。
江戸時代になり、25万7千石の大大名となった蜂須賀家は、
さらに強大な海軍力をもつようになりました。
参勤交代のため徳島を出帆する藩主一行。
1684年、参勤交代に赴いた船は合計62艘船乗りは総勢1747人にもおよぶ大船団でした。

画面下にみえる小さな船が千山丸です。
沖に停泊する本船への渡し船としてつかわれました。
参勤交代にはこのほか6隻の鯨船が出され船列を整える役割を担っていました。

卍(まんじ)を帆にはらみ、威風堂々たる阿波の水軍。
しかし江戸幕府の崩壊とともにほとんどの船舶はとりこわされ、水軍は姿を消しました。

幕府崩壊から124年後の平成4年、歴史の襞にうもれていた千山丸はその永い眠りから醒め、かつての勇姿をみせました。

(インタビュー)
 徳島城博物館
 主任学芸員 須藤茂樹さん
 徳島藩の船を考える上で重要なだけでなく日本の船舶研究上重要かぎになる。 

世界にただひとつの御召鯨船 千山丸。
藩政時代を知る手がかりとして多くの研究者が注目する、ふるさとの宝物です。


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