2002/10/29ふるさとの宝物 (26) 切幡寺 大塔(きりはたじ だいとう)
「ハイビジョン撮影」。画像はクリックすると拡大できます。
けさは阿波郡市場町にあります10番札所、切幡寺の大塔をご紹介します。
江戸時代初期に建てられた切幡寺大塔はその二重の塔のかたちや大きさの点から、全国的に貴重で、昭和50年、国の重要文化財に指定されました。
約400年前に建てられた切幡寺大塔は、日本で唯一現存する、二重方形大塔です。
戦禍で焼失した塔の再建のため、明治時代、大阪堺市の住吉神宮寺にあった西塔を切幡寺が買取り、移築したものです。
建物の大きさは一辺が五間、約10メートルです。
奈良 法隆寺の五重の塔をはじめとする多くが一辺三間なのに対し、これほど大きな塔は珍しく、ここ切幡寺のほか、和歌山の根来寺や高野山金剛峰寺など全国に4つしかありません。建築家・森兼三郎さん
普通、大塔というのは1階、1層目が四角で上が丸くなっている多宝塔形式をしているのを大塔と呼んでいるが、ここはそうでなく1層目が5間、上は少し小さくなっているが四角になっているので多宝塔と分類されている。日本ではここにだけしかない建物で両方とも四角なので貴重な建物。
得度山 切幡寺。
約1200年前、弘法大師が創建したと伝えられる、真言密教の聖地です。
この寺の北の山腹に、大塔はあります。
塔には、大陸の寺院建築を日本式に発展させた、和様とよばれる様式が各所にみられます。
建物の棟から桁に渡された長い板は、垂木(たるき)です。
屋根の荷重を裏からささえる構造材です。
柱と柱の間にうちつけた部材は、長押(なげし)です。
建物を外から補強するため設けられたものです。また、角材をはめこんだ独特の格子は連子窓(れんじまど)です。
派手な折衷様式の建物が主流であった江戸時代初期、これほど日本式の建築の様式を残す建物は、全国でもほかに例がありません。建造から400年。
大塔は雨漏りなどで各部に傷みが見られたため平成10年から大幅な修復工事がおこなわれました。
平成の大修理です。
3年間におよぶ修復を終え、新たに150年の命を吹き込まれました。
修復作業とともに行われた調査の結果、これまで思いもよらなかった人物がこの大塔と深い関わりのあることがわかりました。
豊臣秀吉、かつての天下人です。
大塔は、建物中央の心柱に刻まれた銘文などから、これまで徳川2代将軍秀忠によって建立されたものだと考えられていました。
しかし、それより前の慶長12年(1607年)に建てられていた記録が、大阪住吉大社で見つかったのです。
大塔は東西に2基あり、内外は各種の絵画や極彩色で飾られていたこともわかりました。
大塔は、建立の9年前にこの世を去った父・秀吉の菩提を弔うため、息子・秀頼が建立したものだったのです。当時豊臣家は、徳川家康に政権を奪われ、衰退の一途をたどっていました。
そしてついに 1615年、大阪夏の陣でその最期を迎えます。大塔の建立。
そこには、天下人秀吉の冥福を祈るとともに、かつての栄華を取り戻したいという豊臣家の悲願が込められていたのです。
塔の中央。
安置されているのは大日如来像です。
その智慧は無明の闇を照らし深い慈悲は生きるものすべてを育む「光の仏」です。
永遠の輝きを放つ大日如来。
かつて覇権を争ったつわものどもを鎮める、おだやかな表情です。
大日如来の背面には、極彩色の壁画がおさめられています。
猊座文殊画(げいざもんじゅが)です。
戦国から江戸時代にかけて活躍した狩野派の絵師、狩野山楽によって描かれたものです。
獅子にまたがっているのは知恵をつかさどる仏、文殊菩薩です。菩薩の導きに従えば
自己を縛る迷いや悩みは消え、
悟りに至ることができる真言密教の開祖、弘法大師の教えが今も受け継がれています。
切幡寺副住職・大平正大さん
今回、文化財としての初めての修理を終えていろんな貴重な資料も出てきたし、私たちもっきいたことのないような史実もでてきた。いろいろと寺の者として勉強していって塔の大切さをみなさんにも知って欲しいし大事にして欲しいと思います。
知らない発見も
みんなに愛される塔になるようにしたい。
日本でただひとつの二重の塔、切幡寺大塔。
美しく変わらぬその姿で400年の激動の歴史を見届けてきた、ふるさとの宝物です。