2002/10/01 ふるさとの宝物 (22) 奥村家住宅
けさは板野郡藍住町の奥村家住宅をご紹介します。
県指定有形文化財の奥村家住宅はかつて徳島の経済を支えた藍商人の絶大な力を物語る建造物です。
奥村家住宅は江戸時代後期に建られた藍商の屋敷です。
敷地面積はおよそ1300坪。
江戸から明治時代にかけて繁栄を極めた藍商人のすまいが、ほぼ完全な姿で保存されている県内で数少ない場所のひとつです。
昭和62年、県の有形文化財に指定されました。入母屋造りの本二階建て、母屋です。
もとは平屋建てだったものを江戸文政時代の1827年、改築したものです。一階は、「みせ」とよばれる商談の場です。
客の大半は大阪から買い付けにやってくる商人でした。徳島近世史研究会会長・三好昭一郎さん
今の金にして五千万、とか一億というお金が1回の商談で動いた。そういうお客さんが買い付けに、10月から1月にかけて来るのを大事に接待する。お客様用という建物だったと考えていいと思う。
母屋の西側にある、離れ座敷は客をもてなす宴会場です。
ここには最高級の材料とたくみの技が惜しげもなくつぎ込まれています。表面にみられる独特の肌目。
モミジの木の柱です。
曲がりやすいモミジの幹がこれほどまっすぐに成長したものは極めて稀です。
また、天井を覆うのは屋久杉です。
きめの細かい木目。
鹿児島県屋久島産の杉は、100年間で直径が2センチ程しか成長しないため珍重されている杉の最高級品です。招かれたものを唸らせる豪華なしつらえは、富を勝ち取った藍商人たちの成功の証だったのです。
阿波藍は、染め上がりが美しく色落ちしにくいことから江戸時代、高級染物に欠かせない染料として
全国に知られ、藩の財政を支えました。阿波藍は明治になってもその生産量を順調にのばし、明治33年には過去最高の年間11843トンを記録、全国生産量の、およそ4分の1を占めるまでになりました。
徳島でこれだけの藍づくりを成功させたもの、それは肥沃な土でした。
連作ができない藍は「土地枯らし」と呼ばれ栽培には多くの栄養分が必要でした。
徳島では、吉野川が毎年のように氾濫し、上流から大量の肥えた土を運んできました。
藍づくりはまさに、吉野川がはぐくんだ産業だったのです。
藍は、毎年7月になると収穫がはじまります。
摘み取られた藍は天日で乾燥させながら竿で丹念に打ちほぐしてゆきます。
これが藍粉成し(あいこなし)とよばれる作業です。
徳島の20世紀 〜39 藍の衰退 藍粉成し唄 Real Playerで再生できます。 「藍で染めたる ノーホイノーホイあの紺がすり
いくら洗ても さめはせぬ ションガエ・・・」
農家の庭先からは、この藍こなし唄が聞こえていました。
屋敷の南側、寝床です。
こなされた藍は水をかけられ、ここで発酵させます。
「すくも」という染料に仕上げるためです。
発酵がすすむよう、寝床の床は粘土で固められ、熱を逃がさないしくみです。
全盛を極めた藍づくり。
当時の藍商人の力を物語るものがもうひとつ、奥村家には残されています。屋敷の入り口、大門です。
門の中心を貫く太い梁。
これは旧徳島城の柱です。
明治4年、政府は廃藩置県により徳島城を取り壊しました。
そのときの木材や瓦の一部を、奥村家が買い取り、門の建築に使っていたのです。
当時の記録が奥村家に残されていました。費用は 115円。
当時、大工の月収がおよそ1円だった時代です。
徳島城の部材は、吉野川を船で運ばれたことも記されていました。
侍亡き後、徳島でその力を誇った藍商人。
しかしその王国はやがて終焉を迎えます。
化学染料の登場です。
明治36年、ドイツから輸入された化学染料はまたたく間に市場を独占、阿波藍は壊滅的な打撃をうけたのです。
藩政時代からつづいた伝統産業は衰退の一途をたどります。( インタビュー ) 三好さん
幕末から明治の始めに全国的に非常に豊だった。よそよりも藍の寿命が長かっただけに近代化が遅れたと考えられる。良い方に回していくようなことができなかったといろいろ反省するところが多い。
技術革新という時代の波に飲まれた藍産業。
しかしその一方で奥村家をはじめとする藍商たちが行ったさまざまな事業は時代とともに発展し、徳島の近代化に大きく貢献しました。
藍商たちが撒いた「近代化」という名の種は、徳島の地で芽をふき、百数十年後の今、しっかりと根を下ろしました。明治20年(1887)阿波国共同汽船設立
明治27年(1894)四国初の電灯会社発足
明治29年(1896)徳島鉄道株式会社設立
藍住町 奥村家住宅。
徳島の経済を支えた藍商の活躍をいまにとどめる、ふるさとの宝物です。