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2002/07/16 ふるさとの宝物 (14) 福永家住宅

「 ふるさとの宝物 」です。
けさは 鳴門市高島の塩田屋敷、福永家住宅をご紹介します。
江戸から明治、大正と、鳴門の一大産業となったのが製塩業です。
福永家住宅は塩が果たした役割を示す建造物として国の重要文化財に指定されています。

( VTR )
福永家が、塩づくりをはじめたのは江戸時代中期の1661年。

製塩技術は淡路からもたらされました。

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ここは、すまいの主屋(おもや)を中心に、海水を溜める「 かん水だめ 」やそれを炊く「 釜屋 」、また塩を貯蔵する「 塩納屋 」などまさに塩作りのための屋敷がまえです。
江戸時代に発展した製塩業の様子がわかる施設としてこれほどまとまったものは全国でも例がなく、昭和51年、国の重要文化財に指定されました。

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鳴門市教育委員会生涯学習課 田村邦夫さん

江戸時代、この鳴門市の素晴らしい天候、雨が少なくて、すぐ近くに塩水、海水がある地理的な状況を最大限に生かして鳴門市の経済が発展した象徴する塩田の施設だ

江戸時代、鳴門で作られる塩は斎田塩(さいたじお)と呼ばれ全国にその名を知られていました。

特にここ高島でとれるものは品質がよく、高値を呼びました。
徳島藩は塩づくりを奨励し、従事するものには堤防づくりの諸役を免じるなど保護政策も打ち出しました。
斎田塩は大阪や関東、さらに遠くは日本海側や北海道まで船で出荷されて行きました。
江戸時代、塩づくりは藍とならぶ徳島の基幹産業だったのです。
塩がつくられたのは入浜式という製法です。
まず潮の干満の差を利用し、塩田に海水を引き入れます。
塩田には砂がしかれ、そこに海水を撒きます。
水分は蒸発し砂に塩が残ります。
この砂をあつめてさらに海水を加え、塩分濃度の濃い「かん水」をつくります。

これを受けツボにため、煮詰めて塩にするのです。
「 釜屋 」は、塩水を煮詰める場所です。
桁行きおよそ12メートル、梁間9メートル、かやぶきの寄棟造りです。

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釜は金属ではなく、石を混ぜた陶器製です。
釜焚きの作業は昼夜をとわず、不眠不休で行われました。
30日ほどで釜が使えなくなると新たにつくり直し、ふたたび炊き続けました。
一年365日、立ち昇る煙が途絶えることはありませんでした。

釜屋の奥、屋敷の中央に位置する主屋です。

切妻造り、本瓦葺きで四方には、ひさしがめぐらされています。

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中は、大きな4つの部屋と土間で構成されています。
渡り廊下でつながった離れ座敷もありました。

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あわただしい塩づくりとは無縁の空間です。

床の間の背後に二階が続いています。
おもに寝室などに使われました。
細く差し込む光は、のぞき窓です。
大雨や台風でも塩田の様子がわかるようにつくられたものです。
このような建物は江戸時代、鳴門12か村で数多く見られました。
明治38年、政府は塩専売法を公布、国の保護をうけた塩業はさらにその生産量を増やします。

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製法も、入浜式から効率のよい枝条流下式(しじょうりゅうかしき)、さらにはイオン交換膜方式へと移行しました。

塩づくりを、直接目でみることはなくなりました。

鳴門市教育委員会生涯学習課 田村邦夫さん

この地にどうしてこの施設ができたのか、そしてこの経済が発展してきたことを正しく伝えていくことを今後とも取り組んみ、先人の人がつくった非常に素晴らしい産業だということを伝えていきたい。

製塩業を足がかりになる年では多くの企業が生まれ、まちは大きく発展してゆきました。
江戸時代の製塩施設を今にとどめる福永家住宅。
徳島の経済の礎を築いたふるさとの宝物です。

さて次回は、海部郡宍喰町に古くから伝わる祇園祭をご紹介します。


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