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2002/06/18 ふるさとの宝物 11 勝瑞城館跡

けさは 板野郡藍住町の勝瑞館跡をご紹介します。
勝瑞城とともに国の史跡に指定されている館跡は
室町戦国時代の武将三好氏の繁栄ぶりを物語る、貴重な遺跡です。

 

勝瑞城の南西側に位置する舘跡。
その規模は東西120メートル、南北150メートルと、
中世の館跡としては全国最大級です。
平成年の発掘調査でみつかりました。

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勝瑞舘は室町時代末期、
阿波をおさめた武将、
三好義賢(みよし よしかた )の館だといわれています。
周囲には幅12メートルの堀がめぐらされていたほか
館の主が生活していた御殿跡や宴会や接待に用いた「 会所 」跡、
さらには阿波特産の青石を使った大規模な庭園も見つかりました。
これらのことから館は、京都の御所を手本につくられた、
数寄屋造りの壮麗な建物だったと見られています。
戦国時代の館の様相が明らかになった例は全国でも数少なく、
近畿地方周辺ではここと、福井県にある館跡だけです。

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藍住町教育委員会学芸員 重見高博さん

三好氏は大名茶人としても非常に有名な武将で、文化人としてもレベルの高い武将だったと言われているが、言われていることを裏付けるような貴重な資料が見つかったという、調査としては画期的な発見のあった場所です。

注目を浴びたのは、茶の湯にまつわる出土品でした。
天目茶碗や茶いれのほか海外から持ち込まれためずらしい陶磁器がみつかりました。
章州窯系三彩水滴(しょうしゅうようけい さんさいすいてき )
中国福建省でつくられためずらしい水差しです。
遺跡から出土した例はこれが始めてで時代が特定できるものとしては、
日本でもっとも古いものです。

青白磁梅瓶( せいはくじめいぴん )は
13世紀の南宋時代、景徳鎮でつくられたツボの名品です。
梅の花のように浮き出た模様があることからそう呼ばれました。
時の権力者たちが好んで床飾に用いた稀少な品です。
また、香をたてる道具も見つかっています。
全体に金箔が施された豪華なものです。
当時の超一級品をとりそろえた勝瑞館、
そのあるじが、三好義賢( みよしよしかた )です。
義賢は、兄の長慶(ながよし)とともに、幾多の合戦で活躍した、戦国武将でした。
その一方で義賢は、茶の湯の世界でも名をはせた人物です。
室町時代、三好氏は、勝瑞を足がかりに近畿へと進出し、
奈良、大阪、京都など、一円を席巻していました。
そしてついに将軍、足利義輝(あしかが よしてる )をも追放します。
阿波の武将、三好氏は、当時並ぶもののない支配者として、天下に君臨していたのです。

それでは武将茶人、三好義賢とはどういう人物だったのか、
その活躍を、当時の茶会の記録から、伺うことができます。
弘治4年正月5日、物外軒茶会
床には開山の水墨画、茶器は、茶道の開祖、村田珠光の珠光茶碗に
浅茅茶杓(あさじちゃじゃく)いずれも天下一と賞された名品です。
招かれたのは 北向道陳のほか茶名を利休と名乗った、千宗易、今井宗久。
いわずと知れた茶道界の権威です。

千利休と、今井宗久、ふたりは諸外国との交易で莫大な財をなした堺の豪商でもありました。
1543年、日本には鉄砲が伝来し堺は、その量産地として注目されていました。
宗久たち堺の商人は、三好氏にとって、軍事戦略上、重要な鍵をにぎる人物だったのです。
勝瑞では昼夜にわたってたびたび茶会が催され、多くの豪商が足を運びました。
勝瑞舘は当時、茶の湯という最先端の文化が花開く社交場であるとともに、
それを政治や軍事面に反映させてゆく交渉の舞台でもあったのです。
その後、京都では織田信長の軍勢が三好を討伐、
阿波では高知の長宗我部が攻め入ります。
義賢らが育くんだ華やかな文化の数々は灰とともに、この地に眠りました。

藍住町教育委員会学芸員 重見高博さん
            まだ一割の調査でこれほどの発見が
     今後の調査の期待大
            阿波が最も輝いていた時代
            であることを証明する遺跡

天下の覇者として君臨した戦国武将、三好氏。
その館では、天下人に相応しい、文化の数々が花開いていました。
勝瑞城舘跡( しょうずいじょうかんあと )。
つわものどもの夢を跡を残すふるさとの宝物です。


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