2002/06/11ふるさとの宝物 10 宮谷古墳
宮谷古墳は3世紀後半、古墳時代初期につくられた県内でも最古級の前方後円墳です。
宮谷古墳は、この地をおさめた指導者の墓だといわれています。
全長は 37・5メートル。
前方後円墳としては全国的にも規模の小さいものです。画面左手、四角い部分が前方部、画面右手が後方の円形部です。
円形部は直径 およそ25メートル、盛り土を2段に積み上げこんもりとした弧を描いています。ここには全長6メートル、幅1・3メートルの長大な竪穴式石室があります。
床には粘土が敷きつめられ、木棺がおさめられていました。
墳丘の形や内部の構造など、宮谷古墳は近畿地方の古墳と同じ様式です。徳島市教育委員会社会教育課・瀧山雄一さん
平成元年に阿波史跡公園の整備のため徳島市教育委員会が発掘調査をしたが
その調査の結果、これまで4世紀の前方後円墳とと考えていたのが、それよりも古い徳島にある最古段階の前方後円墳であることがわかりました。3世紀、徳島や香川など東四国の古墳は、この前山古墳のように墳丘全体を石を積み上げてつくった
積石塚が主流でした。
墳丘も低く、形も平たいものでした。
こちらは両者を比較したものです。
近畿の特長をもった宮谷古墳は、当時としては異質なものであったことがよくわかります。
平成元年、発掘調査から近畿地方と密接な関わりがあったことを示す、決定的な証拠が見つかりました。三角縁神獣鏡です。古墳時代初期の3世紀、勢力を拡大していたヤマト政権の鏡です。
三角縁神獣鏡は、鏡の周りが三角形に盛り上がっていることと、背面に神や龍、虎などの獣が描かれて
いることから、その名がつきました。
邪馬台国の女王卑弥呼が中国 魏の皇帝からもらったものともいわれ、徳島県内では、この宮谷古墳でしか見つかっていない貴重な鏡です。
また、この鏡と同じものが京都のだいり古墳や奈良の黒塚古墳でも出土しています。
これらは、同じ鋳型でつくられた同氾鏡だったことがわかっています。
三角縁神獣鏡の発見、それは3世紀、徳島に、近畿のヤマト政権の勢力が及びはじめていたことを裏付けるものでした。
強大な権力のもと、多くの人や物資が集約されていく中央集権国家のはじまりです。神戸市・西求女塚古墳(にしもとめづかこふん)。
ここには徳島から物資が運ばれていたことが明らかになりました。
青石です。古墳の石室の一部に、徳島の青石が使われていたのです。
徳島産の青石はこの古墳以外にも京都や奈良など10カ所以上の古墳でみつかっています。
では、古墳文化が各地で広がりをみせるようになったのはなぜなのでしょうか。
3世紀末まで、宮谷の周辺には大規模な弥生文化の集落が広がっていました。村々は原始的な共同体をつくり、銅鐸による祭礼がとりおこなわれていました。
600年続いた弥生文化が、古墳文化へと移行していったワケ、それは領地をめぐる抗争です。徳島市教育委員会社会教育課・瀧山雄一さん
この弥生時代の集落は、今も見えるように田んぼがたくさんあって、のどかな田園風景を思い浮かべがちだが、実は人が人を殺すために武器がたくさんつくられて地域間でムラ同士で戦いに明け暮れた時代だった
抗争は激化の一途をたどります。
武器は大型化し集落は合併や服従が繰り返されました。
当時、人々をおさめることができたもの、それは絶対的な力です。
指導者たちは古墳を築き、自らの権力を示すことで支配を強めるとともに、葬られたものの霊的な力を
継承する祭礼の場としたのです。
古墳は銅鐸にかわる新たな権威として政治的、宗教的に重要な役割を担うようになり、5世紀ごろ、その全盛を迎えます。徳島市教育委員会社会教育課・瀧山雄一さん
弥生時代から古墳時代への移り変わりは地域間の紛争が大和政権に終息されていき新たな権威が形作られると非常に激動した時代。この移り変わ、激動は例えば江戸時代から明治維新に、あるいは太平洋戦争を経て日本国憲法にとありますが、節目節目がありますがそれらにも勝とも劣らない、それ以上の激動の時代だと言えます。その時代の移り変わりを証明する、語ってくれる遺跡
3世紀末、すでに中央政権の影響下にあった宮谷古墳。
1700年前の時代のうねりを今にとどめる、ふるさとの宝物です。
ルーツは徳島か 前方後円墳2001/09/20