2002/05/28 ふるさとの宝物 8 佐古配水場
けさは 徳島市の佐古配水場です。
国の登録文化財に指定されている佐古配水場は、
今から76年前の大正15年、一般家庭に水道水を供給する目的でつくられた建物です。
眉山のふもと、佐古配水場は主に、
佐古や蔵本、田宮、新町方面に水を供給する基幹施設として平成7年まで使われていました。
建物は鉄筋コンクリートづくり、
外壁のレンガはイギリス積みとよばれる様式です。入り口付近には独特の浮き彫り装飾が施されています。
彫り込まれたような白い半円形のアーチ窓。
建造当時の姿をそのまま残す佐古配水場は、
水道技術の歴史や景観の面から、特に価値ある施設として、
厚生労働省の「近代水道百選」にも選ばれています。
郷土史家 福原健生さん徳島市は水の都と言われるが、良い水はあまり沸いていなかった。大正時代までは井戸水に頼っていた。徳島市が近代都市に生まれ変わるには水を水道つくることが一番だと考えた。
明治時代、徳島では赤痢や腸チフスなどの伝染病が毎年発生し、
全国平均を上回る死者を記録していました。
水道は、徳島が近代都市に生まれ代わるためのなくてはならない施設だったのです。
明治42年、徳島市長一坂俊太郎(いちさかしゅんたろう)は水道敷設の方針を発表、
翌年から調査を開始しました。
そして大正15年、水道は完成しました。
実に 17年の歳月と、当時の費用で260万円という、
市の年間予算の3倍の巨費を投じた一大事業でした。
通水当時の水道普及率は28.7パーセント、
水道という名の文化が、配水管を通して、一般家庭へと届けられたのです。
水源地は、吉野川に近い、いまの石井町第十とし、
ここでくみ上げた水を、地下の配水管で佐古まで送っていました。
配水場の役割は、いったん水を溜め濾過したうえで
各家庭に供給することでした。
「集合井(しゅうごうせい)」は直径はおよそ7メートル。
池で濾過した水を集めて、水量をはかる施設です。
ブイ字型の板は「 ノッジ 」といわれる測量板です。
この間に水を通して計る仕組みです。
この針が再び動くことはありません。
集合井の水は、調整池を経たのち、ポンプ場へと送られます。
ヨーロッパの、古い駅舎を思わせる端正なたたずまいです。漆喰仕上げの内部は、桁行き24メートル、梁の間はおよそ12メートルです。
間仕や柱もありません。
眉山山腹の配水池まで水を押し上げる巨大なポンプと、
自家発電用のディーゼル発電機が据えられています。
災害などによる突然の停電に備え
この発電機だけは、いつでも動かせるように手入れされています。
福原さんここに配水池を作ったとき地下深くまで掘り下げると、古墳時代から弥生、縄文時代までの古代人の生活した跡、水と暮らす跡が見つかった。期せずしてここを選択したのだが、水道施設として、古代人の時代から人間が関わりをもった大切な場所として、これからも継承し我々も水との関わりを大切にしていく施設となる。
水は、家々を潤し、町は発展していきました。
大正末期、およそ7万2千人だった徳島市は、
76年後の現在、26万6千人をこえる都市になりました。
近代都市徳島をそだてた佐古配水場。
住むひとに、命の水を送り続けたふるさとの宝物です。