2002/ふるさとの宝物 (6) 一宮城
一宮城は標高およそ144メートル、
西には四国山地を配しし、
残る三方を川にかこまれた、
まさに天然の要害です。複雑な山肌には
本丸を中心に、東西800メートル、
南北600メートルの広い範囲にわたって 多くの砦が設けられています。
江戸時代の絵図からも
その規模の大きさや、城跡の様子が伺えます。中世城郭研究家 本田昇さん
一宮城のすごいところは、なんと言っても県下最大規模を誇る、山城としては一番大きな城ということ。長宗我部方と勝瑞にいた三好方との取り合いの中で、何度も何度も戦争の舞台となった。豊臣秀吉の四国攻めの時も、西や南の城が落城してもここだけは残る。そういう意味では優れた城だ。
歴代城主の中で
この城を県下最大の要塞にした人物、
それは 蜂須賀家政でした。
四国攻めの功により
豊臣秀吉から 阿波17万3千石を与えられた家政は、
優れた防衛力をもつこの山城に 目をつけ、
自らの居城としたのです。
阿波国支配の拠点として
まつりごとを おこなう一方、
家政は、城の 大幅な改修にも着手しました。
東西36メートル、
南北23メートルにわたる
本格的な石垣です。隅の根石には、縦置きにされた石が用いられています。
これは戦国時代、安土城に用いられた様式で
土壁のつくりが主流だった当時としては、最新の築城技術でした。
通路は、狭く、深く掘られています。
攻め込んだ敵の動きを、封じるのが狙いです。
「空堀(からぼり)」とよばれるこのような通路は
城の随所にめぐらされていました。高台からは鉄砲や矢が浴びせられる仕組みです。
また、本丸の西側には
池がつくられ、飲み水としていました。
さらには釜床とよばれる炊事場も完備していました。
持久戦にも耐えられる工夫です。
「 守りやすく、攻めにくい 」
一宮城は家政によって、より堅固な要塞へと生まれ変わったのです。砦あとには、建物の柱をのせた 礎石が残されています。
しかしいったい、
どのような建物がここにあったのか、
知る手がかりは残されていません。中世城郭研究家 本田昇さん
礎石はあるが、実は瓦は一点も出てこない。破片も何も出ないと言うことから、おそらく瓦葺きではなくて、板葺きか茅葺きの建物でなかったかと思う。
当時の城は、白壁の天守閣ではなく
簡素な砦(とりで)でした。
瓦をふいた城が各地で 現れるのは、
関ヶ原の合戦より後のことでした。
城の大幅な改修も つかの間、
家政は翌年の1586年、居城を徳島へと移しました。平野部では
商人たちの交易によって
人や物資が行き交い、町が生まれていました。
そこには強大な利権と富も集まります。
家政は、城を経済活動の拠点と考え
徳島へと進出したのです。
「 戦の砦 」としての一宮城は、
その役割を終えました。一宮城のふもとにある一宮神社です。
1630年、二代藩主ただてるの名で
再建されたものです。
蜂須賀家は徳島城に移ったのちも
ここを、一族の守り神として
代々、手厚く保護しました。
それは一宮城が、
藩祖 家政が開いた
特別な場所であったからに ほかなりません。(本殿・国重要文化財)
中世城郭研究家 本田昇さん
一昔前の中世の城というのは、それは、近世の城が完成するに至る前の過渡期として発展過程が研究するとよくわかる。藪の中をかき分けて調査していくと当時の人々の戦争の仕方、あるいはどんな生活をしていたか、それが時代と共にどういうふうに変わっていったのか非常によく見えてくる。中世の城をなおざりにして近世の城だけをみていたのでは本当の近世の城がわからない。
幾多の合戦の舞台として、
また、阿波支配の拠点として重要な役割を担った一宮城、
緑の木立ちの奥深く、中世の山城の姿をとどめる、
ふるさとの宝物です。