2000/12/14
徳島の20世紀 〜46 事件・事故
(スタジオ)
シリーズでお伝えしています、
徳島の20世紀。46回目のけさは「事件・事故」です。
事件事故は、新聞、ラジオ、テレビとマスメディアが発達するにつれて
ニュース報道の大きな部分を占めるようになりました。
特に戦後の高度成長期のテレビの普及で
お茶の間にいながらにして
各地で起きたさまざまな事件事故の情報を
とても早く知ることができるようになりました。
その一方で、逮捕された人をたちまち犯人扱いしたり
被害者感情を害する取材など
人権問題をめぐってメディアの側は
試行錯誤を繰り返してきました。
みなさんは、20世紀どんな事件事故が
強く印象に残っていますでしょうか。
けさは、県内で起きた事件事故の主なものを
当時の映像や写真で振り返ります。
特に、えん罪事件として全国的に大きな注目を集めた
徳島ラジオ商殺し事件を軸に
徳島の事件事故史をひもといてみます。
過去の歴史は、まもなく21世紀を迎えようとしている私たちに
何かを語りかけてくれるはずです。
(VTR)昭和28年、徳島市八百屋町のラジオ店で
50歳の男性が刃物で刺され殺害される殺人事件がおきました。
「徳島ラジオ商殺し事件」です。
独自に捜査に乗り出した徳島地方検察庁は
事件発生から9カ月後、
被害者の妻の冨士茂子さんを殺人容疑で逮捕します。
物的証拠がなく、外部犯行説も残る中、
茂子さんの逮捕の決め手とされたのは
「夫婦が格闘しているのを見た」
「茂子さんにたのまれ、匕首を捨てた」という
当時16歳と17歳だった二人の住み込み店員の証言でした。
裁判で茂子さんは無罪を主張しましたが認められず
懲役13年の刑が確定します。
しかし、茂子さんが服役中の昭和33年、
二人の店員が相次いで、
一連の証言は長時間の拘束のもとひきだされた
うそであることを告白したのです。Real Player えん罪を訴える冨士茂子さん 四国放送「真実への道程」から
茂子さんは、直ちに裁判のやり直しを求めますが
認められませんでした。
以後、茂子さんは再審の門をたたき続ける
長い長い闘いを強いられたのです。
ラジオ商事件とほぼ時を同じくして
もうひとつの悲劇が起きたことに触れなければいけません。昭和30年、森永乳業徳島工場で製造されたドライミルクに
ヒ素が混入し、西日本各地のミルクを飲んだ赤ちゃん130人が死亡、
1万2千人あまりが中毒患者となりました。
国内最悪の食中毒公害事件です。しかし、厚生省の依頼した第三者機関は、
中毒が発生したこの年に早くも
「患者は全員治癒していて後遺症はない」と発表。
死者ひとり25万円、患者ひとり1万円の補償が支払われただけで
終結宣言が出されたのです。
そして、工場長らの刑事責任が問われた裁判も
8年に渡った結果、
「被告は注意義務を怠っていない」と
無罪が言い渡されたのです。
我が子にヒ素ミルクを与えてしまった親の
無念の思いは、刑事裁判の継続という
かぼそい道にのみ残されました。
昭和30年代にはさらに悲劇が起こりました。
昭和33年1月、小松島から和歌山に向かう途中の南海汽船の旅客船「南海丸」が
鳴門海峡の東、淡路島の沖合いで悪天候の中転覆、沈没し
乗客乗員167人全員が亡くなりました。
県内最悪の船舶事故を
当時の四国放送ラジオは
行方不明者捜索の船が行き交う現場の海上から
遺族の悲しみを克明に伝えています。Real Player 南海丸沈没事故遺族の声 四国放送ラジオルポルタージュから(音声のみ)
昭和33年、三好郡池田町で血塗られた惨劇が起こりました。
浄水場施設の管理人の家に何者かが押し入り、
斧で一家5人を殺害し、姿をくらましたのです。
その5日後、犯人と見られる男は
山ひとつ隔てた香川県でもつるはしを持って強盗傷害事件を起こし、
周囲の住民は、恐怖に震え上がりました。
犯人は、県境の山に逃げ込んだとみられたため
警察官700人が、空前の包囲網を敷き
徹夜の山狩りを続けました。
その結果、事件発生から1週間後
犯人の男は川之江市の山の中で逮捕されました。
これは、逮捕の瞬間をとれえた映像です。
犯人は、刑務所から出所したばかりの
高知県の43歳の男で、この事件の直前に
高知県で2件もの強盗殺人を起こしていました。
昭和42年1月には、徳島市沖州沖の上空で
訓練中の自衛隊の対戦哨戒機とヘリコプターが衝突、
ともに海に墜落しました。
荒れ模様の海上では大掛かりな捜索が行われましたが
乗っていた自衛隊員10人全員が帰らぬ人となりました。Real Player 1967(昭和42)年徳島市沖州の沖で自衛隊機同士が衝突し海に墜落(映像のみ)
森永ミルク中毒事件は発生から14年目に大きな転機を迎えました。
昭和44年、大阪大学の丸山教授が
後遺症に苦しむ被害者の悲惨な実態を明らかにし、
大きな反響を呼んだのです。
これを機に、無残に切り捨てられていた被害者も立ち上がり
被害者支援の輪も急速に広がりました。
そして昭和48年の差し戻し裁判で徳島地裁は
「注意義務を怠った」として
実刑判決を言い渡したのです。Real Player 森永ヒ素ミルク事件差し戻し裁判
判決のあと、企業責任を認めた会社側と、厚生省、
そして被害者との間で
森永が、被害者の恒久的な救済を行うことで合意しました。
事件発生から18年の歳月が流れる長い長い闘いでした。
昭和55年、徳島ラジオ商殺し事件は
発生から27年目にして
冨士茂子さんの再審が認められました。
しかし、茂子さんはすでにこの世を去ったあとでした。
茂子さんは生前、えん罪をはらすための再審請求を4度棄却されました。
決め手となる店員の証言が覆っているにもかかわらず
再審の壁はあまりにも高かったのです。
ようやく下った地裁の再審決定に対しても
検察側は即時抗告を行い、あくまで再審を認めようとしませんでした。
高松高裁が検察側の抗告を棄却し
我が国初の、死後再審開始が最終的に決まったのは
地裁の決定からさらに3年後の昭和58年。
事件発生から30年がたっていました。Real Player 1980(昭和55)年徳島ラジオ商殺し事件再審が認められる 生前の茂子さん
Real Player 検察側の会見、妹・郡貞子さんの声。死後再審が確定、喜びの声。
このころ、徳島市では市民の大きな関心を集めながら
迷宮入りした事件がおきました。
昭和55年3月、徳島公園のお堀に
若い女性が殺されて浮いているのが見つかったのです。
被害者は、市内に住む22歳の女性でした。
公園内のトイレから被害者をひきづった跡があり、
警察では殺人事件として捜査本部を設けて捜査を続けました。
しかし、徳島市の中心地であるにもかかわらず
有力な情報は得られず、捜査は難航しました。
結局、事件は平成7年時効となり
犯人は闇に消えたままとなったのです。
昭和59年7月。
全国の新聞、テレビはこぞって「鳴門に黒い集団」と報じました。
広域暴力団山口組が
4代目、竹中正久組長の襲名披露を鳴門市内の旅館でおこなったのです。
全国の組長や組員が続々と鳴門入りする中
県警は750人を配置し厳戒態勢をとりました。
しかし、県警の再三の中止勧告は無視され、
襲名式を止めることはできませんでした。
昭和60年、ラジオ商殺し事件の冨士茂子さんに
無罪が言い渡されました。
死後再審の無罪判決は、日本の裁判史上初めてのことでした。
徳島地裁の山田真也裁判長は
「店員の証言は信用できない」とした上で
茂子さん有罪の物的証拠はなく
外部犯人の疑いが強いと
茂子さん側の主張をほぼ全面的に認めたのです。Real Player 1985(昭和60)年冨士茂子さんに無罪
茂子さんは、死後ようやく夫殺しの濡れ衣をはらしました。
しかし、茂子さんの無罪が晴れて確定したのは
事件発生から32年後のことでした。
(スタジオ)徳島の事件事故を、徳島ラジオ商殺し事件を中心に振り返りました。
ラジオ商殺し事件は、昭和28年に事件が起き、
犯人にされた冨士茂子さんが無罪を勝ち取るまで32年かかりました。
物証はなく、決め手となる証言が撤回されたにもかかわらず
司法制度は、茂子さんの訴えをかたくななまでに拒みつづけました。
森永ヒ素ミルク中毒事件も解決までに18年かかりました。
130人もの乳児を死亡させたにもかかわらず
当時は、企業の責任がまったく認められず、
被害者も一方的に切り捨てられていたことを改めて振り返りますと
20世紀は、まだこんな時代だったんだなぁとため息が出ます。
ラジオ商殺し事件も、ミルク中毒事件も
市民の正当な権利を勝ち取るために
とても長い年月と関係者の苦労が必要だったのです。
私たちは、悲劇の教訓を忘れずに
来るべき21世紀を、よりよい世紀にしていかなければなりません。
(VTR)森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者は今45歳になっています。
被害者の一人、那賀川町の黒田幸雄さんは、
町内の道の駅にある喫茶店で働いています。
黒田さんは、中毒の影響で脳性マヒになり、
手足と話すことが今も不自由です。
黒田さんは、歌が好きで歌手になることが夢でした。
事件を振り返って
黒田さんが願うことはただ一つです。
事件事故は、人々の夢や希望を一瞬にして奪い去ります。
メディアの著しい発達の中
あふれるようにして流れてくる事件事故の情報の中に
悲痛な思いを強いられている人たちがいることを
私たちは決して忘れてはなりません。
資料提供
徳島新聞社司会
遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ制作
網師本誠司