きょう12月8日は
今から59年前、日本軍の真珠湾攻撃によって
太平洋戦争が始まった日です。
おとといからお届けしています
「太平洋戦争における県出身兵士の足跡」
きょう最終回は、グアム島と沖縄の戦闘を
体験された方々の証言をお聞きいただきましょう。
こちらの表をごらん下さい。
昭和19年に入りますと
戦局はいよいよ厳しくなり
7月にはサイパン島の守備隊が玉砕。
次いでテニアン島の守備隊も玉砕。
続いて8月10日、
グアム島の守備隊も玉砕しました。
グアム島723人とありますのは
県出身兵士の戦死者数です。
(VTR)
徳島市国府町の重田督之さんは
昭和17年善通寺の第11師団の
山砲隊として満州の虎林へ赴きました。
そして、昭和19年3月、
独立混成第48旅団へ転出し
グアム島守備隊に組み込まれました。
証言:徳島市国府町の重田督之さん(79)
'My dear American soldier!'
重田さんは戦死したということで
お墓までつくられていましたが
戦後昭和21年12月に突然
重田さんが復員してきたため
当時の徳島新聞は「生きていた遺骨」と報じました。
(スタジオ)
グアム島守備隊の小畑司令官が自決し
組織的な戦闘が終わったのは
昭和19年8月10日ですが
その後も重田さんのようにゲリラ戦が行われ
グアム島守備隊の95%が戦死しました。
その中で県出身兵士の戦死者は723人でした。
重田さんは昭和19年12月に捕虜となり
ハワイからアメリカ・アイオワ州の捕虜収容所へ送られました。
重田さんは英会話が得意だったため
収容所では通訳として優遇されたそうです。
(VTR)
昭和20年4月1日。
米軍の艦砲射撃で始まった沖縄戦は
まさに「鉄の暴風」でした。
満州・虎林の43連隊から東安の旭川24師団へ転出した
中野新二さんは昭和19年7月、
主計士官として沖縄へ赴きました。
そして、一方的な沖縄戦を迎えるわけです。
証言:中野新二さん(84)
(スタジオ)
もう一人、沖縄戦の体験者をご紹介しましょう。
(VTR)
みなさんは臼砲(きゅうほう)という兵器を
ご存じでしょうか。
これはロケット砲の一種で
当時、秘密兵器として扱われていました。
口径33センチ、砲身1メートル60センチ、
350キロの爆薬を1200メートルまでとばすことができ
その威力は半径100メートル以内なら
100%の死亡率と言われていました。
徳島市国府町の仁義茂雄さんは
満州に初めて創設された
独立臼砲第一連隊から沖縄に派遣されました。
証言:仁義茂雄さん(79)
(スタジオ)
ところで、飢えのため
人間の肉まで喰ったという話は
ニューギニア島やガダルカナル島、フィリピンなどで
耳にしたことがありますが、
沖縄でもあったという、証言です。
(VTR)
これは、独立臼砲第一連隊の戦死者名簿です。
約500人のうち復員できた人は
わずか37人でした。
実に、生存率7%です。
(スタジオ)
結局、仁義さんは
昭和20年6月23日、
牛島軍司令官が自決して組織的な戦闘が終わった後も
ゲリラ戦を続け、終戦になったことを知りませんでした。
そして、終戦2カ月後の
昭和20年10月に捕虜となりました。
沖縄戦での県出身兵士の戦死者数は1597人でした。
(スタジオ)
さて、実際に戦争に行った人は太平洋戦争を
どのように見ているのでしょうか。
侵略戦争と思うか、どうかについて
お尋ねしてみました。
(VTR)
中国戦線・工藤元造さん
満州・木内治利さん
ビルマ戦線・日根高雄さん
満州・幸泉厳さん
(スタジオ)
次に、今も従軍慰安婦の補償問題が
持ち上がっていますが、軍が設けた
公設の慰安所が存在したかどうかについて
お尋ねしました。
(VTR)
満州・木内治利さん
ビルマ戦線・小笠原堅一さん
中国の南方諸島・領家高蔵さん
中国、沖縄戦線・中野新二さん
満州、幸泉巌さん
(スタジオ)
この表は、県出身兵士の戦死者を
地区別に表したもので多い順になっています。
ビルマ・・・・6,216人
フィリピン・・5,931人
中国・・・・・4,681人
ニューギニア・2,826人
満州・・・・・1,736人
沖縄・・・・・1,597人
朝鮮半島・・・1,129人
グアム・・・・・・723人
インドネシア・・・532人
タイ・マレー・・・532人
シベリア・・・・・404人
台湾・・・・・・・253人
サイパン・・・・・202人
仏領インドシナ・・162人
メレヨン・・・・・135人
内地(日本国内)・163人
その他・・・・1,023人
合わせて・・28,245人の県人の方が
4年間の太平洋戦争で戦死されました。