2000/11/30
徳島の20世紀 〜幻のプロジェクト

この百年間、様々な事業が行われてきた一方、
計画段階で中止され、いつの間にか忘れ去られてしまった事業も数多く存在します。

そこで、けさは大正時代の県庁移転計画や着工寸前でとんざした勝浦鉄道、蒲生田岬の原子力発電所さらには海洋パークからJリーグ誘致に至るまで幻と消えたプロジェクトの数々を振り返ってまいります。

それでは、幻のプロジェクト、まずは大正時代に持ち上がった徳島県庁の移転計画です。

このプロジェクトは移転先をめぐって県と市が対立し、当時の世論をも巻き込む大問題へと発展しました。

(VTR)

大正時代の県庁舎は徳島市寺島1番町にありました。

ちょうど現在の徳島市役所のあるあたりです。

県庁舎の移転計画が発表されたのが大正15年、明治以来使っていた建物が老朽化したことがその理由でした。

新庁舎移転計画の候補地として真っ先に名前があがったのは徳島公園でした。

徳島公園は明治時代、日本の最高水準の造園技術と現在のお金に換算して10億円という巨費をかけてつくられた公園です。

東京の日比谷公園に次ぐ日本で2番目の西洋風庭園として全国にその名を知られ連日多くの人出でにぎわっていました。

リポート

鷲の門を取り壊し、鉄筋コンクリート3階建て2000坪の敷地。

当時の県知事、小幡豊治は公園を管理していた徳島市に対し
財政難を理由に、用地を無償で提供するよう申し入れました。

市側は「あまりにも虫がよすぎはしまいか」と明確な回答を避けました。

しかし、小幡知事はこの提案を市側の回答がないまま臨時議会に提出すると発表しました。

野党側はその後の知事の交渉のまずさや当初の移転予算を大幅に削減した経緯について追求し県議会が紛糾。

県庁移転計画は宙に浮き、小幡知事は休職したままその年の9月、辞任しました。

それから4年後の昭和5年、新県庁舎は徳島市万代町に建設されました。

レンガ造り風の、近代的で堂々としたそのたたずまいは徳島県政の象徴として長い間県民に親しまれました。

一方、取り壊しを免れた徳島公園は桜の名所としても人気を集め、四国各地から見物人を集めるまでになりました。

徳島公園は市民の憩いの場としてすっかり定着し現在に至っています。

(スタジオ)

続いては鉄道の敷設に関するプロジェクトです。

徳島では明治32年、徳島〜鴨島間に初めての鉄道が開通しました。

民間の徳島鉄道です。

のちに、国鉄、JRと移行しましたが最初は、殆どの鉄道が民間で、政府は民家の財力をあてにしていました。

鉄道敷設プロジェクト(民間)
明治30年1897 電気鉄道 鳴門市撫養町〜徳島市勢見町
明治33年1900 阿陽鉄道 徳島市寺島本町〜羽ノ浦町
明治45年1912 上徳電気軽便鉄道 徳島市佐古五番町〜神山町
大正11年1922 徳島市営電車 二軒屋〜鷹匠・両国橋・徳島〜蔵本
大正12年1923 阿讃中央鉄道 香川県高松市〜美馬郡三島村
昭和 2年1927 徳島電気鉄道 小松島市〜徳島〜石井〜鴨島町
昭和 3年1928 愛媛電気鉄道 池田町〜愛媛県上分町

(明治から大正、昭和にかけて計画されていた鉄道の一部をまとめたもの)

実は、これらは、すべて計画だけで消滅してしまったものばかりです。

しかし、戦後間もない頃、機関車や客車を準備しレールの一部工事まで行っていたのもかかわらず1メートルも走ることなく終った民間の鉄道が県南にあったのです。

(VTR)

四国中央鉄道は小松島の中田から勝浦、上勝の町を横断しさらには那賀川上流の長安口、木頭を経て高知県の土佐山田に届く計画でした。
勝浦川や那賀川上流で算出する杉や桧などの木材や石炭などを搬出するのがその主な目的です。
道路が整備されていなかった当時は鉄道こそが、地域産業発展の重要な鍵を握っていたのです。
当時那賀川では、ダム建設を軸とした総合開発計画がすすめられており鉄道はこの計画の一環として盛り込まれることが有望視されていました。
鉄道建設の気運は一気に高まり、昭和22年、勝浦町など関係町村が集めた出資金をもとに四国中央鉄道は発足しました。
「村に鉄道がやってくる」
山里に住む人々の期待はいやがうえにも盛り上がりました。

かつて四国中央鉄道で社員として働いていた方を訪ねました。
小西兵二(こにし・ひょうじ)さんもまた、鉄道かいつを信じて疑わなかった一人です。

昭和25年、工事着工の認可が下り、四国中央鉄道は私鉄としていよいよ出発することになりました。
開通は時間の問題と誰もが思ったその矢先、予測もしない事件が工事を中断に追い込みます。

鉄道建設の最大の協力者だった大阪の石原産業が、経営不振を理由に徳島から撤退したのです。
徳島中央鉄道は深刻な資金難に陥りました。
そして昭和26年、ついに決定的な事態がおとずれます。
那賀川総合開発の中に組み込まれると思われていた鉄道敷設が計画からはずされたのです。

四国中央鉄道は国や県の援助を受けることができなくなり、一本の列車も走らせることなくやがて倒産へと追い込まれました。

あれから50年。小西さんの元には鉄道の株券数枚が残されているだけになりました。
いまでは紙くず同然となったこの株券は、しかし当時の人々が鉄道に託したいいしれぬ夢と希望が書き留めた証といえるかもしれません。

(スタジオ)

さて、幻のプロジェクト。続いては昭和50年代に阿南市蒲生田岬に起こった原子力発電所建設計画です。

この計画をめぐっては公害や安全性を理由に地元漁協や住民が猛反対、阿南市と県に計画の撤回を求めて詰め寄るという大荒れの展開となりました。

(VTR)
昭和51年6月、四国電力は伊方に続いて四国で2番目の原子力発電所の建設候補地を阿南市蒲生田岬の尻杭(がもうだみさき・しりくい)地区とすると発表しました。
蒲生田周辺は入り組んだ地形が絶好の漁場となり、昔から漁業関係者の生活を支えてきたところです。

徳島市では原発に反対する地元漁民ら約500人が県庁に詰め掛け、計画の即時断念を求める抗議集会を開きました。

また、阿南市では住民たちが反対書名を集めるなど原発への拒否反応をあらわにしました。
この最中、四国電力の山口社長は武市知事を訪ね、当初の予定に変更の無いことをかさねて述べました。

電力会社が原発建設を推し進めるにはわけがありました。
それは「石油の高騰です。」

グラフ・火力発電と原子力発電にかかる費用・1KWあたりで比較したもの

昭和48年、発電にかかる費用は石油と原子力でほぼ同じ
しかし翌年49年原子力の費用が4円40銭なのに対して火力発電はその2倍以上の8円90銭にはねあがっています。48年に起きた石油危機の影響です。
「火力より安い原子力」を使って電力を補おうというのが当時の国際的な流れになっていました。

蒲生田岬の対岸に位置する阿南市椿泊町です。
この町では原発建設の是非をめぐって住民が反対派と賛成派に大きく別れました。

久米俊(くめたかし)さんは当時漁協で推進派として活動していました。

対岸の予定地までの距離は約1500m。まさに目と鼻の先です。

原発に反対する住民の活動は日増しに拡大していきました。
昭和51年12月。3000人にふくれあがった反対住民らが県庁に押しかけ、武市知事に原発断念を迫りました。
昭和54年6月。ついに阿南市の吉原市長は原発には協力しないと表明。
計画は事実上白紙に戻りました。
原発は幻となって目の前から消えました。

しかし、ここ椿泊では計画がなくなってからも住民間のわだかまりは残ったままでした。

(スタジオ)

さて、続いては私たちの記憶にも新しい海洋パーク計画です。
海洋パーク計画は、平成元年この「おはようとくしま」である疑惑が明らかになりました。
このことが発端となって、計画は大きな論議を呼ぶこととなりました。

(VTR)
徳島市が推進する海洋パーク計画は徳島港の沖に釣りやマリンスポーツが楽しめる海洋型のレジャー施設を建設しようというものでした。
市の議員を中心とした推進協議会は計画への賛成署名約11万人分を集めます。
計画は順調に進むかに、見えました。

「おはようとくしま」では、現金を受け取った市議7名の証言を放送。
大反響を呼びました。
放送の翌日、社会党市議団が会見を行い一部議員が現金を受け取ったことを認めました。

「おはようとくしま」では、連日にわたりこの海洋パーク問題を取り上げ、疑惑の真相に迫りました。市民の関心も高まりを見せ疑惑の究明を各地で行われました。
12月には計画の是非を問う条例の制定を求める署名約54,000人分が市に提出されました。
翌年の平成2年2月、三木市長は計画の断念を表明。
「海洋パーク計画」は市や議会のあり方に対する住民の断固とした姿勢の前にあえなく消滅したのです。

(スタジオ)

続いては、サッカーにまつわるプロジェクトです。
平成5年、日本にプロのサッカー組織、「Jリーグ」が誕生しました。
サッカー熱が高まる中、徳島でもJリーグを誘致しようとする運動が起こりました。

(VTR)
Jリーグ誘致の運動は徳島の市民団体などが中心となって平成5年の秋から始まりました。
運動の和は日ごとに広がり、知事も協力を約束しました。

ホームタウン制を基本理念とするJリーグは、地元地域の支持を集め、毎試合ごとに多くのサポーターがスタジオアムに足を運んでいました。「人気のあるJリーグを誘致してまちの活性化に役立てたい」そう考えた自治大がスタジアム建設に名乗りをあげました。

その中から選ばれたのが石井町でした。
用地の広さは10万平方メートル。建設されるのは1万5000人収容のスタジアムです。
5月、Jリーグ推進協議会が発足しました。
チームの運営母体となるスポンサー企業を探す役割を担っていました。
しかし、総額20億円を超える経費を前にほとんどの企業が難色を示しました。
スポンサー探しが難航する一方、石井町では町の職員が一戸一戸、地権者を訪ね着実に用地交渉を行っていました。

しかし、9月13日、Jリーグ推進協議会は誘致を見送ることを決めました。経営母体となるスポンサー企業が現われなかったというのが、その理由です。
この場所にスタジアムの歓声が響き渡ることはなくなりました。

スポーツというひとつの「文化」の導入を企業誘致と同じ感覚で取り組んだ徳島県、そしてそれを静観するにとどまった市民。平成6年は徳島の地域スポーツのあり方が問われた一年でした。

(スタジオ)
Jリーグは佐賀県鳥栖市、人口4万人規模の年にあり、赤字ながらやっている。お金で買えないもの波及効果は経済だけでは計れない。

(他のプロジェクトを紹介)

その他のプロジェクト
明治 8年1875 慶應義塾徳島校
大正       眉山トンネル(佐古〜八万町)
昭和 3年1928 中津峯山ロープウエー
昭和 6年1931  眉山ケーブルカー(徳島市山手町)
昭和10年1935 森六・酵母菌からペニシリン製造研究
昭和25年1950 明石・鳴門海峡海底トンネル

けさは、幻のプロジェクトを紹介しました。


資料提供 (敬称略)

司会
遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ

制作 
芝田和壽