2000/11/10
徳島の20世紀 〜40 三木武夫
徳島県出身でただひとり首相となった故・三木武夫。
金脈問題で倒れた田中角栄内閣の後を受け、1974年から2年間、首相を務めました。
国会議事堂に胸像が飾られている代議士は、尾崎幸雄と三木武夫だけです。
戦前から半世紀あまりにわたり議員を務めた「議会の子」三木武夫は、20世紀の日本を代表する政治家の一人です。
(スタジオ)
シリーズでお伝えしています「徳島の20世紀」
40回目のけさは、徳島県出身の元首相、三木武夫にスポットをあてます。
テレビをごらんのみなさんの殆どが三木武夫さんのことはご存知だととは思います。
スタジオには、故・三木武夫元首相の妻、三木睦子さんをお招きしています。
睦子さんは、東京にお住まいで、今も国際交流や文化活動に活躍されています。
あす土成町で行なわれる三木元首相の13回忌法要のため徳島入りされたところを起こしいただきました。
(三木睦子さんにインタビュー)
けさは、故・三木元首相の長女で参議院議員の高橋紀世子さんも出席の予定でしたが、急きょ国会の日程が重なったため出演できませんでした。
インタビュー
睦子さんには、後ほど在りし日の三木元首相についてお話いただこうと思います。
(視聴者からの感想などを募集)
それではまず、三木武夫さんが首相に就任するまでをVTRで振り返ってみたいと思います。
(VTR)
三木武夫は1907年、現在の板野郡土成町で生まれました。
家は農業と肥料販売を営んでいました。
子どもの頃の三木は、普段は物静かでしたが人前で話すのは格別上手だったといいます。
徳島商業高校に進学した三木は、校内でのバザーの売上金をめぐり、教師に不正な使い込みがあったと学生ストライキをおこなって学校を追求、退学処分を受けました。
三木の正義感の強さとリーダー性がうかがえるエピソードです。
(稲原幸雄さんの証言)
東京の明治大学に入学した三木は、弁論部に入部。
全国を遊説に回るなどして得意の演説を磨きました。
そして在学中の欧米見聞の旅で政治家になることを自ら誓ったのです。
大学卒業と同時に衆議院議員選挙に当時の徳島2区から立候補。
第一声は「断じて不正にくみしない」でした。
知名度も金もない三木でしたが、「神風候補」と呼ばれて注目を集めました。
演説の上手さも評判となり、三木は、見事全国最年少の30歳で初当選を果たしました。
新人代議士三木が論陣を張ったのは、「日米戦うべからず」の不戦論でした。
戦争の機運高まる真っ只中での主張でした。
戦時中に迎えた2期目の選挙は翼賛選挙でした。
三木は非推薦候補でさまざまな妨害にあいましたが見事再選を果たします。
戦後の総選挙で3度目の当選を果たした三木は、国民協同党から片山内閣の逓信大臣として初めて入閣します。
改新党幹事長、運輸大臣、そして自民党幹事長などを歴任しました。
しかし、少数派・批判派であることは変わらず、安保の強行採決に抗議したり、
自民党、池田首相に対し「派閥の解消、政治資金の一本化」を三木答申として提案したりしました。
終戦直後に三木に出会って以来、三木を政治の師とあおぐ海部元首相は、三木の政治の原点をこう述べています。
(海部俊樹 元首相の証言)
1968年、三木は「男は一度勝負する」と述べて総裁選挙に名乗りをあげました。
佐藤栄作首相の退陣を求め、外務大臣を辞任しての立候補でした。
結果は、善戦するも佐藤首相の再選は阻止できませんでした。
しかし三木は、党内の力関係で政治が決まるあり方が国民からかけ離れているとの批判を貫き通し、このあとも2度総裁選に挑みつづけました。
1974年、参議院選挙徳島選挙区で「三角代理戦争」が勃発しました。
激しい選挙戦の末、三木副総理が推す非公認候補の久次米けんたろう候補が、
田中首相が推す公認候補の後藤田候補を破りました。
これが三木の大きな転機となりました。
選挙直後、三木は副総理を辞任、田中政治批判を繰り広げました。
その後自らの金脈問題が表面化した田中首相は、退陣を余儀なくされました。
政局は一気に風雲急を告げます。
金権政治に対する国民の批判が吹き荒れる中、後継者選びをたくされた自民党の椎名副総裁は、
少数派ながらクリーンなイメージの三木を次の総裁、すなわち首相にすることを決めたのです。
いわゆる「椎名裁定」です。
このとき三木は「青天の霹靂」と驚きを表現しました。
(スタジオ)
「青天の霹靂」とは三木さんが使ったことでよく使われるようになったんですね。
まさに劇的な首相就任でした。
睦子さんにインタビュー
こうして政治の頂点の座に上りつめた三木さんでしたが、
理想の政治の実現には困難がつきまといました。
首相就任後の三木さんの足跡をVTRでごらんください。
(VTR)
「クリーン三木」をキャッチフレーズに政治改革を目指した三木新首相でしたが、
30人あまりの少数派派閥だけに組閣の段階から派閥均衡を強いられ多難の船出となりました。
しかし三木首相は、政治資金規正法の改正、公職選挙法の改正など政治改革を実現しました。
また防衛費をGNPの1%以内に押さえる枠組みを閣議決定するとともに平和政策を進めました。
そして1976年、政界を揺るがすロッキード事件が表面化します。
三木首相は、「ウヤムヤにすることこそ致命傷になる」として国民に徹底究明を約束しました。
ついに、田中前首相が逮捕される事態を迎え、三木は究明に命をかけると宣言します。
しかしこうした、国民の期待にこたえようとする三木の姿勢に党内からは「三木ははしゃぎすぎ」との批判が強まります。
再三にわたり「三木おろし」の嵐が吹き荒れたのです。
「三木おろし」に三木は、「国民の考えと党の考えとの乖離がはなはだしい」と批判しましたが
厳しい国政の舵取りが続きました。
結局三木は、総裁選挙の敗北の責任をとる形で退陣を表明しました。
政治改革の道なかば、丸2年の首相の椅子に別れを告げ、後継には福田赳夫内閣が発足しました。
その後も三木は当選を重ね、党最高顧問として様々な改革を訴えました。
しかし、病室で向かえた19回目の当選の2年後・1988年11月14日、
三木さんは東京都内の病院で亡くなりました。81歳でした。
戦前、戦中、戦後を通して衆議院議員連続当選19回。議員在職51年余り。
まさに人生のすべてを議会に捧げた三木さんでした。
勝浦郡勝浦町は、県内でも三木さんの支持者が多かった町の一つです。
古くからの支持者が多く、いまでも三木さんの書が多くの家に残されています。
「大衆を恐れよ」
三木さんが好んで使ったこのことばは、今も日本の政治に警鐘を鳴らし続けています。
(スタジオ)
三木睦子さんにインタビュー
こちらは三木内閣の支持率。発足当時は50%近い、高い支持率を受けました。
その後三木おろしの頃は不支持が支持を上回りました。
しかし、再び支持が不支持を上回っていったんですがその中で総選挙の敗北を受け、退陣したわけです。
そして亡くなってからも政界に不祥事のあるたびにさきほどVTRにもありましたように「三木さんがいれば」と思う人が今なお、いるんですね。
睦子さんにインタビュー
三木さんが在職50年の際の謝辞に次のようなことばがあります。
「政治は1億の国民すべての倫理観に耐えうるものでなければならない」
三木さんの目指した理想の政治は、今なお道遠しの感があります。
けさは、徳島の20世紀の40回。
県出身の三木武夫元首相の足跡を振り返りました。
三木睦子さんありがとうございました。
司会
遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ制作
網師本誠司