2000/09/28
徳島の20世紀 〜34 過疎
今からほんの数十年前まで
農村や漁村、山村、山の奥深くにも
多くの人が住んでいました。
人々は少ない農地を耕し山の木を切って、
日々の暮らしを立てていました。
今、山間部の町や村は過疎に悩んでいます。
人口は減り、まったくの無人になった集落も珍しくありません。
戦後の高度経済成長の影で急速に進行してきた「過疎」
私たちが便利な生活と引き替えに失ったものは
何だったのでしょうか。
毎週シリーズでお送りしている徳島の20世紀。
先週は戦後の高度経済成長についてお送りしました。
34回目のけさは、
華やかな高度経済成長の裏側で
農村や山村が直面し、今なお悩んでいる
「過疎」についてお送りします。
まず、県内の過疎の現状を見ていきましょう。
| 人口減少率
市町村区分
|
この図は昭和35(1960)年から平成7(1995)年までの
35年間で県内の市町村の人口がどう変化したかを示したもの。
特に人口の減り方が激しいのは緑色で示してある山間部の
11の町や村で35年間に人口が半分以下になっている。
最も減少率の大きいのは美馬郡木屋平村。75.6%
次いで一宇村、東祖谷山村など軒並み1/3,1/4に。
過疎はいつ頃から始まったのでしょうか。
徳島の過疎の歴史を振り返ってみましょう。
(VTR)
徳島県の面積の3/4を占める山。
かつては、この山々にも多くの人が住んでいました。
山には農業に適した土地が少なく
生活は楽ではありませんでしたが
人々は様々な工夫や苦労を重ね自然と調和しながら
暮らしていました。
今も県内各地に残る棚田は人々が山と格闘した跡です。
第二次世界大戦が終わった後
農村や山間部はかつてない程の活気にあふれました。
食糧不足で多くの人々が
食べ物が手に入る地方に流れ込み
また、戦災で焼けた町の復興のため
木材の需要が急増し山は好景気にわきました。
この映像は、昭和39年頃の東祖谷山村の谷道地区です。
標高1000mを肥える山の中の集落に
林業に携わる人とその家族
約100人が生活していました。
昭和30年代に入ると高度経済成長の時代が始まります。
各地で工業生産が盛んになり
都市部の工場などは不足する労働者を地方に求めました。
大和教授インタビュー
農村や山村の働き手は職を求めて都会へ出ていき
地方の人口は減り始めます。
昭和40年代には「過疎」という耳慣れない言葉が
よく使われるようになりました。
県内の過疎地域の人口は
昭和35年には25万人を数えたものの
その後、年々減り続け平成7年には
約14万人まで落ち込みました。
35年間で県内だけで10万人を超える人口が
過疎の地域から消えたことになります。
大和教授インタビュー
歴史的な激動期
(スタジオ)
昭和30年代から40年代にかけての高度経済成長は、
地方から都会へ働きに出た人たちなしには
達成できませんでした。
しかし、あまりにも急激な人口の移動によって
都会では過密による様々な問題が、
そして地方では過疎による問題が起きているわけです。
人々は、なぜ村を出て
町へ行かなければならなかったのでしょうか。
過疎の村のひとつ
那賀郡木沢村で取材しました。
(VTR)
那賀川上流の木沢村は、村の面積の殆どが森林で
昔から林業が盛んなところです。
昭和35年頃、村の人口は2600人を超え
林業や農業が主な産業でした。
この映像は昭和40年の
木沢中学校の卒業式の様子です。
この年、卒業した生徒は60人。
映像には、ずらりと並んだ卒業生や、在校生、
家族の姿も見え盛大な式だったことがうかがえます。
木沢村教育委員会の山本重行教育長は
当時、木沢中学校の先生でした。
インタビュー
現在、教育委員会の次長をつとめている西口公治さんは、
昭和40年の卒業生のひとりです。
中学卒業後、西口さんは村を離れて日和佐高校に進み
その後、愛知県内の工場で働きました。
インタビュー
現在、徳島市大松町でラーメン店を経営している
渡辺友伯さんは、木沢村の出身です。
渡辺さんは昭和31年に中学校を卒業した後、
就職のため村を離れました。
インタビュー
木沢村の山中にある黒瀧寺。
毎年8月17日の祭りには、
かつては村内はもちろん、県内外から一千人を超える
人々が集まり、大変なにぎわいを見せていました。
黒瀧寺のある木沢村阿津江の
林業、岸野傳さんのお宅では
お子さんは皆、徳島市や大阪で就職、結婚し
今は岸野さんと奥さんの二人で住んでいます。
インタビュー
昭和40年には154人だった木沢中学校の生徒数は
現在21人に減っています。
村には高校がないため卒業すると殆どの生徒が
村を離れ遠くの学校に通います。
インタビュー
過疎の地域では若者の働く場が少なく
生活するのが難しいため
多くの若者が仕事を求めて町へ出て行かざるを得ないのが
現状です。
(スタジオ)
高度経済成長の時期に
進学、就職をした人に伺いますと
村を離れた理由は、都会へのあこがれというのがまず一つ、
そしてもう一つ大きな問題として
林業の衰退があったようです。
戦後間もない頃は景気の良かった林業ですが、
高度経済成長の頃には陰りが見え始めていました。
昭和39年から48年までの9年間に
雇用者所得は2倍以上に増えましたが
林業の所得は1.5倍程度の伸びにとどまっています。
この間、物価は2倍近く上がっていますから
林業の所得では、年々上がっていく物価に
次第に追いつけなくなっていった訳です。
木沢村では昭和35年には、働き手の68%、
2/3が林業や農業などの第一次産業に就いていましたが
平成7年には23%、約1/4になっています。
また、村全体の人口も昭和35年には2695人だったのが
今では約1000人と大幅に減っています。
このように急激な過疎の進行は
地域社会に様々な影響を及ぼしています。
名西郡神山町の上分(かみぶん)地区を取材しました。
(VTR)
神山町上分は、町の西部一帯を占める地域で
神山の中でも特に海抜が高いところです。
森林資源に恵まれた上分地区は
かつては、林業に携わる人でにぎわい
神山の中でも一番人口が多い地区でした。
戦前から戦後にかけての上分地区の写真には
写っている人の数も多く
当時の山の活気が伝わってきます。
上分に住む杜性次さんは、20年ほど前
地域の写真集を作るため、
当時の集落の写真を数多くの撮影しました。
わずか20年前と比べても上分の各地の集落からは
確実に人が減っています。
本根川の集落には昭和56年には10戸の家があり
27人が住んでいましたが
今では5戸、9人になっています。
都市部に移り住む人の多くが
山を出るとき、畑や棚田に植林をしていくため
今では多くの家や畑が杉林の中に埋もれています。
昭和24年には3600人を超えていた上分の人口も
今では850人程に減っています。
標高250m程の江畠集落で
代々林業や養蚕、花の栽培などを営んできた
粟飯原啓史さんは
現在、奥さんとお母さんの三人暮らしです。
粟飯原さんに戦後間もない話をお聞きしました。
現在、粟飯原さんのお子さんは
皆、町の外で就職しています。
粟飯原さん自身も農林業だけでなく、
車で片道50分かかる徳島市内の会社に勤めています。
上分地区では、人口の減少に伴って
地域社会に様々な影響が出ています。
昭和34年に児童数が600人を超えた
上分小学校は、今年春児童数減少のため休校になりました。
昔は上分でもお盆には阿波踊りの連が通りを練り歩き、
お祭りではみこしも出て盛大に行われていましたが、
今ではこのような行事も
規模を小さくせざるを得なくなっています。
支所長インタビュー
人口の減少は、地域の様々な活動を難しくし、
働き盛りの若者が待ちに出て行けば、
地域の産業は衰え、
地元に入る税金にも響いてきます。
過疎は単に人が少なくなるだけではなく
地域社会の存続に関わる問題と言えます。
(スタジオ)
神山町上分地区の人口の移り変わり。
神山町上分に昭和24年には全体で679戸の家があり
3617人の方住んでいたんですが
今では家の数が約半分の340戸。
人口が1/4の857人に減っています。
一軒の家に何人の方が住んでいるかを見てみると
今では2.5人。3人以下になっています。つまり、若い人が仕事を求めて町の外に出てしまって
一人暮らしの方や年配の夫婦だけの家が増えているんですね。また、上分は大きく4つの地域に分けられるんですが
昭和24年に一番人口が多かったのはこの山深い中の谷で
実に1200人を数えました。
ところが、現在中の谷の人口は160人で
上分の中で一番人口が少ない地域になっています。戦後すぐの昭和24年には林業の景気が良かったものですから
山奥の方が人が多かった。
ところが、今では林業が昔ほどもうからなくなったため
逆に山奥の人口が一番少なくなってしまったんですね。日本全体の人口が頭打ちになりつつある今となっては
過疎の地域の人口を増やすというのは難しいかもしれません。ただ、高度経済成長の頃は誰もが便利な生活にあこがれ
多くの人が都会を目指しました。
今も、そういう傾向はありますが
一方では、自然が豊かで
人と人との結びつきが強い田舎の良さが見直され
都会から田舎に移り住む人もいます。人々が求める「豊かな生活」の中身が
「便利さ」一辺倒ではなくなっているのかも知れません。
とはいえ、過疎の地域には
働く場所の確保など解決すべき問題がいくつもあります。
過疎の問題は来るべき21世紀持ち越す
大きな課題といえそうです。
国勢調査から見る過疎地域の人口の変動
昭和35年
(1960)平成7年
(1995)増減率
1)木屋平村 6164人 1505人 −75.6% 2)一宇村 7069人 1744人 −75.3% 3)東祖谷山村 7785人 2620人 −66.3% 4)美郷村 4807人 1657人 −65.5% 5)西祖谷山村 5947人 2197人 −63.1% 参考 徳島市 20万3326 26万8706 +32.2%
資料提供 (敬称略)
司会
遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ制作
三浦審也