2000/09/07
徳島の20世紀 〜31 進駐軍の時代


シリーズでお伝えしています「徳島の20世紀」
けさは、太平洋戦争の敗戦後、
日本が占領された時代の徳島を振り返ります。
戦時中、「鬼畜米英」と教え込まれた敵の軍隊を
県民はどのような気持ちで迎え入れたのでしょうか。
そして、進駐軍と県民の間にはどんな関わりがあったのでしょうか。
けさは、進駐軍にまつわる思い出がある3人の県民と、
進駐軍として徳島を訪れたことのあるオーストラリア人の物語を通して
進駐軍の時代を振り返ってみたいと思います。

さて、徳島に進駐軍がやってきたのは
1945年、昭和20年の11月2日とされています。
しかし、これよりだいぶ前に進駐軍と出会った人が三好郡池田町にいました。
この男性は、そのときのことを今でも鮮明に覚えていました。

(VTR)

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この男性が進駐軍と出会ったのは
池田町の阿波池田駅のホームでした。
男性の名前は田原武雄さん。当時17歳の国鉄職員でした。

GHQ最高司令官、ダグラス・マッカーサーが日本にやってきたのは
昭和20年の8月30日でした。
そして徳島県に進駐軍がやってきたのはその年の11月2日でした。
しかし、田原さんが進駐軍と出会ったのは
それより二カ月早い9月上旬頃のことでした。
マッカーサーが日本に降り立って直後の蒸し暑い日だったことを
田原さんははっきりと覚えていました。

当時、池田駅には約150人もの駅員がいました。
その中で田原さんだけが、進駐軍に声をかけられたのは
田原さんがまだ少年の面影を残す17歳だったからかも知れません。

田原さんは、チョコレートを仕事仲間で分け、
タバコは家に持ち帰って父親に渡しました。
そのときの、父親の表情を田原さんは今も忘れられないといいます。

(スタジオ)
田原さんが出会ったのは昭和20年の9月上旬でした。

まさに終戦直後ですね。

田原さんによりますと
出会ったのは、高松方面か高知方面に向かう
オーストラリア軍で5両編成の汽車に数百人の兵隊が乗っていたそうです。
蒸気機関車の給水所が池田駅にあったので停車したということです。

進駐軍のタバコを複雑な表情で吸っていたお父さんの表情が
忘れられないというのが印象的でしたね。

敵国の兵隊が身近になったこの時代。
まさに複雑としか言いようのない思いをした日本人は多かったでしょうね。

そして当時17歳だった田原さんが
「ああ、鬼畜米英ではなかったんだ」と感じたのも
進駐軍と接しての、偽らざる実感だったんですね。

さて、日本の占領は、GHQの命令が日本政府を通して伝達され
実施されるという「間接統治」と呼ばれる仕組みでした。
このため、進駐軍と直接接することなく
進駐軍の命令を実行していたという県民も多くいたようです。

(VTR)

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徳島市の河野幸夫さん(90歳)は終戦の前後、
徳島市の福島小学校の前身、福島国民学校で教師をしていました。

焼け跡からの民主化が進められていった教育現場でしたが
仕事の上で進駐軍の姿を見ることはほとんどありませんでした。

学校に送られてきた指令書を河野さんは、今も保存していました。
指令は、国の担当や徳島市などからのもので
当時、日本政府を通しての間接統治だったことがよくわかります。
しかし、この命令が誰からのものか
現場の教員は、充分に知っていました。

これまで使われてきた教科書の回収や、教練の廃止を求める命令、
そして国旗をマッカーサー司令部の
許可なく揚げてはならないといった命令が、
文書によって次々と出されては忠実に実行していきました。

しかし河野さんは、一度だけ思わぬ指導を
進駐軍から受けたことがあります。

(スタジオ)

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これが河野さんが保管していた命令書の綴りです。
紙の質が悪いですね。すぐ破れそうな紙に
びっしりと命令が書かれています。

この命令書で全てが動いていたんですね。

やはりGHQが怖かった時代だったんですね。

学校の広報も厳しくチェックの目が入っていたんですね。

直接、進駐軍と接する機会が少なくても、文書による指令のもと
さまざまな改革を進めていった人が多かったのが
進駐軍の時代と言えるかも知れません。

さて、こうした徳島県の占領政策の中心となったのは
「徳島軍政部」でした。
当時、軍政部の下で仕事をしていた
元県庁職員の男性は、上司となったアメリカ人との間で
公私ともに懐かしい思い出を持っていました。
VTRをご覧下さい。

(VTR)

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徳島市大原町の大栗治さんは、
復員してきた昭和21年から堅調で軍政部の仕事に携わりました。
大栗さんのいた、県の渉外課は、進駐軍の物資の調達や
命令の伝達などにあたっていました。

占領政策の中枢だった軍政部は
当時、県庁の中に置かれました。

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当時、大栗さんが仕えていたのは、
軍政部副官、アメリカ人のオールソン大尉でした。
オールソン大尉の仕事ぶりに
大栗さんは、大きな感銘を受けたと話します。

大栗さんは昭和22年、妻の嘉子さんと結婚しました。
この結婚式が進駐軍との懐かしい思い出となりました。

大栗さんの招待を受け、オールソン大尉夫妻が
結婚式に出席したのです。

結婚式は小松島市櫛渕町の奥さんの実家で行われました。
進駐軍幹部の出席は静かな農村の話題をさらいました。

オールソン大尉は、大栗さんの晴れの日に
プレゼントを贈りました。

大栗さんの進駐軍の思い出では
オールソン大尉のおかげで
とても心温まる思い出として今も胸に残っています。

(スタジオ)
こういった写真は、珍しいですね。
日頃の仕事ぶりを尊敬していたからこそ
大栗さんも正体したんでしょうけれど
本当に出席してくれるとは
思っていなかったようですね。

大栗さんの結婚式は4月の14日の金曜日だったそうで
オールソン大尉は
「なぜ13日の金表日に結婚するんだ」と言われたそうです。
日本人は気にしないというと
納得して出席してくれたということです。
オールソン大尉が何かをくれたりしたのは
この時だけだったということです。
粋な計らいですね。

占領した側とされた側。
違いはあっても仕事を一緒にする中で
人としての絆のようなものが培われた、
そんなおもいがする大栗さんの体験談でした。

さて、戦後の日本の占領は昭和27年まで七年間にわたり続きました。
しかし、進駐軍が去った後も軍を辞めて徳島にとどまった一人の
オーストラリア人がいました。

(VTR)

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そのオーストラリア人の名は、
ウィリアム・アレキサンダー・フィニン。
進駐軍の一員として徳島に赴任。
そのご、徳島の女性と結婚し、
徳島で生涯を終えました。
徳島文理高校の竹内紘子先生は
フィニン氏の研究を20年間に渡り続けています。
現在のフィニン氏の生涯をまとめた本を執筆中です。

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竹内さんの研究によりますと
フィニン氏は、昭和22年、47歳の時に来県
その二年後に徳島の女性と結婚、
進駐軍を辞め、一民間人として徳島で暮らしました。
妻との間に子どもも一人ありました。
はじめ徳島軍政部にいたフィニン氏は
ユニークな施策を残しています。
徳島市の眉山ドライブウェーは
眉山の自然を愛したフィニン氏の提案といわれています。
軍政部の労働担当だったフィニン氏は
失業対策としてドライブウェーの整備を
提案したということです。

また、まっすぐに高く伸びる松、「スラッシュ松」も
フィニン氏がオーストラリアから徳島に初めて持ち込みました。
貿易商の仕事もしていたフィニン氏は
成長の早いスラッシュ松が林業の振興につながると考えました。
当時、フィニン氏はこう述べています。

「シドニーと徳島は気候が似ている
よく育つはずだ」

そのスラッシュ松が今も残る徳島市内のアパート。

ファイニン氏一家が住んでいた
当時の建物が今も残っています。

貿易商をしていたファイニン氏の事務所。
壁にはフィニン氏の書いた落書きが残されていました。

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進駐軍撤退後も徳島にとどまった
フィニン氏は日本や徳島の文化、風俗を紹介する記事を外国人向けに
数多く書きました。
フィニン氏は軍人になる前は
ジャーナリストだったのです。
日本を描いたイラストも自ら手がけました。

徳島を愛し、徳島を紹介する記事を書いたフィニン氏は
「第二のモラエス」とも呼ばれています。

阿波踊りを紹介するフィニン氏の次のようなことばがあります。
「お盆は生きている人たちの祭りでもある。
男も女も汗して働いて、泣いたり笑ったりするのが
そういった生活の全てを一時忘れて踊る。
それが阿波踊りだ。
友よ、踊ろう。一年間に一晩だけでも踊って
悩みを忘れよう。
少なくとも1時間だけでも
我を忘れて生きよう」

このことばをイギリス向けのラジオの録音で
朗読した次の日、フィニン氏は
心臓発作のため急死しました。58歳でした。
徳島市八万町の竹林院には、
徳島で生涯を終えた元進駐軍、フィニン氏のお墓が残っています。

(スタジオ)
フィニンさんの奥さんとなった女性は
その後徳島を離れ、今は東京で静かな余生を送っているそうです。
また二人の間に生まれた男の子は、今50歳代の働き盛り、
アメリカで生活しているそうです。

こんな人が進駐軍にいたんですね。
異国の女性や文化に接して人生が大きく変わった
フィニン氏の生涯をみますとまさに
第二のモラエスといった感じがしますね。

進駐軍の時代は
一方で、人や文化の新たな交流という
側面もあったんだなぁと感じました。

けさは、徳島の20世紀の31回。
「進駐軍の時代」を振り返りました。


資料提供 徳島新聞社、英文毎日、竹内紘子、河野幸夫(敬称略)

司会
遠藤彰良、喜多ちひろ

制作 
網師本誠司