2000/08/09
徳島の20世紀 〜25回 戦時下の生活

「共同炊事」を体験した長池今栄さん(81)さん 
Real Playerで再生できます。 

 

(VTR)

これは、太平洋戦争直前の昭和15年、
小松島市立江町で行われていた共同炊事の模様です。
町内の18戸が、配給された米を当番制で炊事し、
各家庭の主婦が受け取りにきました。

当時でも珍しいこの共同炊事は
知事の表彰も受けましたが、
昭和17年には姿を消してしまいます。
米、麦の配給が、満足になされなかったからです。

 

(スタジオ)

「おはようとくしま」では、きのうから徳島の20世紀の特集として
戦時中の徳島をシリーズでお伝えしています。

けさは、戦時中の暮らしに焦点を当てます。
共同炊事に見られるように、節約を重ねてどんどん厳しくなっていった
当時の生活を振り返ってみたいと思います。

解説・福原健生さん

スタジオにはゲストをお招きしています。
郷土史家の福原健生さんです。

そして、戦争を体験したみなさんにもお越しいただいています。

鴨島町の山田ツネさん93歳です。

山田さんは戦時中、魚屋を営んでいて昭和18年に夫を病気で亡くしてから子ども7人を女手ひとつで育てました。

徳島市佐古6番町の森住秀子さん86歳です。

森住さんの家は、戦時中徳島市内で本の販売をしていて主婦として三人の子どもを育てました。

そして石井町の戸井ウタ子さん85歳です。

戸井さんは、昭和21年1月に大阪から鴨島町に疎開してきました。
夫は前の年にフィリピンで戦死し、夫の父親と二人で生活しました。
今でも元気でお暮らしの三人ですが戦時中の厳しい生活は今も胸に焼き付いています。

  
山田ツネさん 戸井ウタ子さん 森住秀子さん
 代用品についてお話を聞きました。

 配給の事情についてお話を聞きました。

 戦争全般のこと、食料事情についてお話を聞きました。

 

さて、昭和12年に始まった日中戦争が長期化の様相を見せ、
太平洋戦争開戦の機運が高まる中、国は国民生活に様々な制限を加えはじめます。
いわゆる統制経済の始まりです。

戦時下の統制経済

昭和13年 ▽国家総動員法公布
▽金属製品制限→代用品へ
▽民需向け綿製品供給禁止
昭和14年 ▽物価を固定→ヤミ経済へ
▽白米禁止令→代用食へ
昭和15年 ▽「ぜいたくは敵だ」
昭和16年 ▽生活必需物資統制令
▽物資統制令→切符制による配給一般化
▽金属回収令→家庭から金属献納
昭和17年 ▽「欲しがりません勝つまでは」
・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和20年 敗戦・国民生活破綻

昭和13年、国家総動員法が公布されます。政府が必要と判断するだけで勅令によりあらゆる分野で統制が発動できるようになりました。

その後、勅令の数は80にのぼりました。

この年、金属製品は制限され火鉢やはさみ、フォークなど130品目以上が製造禁止となりました。

そして金属の代わりに陶器や木を使った代用品が出回りはじめました。
 

また、軍需や輸出意外の綿製品は供給禁止となりました。

昭和14年にはインフレを止めるため物価が固定されましたがヤミ商人、ヤミ値が横行するヤミ経済に物が流れる結果となりました。

そしてこの年、白米が禁止され精米は七分いかにとどめるよう決められました。
主食の米にかわる代用食も始まりました。
 

そして「ぜいたくは敵だ」のスローガンのもと日本は太平洋戦争に突入。生活必需品はすべて配給制となり
家庭の金属製品は強制的に供出を求められました。

そして戦況の悪化とともに生活も悪化の一途をたどり「欲しがりません勝つまでは」のかけ声もむなしく昭和20年敗戦。

国民生活は破綻しました。

 

メロン、スイカの皮で皮革代用 「人髪も旨く食へる」 「白米を食ふ約五十戸発見」

 

こうした中、政府は代用品の普及、工夫を呼びかけ荒唐無稽ともいえる記事が踊ります。

昭和13年のこの記事は「メロン、スイカの皮から革製品の代用品ができた」と伝えています。

記事の中味では「袋や下駄、草履の表に最適」とあります。

また、昭和14年のこの記事。
見出しには「奇想天外、人髪も旨く食べます」とあります。

この頭髪料理、記事によりますと「ある薬品で頭髪をこんにゃく状にしてソースやしょうゆで美味しい栄養分として食べられる」とあります。

実際に出回ったかどうか定かではありませんがすさまじい話です。

金属の代用品を並べました。 Real Playerで再生できます。

 

こちらの記事をごらんください。

昭和15年8月、白米を食う約五十戸を発見したとあります。

記事には「徳島署では非国策的、時局を認識せぬ不届き者が散見されるのは問題としている」とあります。

そして一週間後の続報では「白米食い」を警察が召喚し厳しく訓戒したとあります。
そしてこの記事の翌年の昭和16年、太平洋戦争が始まり、食料の配給が一般化します。

当時の配給の量をおとな一人一日あたりで再現しました。
徳島市史に記載されている昭和17年頃の配給に基づきました。

まず主食である米穀類は一日あたり2合3勺でした。

これは当時、中程度の労働をするのに必要とされた量を2割下回っています。

このほか、豆腐が一人1/3丁以下。砂糖が10g、しょう油が27cc、
小麦粉が2g、そのほか魚は一世帯一日187gなどと決められていました。

非常に乏しい食糧事情の中食事の中心になってきたのがイモ類です。
サツマイモをゆでて干したものや芋のツル。

こうしたものが毎日食卓のメインディッシュとなっていったのです。

 

今回、当時の代用品を提供してくれた一人、鴨島町の青木幾男さんの家の倉庫には庶民の生活の歴史を語り継ぐためのたくさんの生活品が集められています。

しかし青木さんは、思うように動かなくなり整理も収集も、もはや ままならないと言います。

青木幾男さん(鴨島町85歳)

戦争を知らない世代に戦争の悲惨さを語り継ぐ貴重な品々は日の目を浴びることなく、年々確実にその姿を消しています。

 

 青木幾男さんの話 Real Playerで再生できます。 


資料提供 (敬称略)

上板町立歴史民族資料館
徳島新聞社
青木幾男、湯浅良幸、中尾克也、福原健生

司会
遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ

制作 
網師本誠司


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