2000/08/03
徳島の20世紀 〜23回 戦時下の反骨教師 深井源治

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 昭和11年 旧制・徳島中学校に就任した 深井源治

昭和11年、旧制徳島中学校に新しい校長が着任しました。
名前は深井源治。

「貴様、軍に学校を貸さないとはどういうことだ!」

そうどなる連隊長を前にブルブル震える深井校長は一歩も引き下がりませんでした。
軍の圧力から生徒と学校を守り多くの人材を育てた功績は半世紀を過ぎた今なお、多くの人々に語り継がれています。

毎週木曜日にお送りしている徳島の20世紀。
けさは「戦時下の反骨の教師・深井源治(ふかい・げんじ)」です。

一般にはあまり知られていないかもしれませんが深井源治は戦時中の厳しい時代にもかかわらず生徒と学校を守ろうとした人物でした。

深井源治が行った教育とはどういうものだったのか当時の関係者の証言などを交えてご紹介したいと思います。

さて、深井源治が校長を務めたのは昭和11年3月から昭和20年の終戦直後までの約9年半でした。

着任した昭和11年といいますと高橋是清らが暗殺されたいわゆる二・二六事件が起こった年です。
13年には国家総動員法が公布されいよいよ国家の軍事態勢が整えられます。

昭和14年にはドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発しました。

昭和16年、太平洋戦争が始まり日本全土が戦争の渦に飲み込まれます。
そして昭和20年、広島・長崎に原爆が投下され長かった戦争は終わりを告げます。

深井がいたこの時代は戦争へと一気に加速していくまさに激動の時代だったわけです。

この時代のできごとをまとめました。

着任した昭和11年は高橋是清らが暗殺された二・二六事件が起こった年です。
13年には国家総動員法が公布されいよいよ国家の軍事態勢が整えられます。
昭和14年にはドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発しました。
昭和16年、太平洋戦争が始まり日本全土が戦争の渦に飲み込まれます。
そして、昭和20年、広島、長崎に原爆が投下され長かった戦争は終わりを告げます。
深井がいたこの時代は戦争へと一気に加速していくまさに「激動の時代」だったわけです。

校長に就任した深井にとって徳島は初めて訪れる街でした。
前校長の突然の死去のため、岡山で第六高等学校、今の岡山大学の教授をしていた深井がその後任に選ばれたのです。
深井源治、46歳でした。

遠藤リポート

昭和の初め、旧制徳島中学から高等学校や陸海軍学校などの
いわゆる上級学校へ進学した生徒は60人を数え、
全国屈指の進学率を誇っていました。
県内では「天下の徳中」と言われ、
その名を知らぬ者はありませんでした。
新校長に就任した深井は全校生徒を前にこう、言い放ちました。
「なにが天下の徳中だ!県外へ出れば徳山中と間違われる。
阿州の英才と言われるがしょせんは井の中の蛙ではないか!」
その鋭い眼光は生徒達を震え上がらせました。
深井には就任と同時に、あるあだ名がつけられました。
それは、アナグマです。
小柄で前屈みの至誠、彫りが深く、奥目な顔つきが災いして
そう呼ばれました。
アナグマ校長は、生徒達から恐れられていました。

インタビュー・増田清次さん(74)
インタビュー・板東繁行さん(74)

このアナグマ校長は生徒をつかまえてはこういいました。
「勉強しろ!勉学こそが学生の本分だ」

当時、校長は学校運営に絶対的な権限をもっていました。
深井は強力なリーダーシップを発揮し
独自の学校運営に乗り出します。
深井がまず行ったのは優秀な教師をスカウトすることでした。
自分の足で全国をまわり、
一流の教師達を獲得することに心血をそそぎました。
その結果、深井のもとに集められた教師は
東京帝大や、京都帝大などの旧帝大卒十数名をはじめとする
まさに精鋭ばかりでした。
「全国でもこれだけの教師を揃えた学校はあるまい」
そう深井は豪語しました。

遠藤リポート

深井は年間6回の実力テストと補習を行い
生徒達に競争意識を植え付けました。

インタビュー・美馬準一さん

当時徳島中学はスポーツでも、
県内外で優秀な成績をあげ活躍していました。
しかし、深井はあくまでも勉学一本に絞りました。

インタビュー・板東繁行さん(74)

「勉強こそが学生の本分」
その方針が変わることはありませんでした。
深井の強力な指導の結果、徳島中学の進学率は急速に伸び、
昭和17年に上級学校へ進学した生徒は
150人を越えるまでになりました。

深井源治は明治42年、現在の岡山市一宮町に
農家の次男として生まれました。
家が貧しく、中学に行くこともままならなかった深井少年は、
苦学の末、難関と言われた第六高等学校、さらには
東京帝国大学法科に合格しました。
大学では新渡戸稲造や美濃部達吉といった教授らのもとで
当時の最先端の学問を学びました。
講義の内容がびっしりと書き込まれたノートからは
学問に対する深井の真剣な姿勢が伺えます。

高校時代から深井は一人の
大物政治家と親交を持つようになりました。
犬養毅。地元岡山県出身の代議士で後の首相となる犬養は
「憲政の神様」と呼ばれていました。
犬養と深井、二人の結びつきを示す書簡が
故郷の岡山県に残されていました。

遠藤インタビュー
深井源治の甥・関野謙一さん(74)

これは大正3年、犬養が深井に宛てた手紙です。
深井の大学入学に際して、犬養自身が保証人となることが
記されています。知人から深井の評判を聞いた犬養は
深井の援助をかって出たのです。
大学を卒業した深井は民間企業を経て昭和4年、
母校の第六高等学校、今の岡山大学の教授となりました。
深井と犬養、二人の親交はその後も続きました。
昭和7年、犬養毅が暗殺されました。
いわゆる五・一五事件です。
深井の恩人を殺したのは軍国主義に染まった一部の軍人でした。

深井が校長に就任した翌年の昭和12年、
日中戦争が勃発しました。
日本軍は南京を攻略し、国内は戦勝ムードに沸き返りました。

当時、中学以上の学校では数学などの一般の授業のほかに
軍事教練と呼ばれる授業が
週に4時間、義務づけられていました。
学生服の足元にはゲートル、
これが当時の中学生の出で立ちです。
軍事教練は行進の仕方や弾薬の装てん、銃の撃ち方まで行う
まさに戦争のための授業です。

指揮棒を持った軍人は生徒を指導しています。
当時の子どもたちに求めれていたこと、それは
「いつでも戦場に出られること」だったのです。
昭和16年、日本はアメリカとイギリスに宣戦を布告、
太平洋戦争が始まりました。
学校は軍隊への勤労奉仕や軍事演習への参加などを
次々と強要され、授業を縮小せざるを得ませんでした。
県内のほとんどの学校が、軍の求めに応じるなか、
深井校長だけは授業をやめようとはしませんでした。

インタビュー・増田清次さん(74)

軍当局はメディアを巧みに利用し、戦意高揚に努めました。
当時の学校では教師たちがこぞって軍事学校への進学をすすめ
こういいました。
「国のために一命をなげうつことこそ
日本男児の本懐である」
徳島中学でも海軍兵学校や陸軍士官学校を志願する生徒が
年々多くなりました。
しかし、深井は将来の日本を考えたとき学問こそが若者に
必要であることを説いていました。
4年生当時、海軍兵学校に入学することが決まっていた
小口信三さんはある日、深井校長に呼び出され
次のように言われました。

インタビュー・小口信三さん

時代はさらに混乱の渦にもてあそばれます。
昭和19年、学徒動員が全県で実施され、
多くの生徒が軍事工場へと動員されました。
翌昭和20年、戦局の回復は絶望的となり、
学校では全ての授業が停止されました。

しかし、ただ一校、徳島中学だけは別でした。
深井は残された生徒とともに懸命に授業を続けていたのです。
「生徒に一日でも長く、一時間で多く勉強させたい」

昭和20年3月、大変な事件が起こりました。
深井は学校に駐留していた部隊の連隊長に呼ばれました。

「貴様、軍に部屋を貸せないとは一体どういうことだ!」

連隊長は軍刀を床にドンと打ち付け深井を怒鳴りつけました。
資料室を兵士の休息場所として借りる約束が
深井には伝わっていなかったのです。
深井は軍の要請を断りました。
当時徳島中学に駐留していたのは
満州で関東軍として活躍していた蔵本の歩兵第43連隊でした。
数ある部隊のなかでも精鋭中の精鋭と呼ばれた部隊でした。
軍の意向が全てに優先するこの時代、深井の言動は
到底考えられないものでした。
部隊の最高指揮官と学校長の激しいやりとりは
しばらくの間続きました。
数日後、結局部隊は学校を出ていきました。
事を荒立てたくないという、
部隊長の配慮からだと言われています。
軍に対する深井の姿勢を象徴する事件、
いわゆる徳中の関東軍事件と呼ばれるできごとです。

同じ年、昭和20年7月4日、
徳島の町は米軍の空襲を受け、焼け野原と化しました。

徳島中学も全焼し、灰となりました。
生徒や教師たちは住む家さえ焼かれ
勉強どころではありませんでした。
学問を続けることは誰もが不可能だと思いました。
しかし深井はあきらめませんでした。
幸い焼失を逃れた渭城中学と県に頼み込み
校舎を使わせてもらう約束を取り付けました。
空襲から二カ月後、深井の働きで徳島中学は
無事9月からの新学期を迎えることができたのです。

にもかかわらず、深井校長の心は晴れませんでした。
深井は、軍の学校へ進学した教え子たちのことを
心配していたのです。

遠藤リポート

深井は復員してきた教え子たちに手紙を配り
学校に集まるよう呼びかけました。
4年生から海軍兵学校へ進学していた小口信三さんも
復員後、深井校長のもとを尋ねました。

インタビュー・小口信三さん

授業が再開され、学校が軌道に乗ったことを見届けた
深井校長は、県知事に辞表を提出しました。
「校舎を焼いた責任をとる」
こう、言い残して深井は徳島を去りました。
深井源治、このとき56歳でした。

遠藤リポート
岡山市、岡山簡易裁判所

教育者から裁判官へ
判事として働くうちに深井の顔からは、
厳格だったアナグマ校長の面影は消えて行きました。

インタビュー・甥 関野謙一さん

校長として厳格なまでに生徒を指導し
軍国化の圧力から学校と生徒たちを守ろうとした深井源治。
晩年は穏やかでどこか寂しさを漂わせていました。
昭和47年4月3日、深井は静かにこの世を去りました。
83歳の生涯でした。

深井源治が徳島を離れてから十数年後、
日本は高度成長時代に突入します。
深井のもとで教えを受けた子ども達はその時三十代半ば。
それぞれの分野で活躍し始めます。

板東繁行さんは
公務員として30年間公害問題に取り組みました。

美馬準一さんは
建築材料や衛生器具の卸売り会社を経営しています。

小口信三さんは
民間企業を定年まで勤めた後実家で農業を営んでいます。

増田清次さんは
深井と同じ教師の道を選びました。

生徒から恐れられ、
軍からは目を付けられ、
戦時下にあえて学問の大切さを説いた
深井源治。
彼もまた、
人を育てることで
今日の日本の礎を築いた
「反骨の教師」でした。

徳島の真夏を彩る「阿波踊り」
県内外から集まった130万人以上が
その熱気と興奮に酔いしれました。
先祖の霊を慰めるための精霊踊りがその起源と言われる
阿波踊りは明治以降、時代の移り変わりとともに
その姿を変えてきました。
庶民の中から生まれ、庶民とともに歩み続けた「阿波踊り」。
その100年の歴史を振り返ります。

明治、大正、昭和、そして現在までの移り変わりを
残されたフィルム映像などから振り返ります。

さて、徳島市の阿波踊りは15日、その幕を閉じました。
4日間の人では実に133万人。そのうち県外からは
68万人が踊りを一目見ようと詰めかけました。

さて、明治時代はいったいどんな踊りだったんでしょうか。
今とはかなり違っていたんです。

長かった藩政時代は幕を下ろし、
「明治」という新しい時代が始まりました。
徳島でも鉄道が開通したり、徳島公園が完成するなど、
西欧諸国の新しい文化が取り入れられました。
しかし、徳島の盆踊りには、江戸時代から300年の
伝統が受け継がれてきました。
徳島の盆踊り、その特徴は
「庶民誰もが気軽に参加でき、自由に踊れること」でした。
明治16年の新聞にはその年行われた阿波踊りの
盛況ぶりが掲載されていました。

「時鐘が午夜を報ずるともに、
ソラこそ12時だ、踊れ踊れと勢い込んで、
チャカチャカドンドン、ピューピューグワラグワラ。
人の安眠を害するも、明日の仕事がペケになるも
一切構いなく、新町、内町は申すにおよばず大岡、常三島の
場末までも右往左往と行き違い明け方ごろまで踊りいたる。」

当時の盆踊りは3日間、昼夜を問わずぶっ通しで
踊りあかしていました。

明治時代、日本は日清、日露戦争を戦い勝利します。
国内では各地で勝利を祝う催しが行われました。
徳島では「祝勝阿波踊り」が開かれ、
誰もが戦勝ムードに酔いしれました。
戦争を期にこのころからお盆以外でも
景気づけやお祝いの度毎に阿波踊りは
開催されるようになったのです。

大正時代になると庶民の暮らし豊かになり
様々な文化や思想が花開きました。
阿波踊りも時代を反映するかのように自由でユニークな
スタイルのものが多くみられるようになりました。

伴奏に琵琶を使っています。
こちらは鼓と三味線です。
虚無僧のような深編み笠をそろってかぶる仲間もいました。

これは大正4年、天皇の即位を記念して
徳島市の西新町で行われた踊りの様子です。
天皇の即位を喜ぶ当時の賑わいぶりがよくわかります。

しかし、大正時代阿波踊りをリードしていたのは
何と言っても花柳界、富町や内町の芸妓衆でした。

当時と変わらぬ阿波踊りの調べを
唄い続けるひとりの女性がいます。
多田こゆるぎさん93歳。
「お鯉さん」の名で知られる多田さんは
14歳の頃から芸妓として花街で活躍していました。
多田さんが唄う「よしこの」は
80年を経た今も聞く人の心をとらえます。

インタビュー

優雅で風情のある芸妓衆の踊りを一目見ようと
県内外からは多くの見物人が集まりました。
大正時代から昭和にかけて阿波踊りは
既に日本有数の盆踊りとして人気を集めていました。

これは昭和初期の阿波踊りを映したフィルムです。
町内を三味線で流す一行です。

以下未更新


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