2000/07/28
徳島の20世紀 〜22 満蒙開拓団の悲劇
昭和7年(1932年)3月1日。
「王道楽土」「五族協和」を合い言葉に満州国が成立しました。
満州国は日本が、大陸での権益を守るため
清朝最後の皇帝ふぎを執政に据えたいわば傀儡国家でした。
日本は広大な満州に100万戸、500万人の移民を計画し、
一般開拓民や満蒙開拓青少年義勇軍を送り込みました。ところが、昭和20年(1945年)8月、
ソ連の参戦によって大混乱におちいり
その際、開拓移民に多くの犠牲者を出しました。
「徳島の20世紀」22回目のけさは
国策として、満州へ駆り出された一般開拓民や
青少年義勇隊員の痛恨の証言をお聞きいただこうと思います。
現在の中国東北部に当たる「満州」は
面積が日本3.5倍、約130万平方kmで
人口は約4,400万人でした。
このうち日本人の満州への移民は、
一般開拓民22万人、満蒙開拓義勇隊員10万人の
あわせて約32万人と言われています。
当時、受け入れ側の満州拓殖公社がまとめた
昭和20年5月現在の資料によりますと
徳島県から一般の開拓民として
満州に渡られた方は1,243人、
青少年義勇隊員として行かれた方は2,082人で
合わせて3,325人となり
全国で20位となっていました。
けさは、辛く悲しい逃避行の末
やっとの思いで帰国することができた3組の方をご紹介します。
まず最初は
阿波郷開拓団の国本さん夫婦の場合です。
国本正巳さん(85)タケコさん(79)
阿波郷開拓団は阿波郡内の各町村から団員を募ったもので
市場町の国本さん夫婦はハルビンから遙か北の
*稜県双泉鎮
すいりょうけん。そうせんちんという所に入植しました。
国本正巳さんら18人は阿波郷開拓団の先遣隊として
昭和14年5月、一足先に双泉鎮に向かいました。
一年後の昭和15年。国本さんは結婚のためいったん帰国、
花嫁のタケコさんを伴って再び双泉鎮に戻ってきました。
阿波郷開拓団は次第に村らしくなってきました。
小学校もできました。
(インタビュー)
「生活はね、まあ楽なもんですよ。食べ物は満拓公社の方から
全部送ってくれたからね。いろいろ苦労して
探しまわらな、いかんことはなかった。
内地は統制があって、向こうの方が生活がし易かった。
砂糖でもたばこでも何でも自由に買えたから」
土地は一戸あたり10〜30haが割り当てられました。
これらの土地はすべて現地の農民から没収したものでした。
(インタビュー)
「土地をおこすんでも、大きなトラクターで全部おこして
粉砕していく、人間は種をまくぐらいのものだ。
あんな大きなトラクターは今でも日本に無いくらいですよ。
ドイツ製とアメリカ製があったんです。
それで原野をひきおこして(耕して)行く、
それはものすごく大きな機械ですよ。」
ところが戦争は日中戦争から太平洋戦争へと拡大し
阿波郷開拓団でも男性の殆どが現地召集を受けました。
昭和20ね(1945年)8月9日の
ソ連参戦は、地獄の幕開けとなりました。
(インタビュー)
「私のおる開拓団のところで終戦になったのは知らなんだが、
8月末だったね、聞こえてきたのが、
飛行機で『ハルビン何日、新京何日、日本人は全滅』という
触れが出たらしいんです。」
阿波郷開拓団に残された老人や婦女子の
辛く苦しい逃避行が始まります。
夫の正巳さんが現地召集されたため妻のタケコさんは
3歳と、生後8カ月の乳飲み子を抱えての移動でした。
約200人の阿波郷開拓団の人たちは
鉄道のある*稜駅をめざしました。
(インタビュー)
「*稜県という所に行って背負っていた子を下ろしてみたら
よう肥えていた8カ月くらいの子が
やせ細って*稜駅で亡くなったんです。」
疲れ果てた阿波郷の一行は
やっとの思いで稜駅から汽車に乗り込むことができました。
ハルビンには大勢の日本人避難民が集結しておりました。
合流した阿波郷開拓団の人たちは日本人学校で
約40日間の集団生活をしましたが、この間食糧不足による
栄養失調で多くの人がバタバタと死んでいきました。
ハルビンでは極寒の冬は越せないと、
11月、暖かい撫順(ぶじゅん)を目指し
過酷な列車の旅が続きます。
撫順では3歳の長女が栄養失調から
肺炎を併発し、死亡しました。
生後8カ月の長男を失ってからわずか一か月後のことでした。
二人の子どもを失ったタケコさんは
昭和21年6月、
引き揚げ船の基地、コロ島にたどり着きました。
そして6月末、夢に見た故国に帰ることができました。
夫の正巳さんがシベリアから帰国したのは
それから1年後の昭和22年6月でした。
戦後55年、国本正巳さんにとって
「満州」はいったい何だったのでしょうか。
(インタビュー)
「満州移民という名目でね、国に駆り出されたことに
初めて気が付いた。国が勝利を得たいために
我々はうまく利用された。」
国本さん夫婦は帰国後3人のお子さんに恵まれ
満州で失った2人のお子さんの悲しみを
いやしているように見えました。
ところで、この古ぼけたコピーは、阿波郷開拓団の名簿です。
亡くなった方には斜線が入っています。
最後は179番となっていますが
どうも欠落しているようです。
「おはようとくしま」が昭和49年に
「阿波郷開拓団の悲劇」というテーマで放送した折りには
この名簿の原本がありまして
全部で211人中、87人が亡くなり、
20人の方が行方不明とされていました。
次に「大陸の花嫁」の美名のもとに
満州へ渡った赤松トヨコさんの場合をご紹介しましょう。
日本が国策として満州への移民を奨励しだしたのは
昭和13年からでした。
昭和13年の暮れ。当時18歳の赤松トヨコさんは
香川県の開拓団員に嫁いだ姉の夫の弟と結婚し、
姉妹そろって満州へ旅立ちました。
第七次香川開拓団は約400人で
満鉄の*稜駅からさらに55キロ奥地に入った
王栄廟(おうえびょう)に入植しました。
夫の善太郎さんは開拓団のバター工場で
主任を務めていました。
開拓団はたびたび匪賊に襲われましたが
それでもまだ生活は安定していました。
入植して2年目の昭和15年に長女が生まれ
4年後に次女が生まれました。
(インタビュー)
「想像もしていない寒さ、零下45度まで下がった。
団員が山へ伐採に行くと、
馬の息がつららになるほど寒かった。」
香川開拓団の人たちが敗戦を知ったのは
昭和20年8月19日のラジオ放送でした。
さて、この本は、赤松トヨコさんが平成7年に書いた手記です。
「我が子に捧ぐ〜北満の追憶〜」というタイトルで
この中に当時のことが詳しく記されています。
ちょっと匪賊とのたたかいの模様をご紹介しましょう。
「翌朝も千名余りが真っ黒になって押し寄せてくる。
城壁近くになるとピューと笛を吹き、一斉に散会した。
私達は、城外から包囲され、袋の中の窮鼠というところで、
私は正子に静かにしているようにいい聞かせて布団に伏せさせた。
主人は本部内にいるが顔を見ていない。
『どうぞ、無事でいてくれますように』
姉は臨月の腹をしていた。
私も克子を負うい、婦人たち4,5名とスクラムを組んで
部屋の入り口を守った。
あちらこちらから突撃の声。
恐怖におののく胸を抑え、
『ああ神様、一人でも犠牲者が出ないようにお守り下さい』と
祈るのみであった。
東門を破った匪賊は一斉に南の門を襲った。」
このように戦後の混乱の中で
物資欲しさの匪賊が連日のように開拓団を襲いました。
さて、待ちに待った引き上げ命令が出たのは
昭和20年の10月でした。
王栄廟から*稜駅まで55キロの道のりを
子どもを負ぶって行くのは並大抵のことではありません。
食糧不足の上に気管支炎を患い
子ども達の体力は次第に弱っていきました。
*遂綏綏稜からハルビンまで、さらに新京(しんきょう)、
奉天(ほうてん)まで無蓋列車で苦難の旅を続けました。
(インタビュー)
「奉天に着いたときにはすでに背中で亡くなっていた。
埋める場所がどこもない。やっと春日小学校の窪地に埋めた。
克子が10月7日、正子がそこで亡くなってから
もう一日か二日、場所を探して埋葬できたのに・・・。
やっぱり頭から離れない。」
赤松トヨコさんは平成8年、
51年ぶりに子どもの遺体を埋めた小学校を訪ねてみました。
しかし、小学校は跡形もなく
今はレストランが建っていました。
トヨコさんはレストランの店主にお願いして
テーブルの上に祭壇を設け、
お菓子や果物を供えて娘達の霊を弔いました。
結局、赤松トヨコさんは
満州で生まれた2人の子どもを土に返し、
昭和21年6月、コロ島から引き揚げ船で帰国しました。
トヨコさんにとって戦争とはいったい何だったんでしょうか。
インタビュー・赤松トヨコさん(78)
「私は何のために戦争をしたのかしらと思うと、
悔しいし、悔やまれて、二度と戦争はしてもらいたくない。
結局、犠牲になるのは下の兵隊さんやあんな下々の者だけが
犠牲になったんかなぁと思ったら、その人たちに対して
可哀想で、絶対に戦いは二度としてもらいたくないと
思っています。」
香川開拓団は約400人中、半数の
200人の方が帰らぬ人となりました。
赤松トヨコさんは、帰国後、子宝に恵まれず、
夫の善太郎さんにも平成6年、先立たれました。
最後にご紹介しますのは
満蒙開拓青少年義勇軍に参加していた
石川兼千代さんの場合です。
満蒙開拓青少年義勇軍は昭和13年、
一般開拓民を補足するため設けられたもので、
15歳から18歳の少年で組織されました。
そして、最終的には10万人にのぼり
移民総数の三分の一を占めるまでに成長しました。
石川兼千代さんは三好郡山城町の出身で、
8人兄弟の長男でした。
石川さんは、昭和15年17歳の時、
先生の強いすすめで
満蒙開拓青少年義勇軍に志願しました。
これは徳島市の千秋閣で行われた
壮行会の記念写真です。
石川さんは茨城県の内原訓練所で
義勇軍の促成教育を受けた後
満州の鉄麗にある義勇軍訓練所で3カ年の
厳しい開墾作業と、軍事訓練を仕込まれました。
石川さんが所属していた土山中隊は
256人でこのうち徳島県出身者が86人いましたが
結局、30人が亡くなりました。
鉄麗の訓練所では当時、少年達の間に
「トンコン病」と呼ばれる病気がはやっていました。
インタビュー・石川兼千代さん
「トンは1tの屯。コンは開墾の懇に病と書いて
トンコン病と言っていた。14〜15歳の子どもが
自分の故郷や親兄弟を思って、晩になったら
シクシクと声を殺して泣く状態をトンコン病と言っていた。」
昭和19年の暮れ、
石川さんは満州に永住する決意で嫁さん探しのため
故郷に帰りました。そして、親の反対を押し切り、
幼な友達のトシヱさんと駆け落ち同然の形で満州へ戻りました。
兼千代さん22歳、トシヱさん23歳の時です。
石川さん夫婦はソ満国境に近い
三洲(みくに)義勇隊開拓団に入りました。
次々と現地召集を受ける中で、石川さんは
幸運にも徴兵をのがれました。
昭和20年8月、ソ連参戦の時点で
入所当時269人いた三洲義勇隊開拓団は
殆ど兵役にとられて大人12人、子ども1人という状態でした。
8月10日から悲劇の逃避行が始まりました。
このとき、頼みにしていた軍隊はどうしていたのでしょうか。
インタビュー・石川兼千代さん(77)
「私達に、関東軍も、行政区の責任者も
戦争が始まったということさえも知らされないで
自分だけがトラック仕立てで80数キロのソンゴに逃げた訳です。
これがね、彼らの実際の態度だったのです。
これは、石川さん夫婦が共同執筆した手記です。
「激動の時代を生きる」というタイトルの小冊子です。
この中には悲劇がいっぱい詰まっていますが
時間の関係で割愛させていただきます。
妻のトシヱさんは今でも
あの時の惨劇が忘れられないと言います。
インタビュー・妻トシヱさん(78)
「子どもさんを連れてた方が、若い人に頼んで
とても子どもを連れて行ったんでは全体の行動がとれんからと
言って銃殺をお願いしたんだと思うんですけどね・・・。
丁度、あくる朝井戸を見たら
1歳と3歳位の男の子がモミジのような手を水に
浮いていたのを見たことですね。」
石川さんが終戦を知ったのは
岐阜県出身者の柳毛構(りゅうもうこう)開拓団に
合流したときでした。
すでに、終戦から一カ月も過ぎていました。
このあと石川さん夫婦は通北に集結、
ここで中国軍によって
帰国組と残留組に分けられました。
体だの丈夫な石川さん夫婦は
不幸にも残留組に入れられました。
鉄道でハルビン、牡丹江、佳木斯を経て
鶴崗まで運ばれ鶴崗炭坑で厳しい重労働を課せられました。
この間、昭和22年8月に生まれた長男を
1年一カ月後に破傷風で失いました。
結局、石川さん夫妻が日本に帰国できたのは
昭和33年ですが兼千代さんにとってみますと
18年間も満州にいたことになります。
インタビュー・石川兼千代さん(77)
「満州へ行くときには国策として行ったんですよ。
万歳、万歳と村をあげて見送られて行ったんですよ。
ソ連と戦争になったとき、我々はあの北の果てに
捨てられたわけです。」
戦争でいつも損をするのが民衆です。
日本は国策によって大勢の移民を満州に送り込みましたが
最後にははしごをはずすようにして大陸に捨て去ったのです。
このように「棄民」によって
多くの悲劇が生まれました。
しかし、一方では
日本が中国に侵略して大きな被害をもたらせた
加害者としての責任を決して忘れてはならないと思います。
司会
遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ
制作
胡田俊一