2000/07/14
徳島の20世紀 〜21 高校野球の100年
夏の甲子園の出場権をかけた
県高校野球選手権大会がきょう開幕します。春の選抜大会、そして夏の選手権大会と
甲子園を頂点に全国各地で
高校生が白球を追いかける姿は
本当にすがすがしいものです。今や、野球は国民的スポーツとして定着していますが
徳島で初めて本格的な野球の試合が行われたのは1900年。
今からちょうど100年前の事です。シリーズでお伝えしています、徳島の20世紀。
21回目のけさは、徳島の高校野球の歴史を
貴重な映像とインタビューで振り返ります。県内での高校野球の主なできごとをパネルにまとめました。
徳島の高校野球の歴史は1898年、明治31年までさかのぼります。
この年、徳島中学校、現在の城南高校に野球部ができます。
平成10年に建てられた「野球発祥校」の石碑 明治三十一年わが校に野球部が創られた徳島県における野球の始まりである。
現在の城南高校 (旧・徳島中学校)
(VTR)
城南高校にある「高校野球発祥の地」記念碑リポート
徳島中学校に続いて、脇町中学、富岡中学
そして徳島師範学校と
野球部は明治30年代に次々と生まれました。
約100年前が徳島の高校野球のプレーボールの時代です。1900年には徳島中学が初めて県外のチーム、
高松中学と試合をします。結果は高松中学の圧勝でした。1915年、現在の東大、旧制一高野球部で活躍した
中馬 庚(ちゅうま・かなえ)が
脇町中学、現在の脇町高校に校長として赴任してきます。この中馬校長は、
実は「ベースボール」を「野球」と訳した人とされる人物です。(スタジオ)
1924年、
中等学校生のスポーツ対校試合が全て禁止されます。
これは徳島中学と徳島商業の乱闘事件をきっかけにしたもので
禁止命令は3年間続きました。
1929年には
西の丸運動場が完成。県内の野球のレベルも上昇します。
そして、1935年。
徳島商業が県勢として初めて甲子園に出場します。
そして、その7年後の1942年(昭和17年)8月。
徳島商業は、後に「幻の甲子園」と呼ばれる大会で
県勢として初めての全国制覇を成し遂げます。
元徳島商業野球部監督 稲原幸雄さん(93)
「昭和16年は全国大会が中止。翌17年は国民精神を作興させるため野球をやらせようと文部省主催で開かれた」
稲原さんと加藤さんインタビュー 同じ全国優勝なのに記録に残らんとは、けしからんと抗議した。
朝日新聞主催とか記録に残らんとかは関係なく優勝はうれしかった。(VTR)
稲原さん
文部省の主催となったこの大会に出場した徳島商業は
2回戦で優勝候補筆頭の、水戸商業と対戦します。
加藤さん
”幻の甲子園”優勝投手 加藤順二さん(74)
この大会は戦時中とあって
軍国主義的な色合いの濃いものでした。
それまでローマ字で書かれていたチーム名は
「徳島県商」と漢字に直され
バックスクリーンには
「勝って兜の緒を締めよ、戦い抜こう大東亜戦」の
文字がありました。
加藤さん
優勝候補の水戸商業に1対0で競り勝った徳島商業は波に乗り
次々と勝ち進んでいきました。
そして決勝戦の相手となった京都の平安高校も
8対7で下し、徳島商業は
全試合1点差勝利で優勝を果たします。
しかし、この大会の主催は
高野連と朝日新聞社ではなく
文部省の主催だったため正式な歴史としては残されず
優勝の印として残ったのはこのウイニングボールだけでした。
稲原さん
加藤さん
(スタジオ)正式な記録としては残らなかったまさに幻の優勝の5年後
まだ敗戦の混乱の中にあった1947年(昭和22年)の選抜大会で徳商は見事な優勝を果たします。
(VTR)
徳島商業の優勝の原動力となったのは子どもの頃からの幼なじみだった蔵本投手と山口捕手のバッテリーでした。特にエース蔵本はキャプテンと4番バッターを務めるまさにチームの大黒柱で甲子園での快進撃は徳島にとって当時の大ニュースでした。
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1947年選抜大会の優勝投手 蔵本忠温さん(70) 蔵本さん
蔵本さんは、連投に次ぐ連投で肘が曲がってしまうほどでしたが、決勝戦の小倉中学との試合も延長13回を投げぬき、敗戦にうちひしがれていた県民を勇気づけました。
蔵本さん
(スタジオ)
1948年、昭和23年。
高校野球はひとつの節目を迎えます。
学制改革により中等学校野球から高校野球に変わりました。
1951年には、センバツで鳴門高校が「小さな大投手」栗橋と「渦潮打線」の活躍により優勝を飾ります。そして1953年には県営徳島球場が完成します。
(VTR)
当時は中心部から遠いという指摘もありましたが山に囲まれた野球場として県民に親しまれ
四国大会では2万5千人の観客を集めて天覧試合も行われました。(スタジオ)
1958年、昭和33年の夏には
球史に残る名勝負、徳商・板東と魚津高・村椿の延長18回の投げ合いが全国の野球ファンの目を釘付けにしました。
1年生の時から、全国的に注目を集めていた坂東英二投手にとってこの大会は、最初で最後の甲子園でした。
そして準々決勝。対富山・魚津高校戦は延長18回、3時間38分にわたる死闘となりました。
再試合の結果、魚津を下した徳島商業でしたが結局疲れには勝てず、決勝で涙を飲みました。
当時の徳島新聞は、街頭テレビの前の人だかりがしばしば自動車を立ち往生させたと伝えています。(スタジオ)
1964年、昭和39年の春には海南高校が初出場、初優勝という快挙を成し遂げました。
(VTR)
これは、徳島駅前で行われた海南高校の壮行式の様子です。
この若者が、剛腕尾崎将司投手。
激励のあいさつの後、一行はバスで港へ向かいました。
今なら甲子園へは明石海峡大橋を渡ってというところですが、
当時は船で甲子園へ向かうのが当たり前でした。
海南高校・甲子園初出場 1964年3月22日徳島駅前での壮行会 (Real Playerでご覧いただけます。映像のみ
(四国放送フィルムから)
当時の海南高校野球部は尾崎投手を中心にしたチームでしたが初出場ということもあって前評判は決して高くありませんでした。
しかし、市川監督の冷静さを失わないさい配のもと一戦一戦無欲に戦い、迎えた尾道商業との決勝戦でも逆転で初出場・初優勝の快挙を成し遂げます。
元四国放送アナウンサー 坂東志朗さん
海南高校からプロ野球入団の決まった尾崎将司選手 坂東志朗さんと
(スタジオ)
1974年の春には
池高旋風が全国を駆けめぐりました。わずか11人、池田高校野球部はさわやかな戦いぶりで準決勝を果たしました。
当時の四国放送の特別番組から一部を紹介します。「野球人生」より
(スタジオ)
そして、1982年(昭和57年)
好投手、畠山を擁する池田高校は
それまでの記録を次々と塗り替える猛打で
夏の大会を制しました。(VTR)
池田・やまびこ打線の柱が
このクリーンアップの3人。
エースで4番の畠山。
後に「阿波の金太郎」の異名をとる水野。
そして江上。
この江上で忘れられないのがこのシーンです。早稲田実業戦
実況アナ「荒木大輔、鼻つまむ!」
準々決勝で荒木大輔を擁する早稲田実業を粉砕した
やまびこ打線はとどまるところを知らず決勝戦へと進みます。池田初優勝を伝える徳島新聞の1面です。
甲子園の打撃部門の記録を次々と塗り替えたやまびこ打線は
高校野球を変えたと言われました。
元池田高校野球部長 白川進さん (Real Player) 郷土文化会館に大勢の人「夢見心地でした。」
初優勝の後、池田は選抜大会も制しますが
3連覇をかけた大会では、清原、桑田を擁したPL学園に敗れます。そのあと1986年(昭和61年)にも
梶田投手を擁して選抜大会で優勝しましたが
1992年には蔦監督が引退し、
高校野球を変えたと言われた池田高校もひとつの時代を終えました。けさは、高校野球の100年を振り返りました。
白球を追いかける若者のひたむきさが生む数々の名ドラマ。
戦争などに翻弄されながらも100年に渡って私たちを、時に勇気づけ、
時に楽しまれてきた高校野球の夏が今年もまた始まります。
司会
遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ
制作
井上彰夫