2000/05/25 徳島の20世紀 〜18 「養蚕・製糸」

ゲスト 元徳島県養蚕農協連専務 片保正昭さん

初夏の日差しを浴びる桑の葉。かつて吉野川の流域には
広大な桑畑が広がっていた時代がありました。
当時徳島は西日本有数の養蚕天国として知られ
製糸業は徳島の経済を支える基幹産業のひとつでした。

今ご覧いただいているのが徳島で作られた生糸です。
徳島の生糸は良質だと評判でした。

その生糸の原料となるのがこちらの繭。
蚕を飼う養蚕と生糸を作る製糸は一体となった産業です。

毎週木曜日、シリーズでお送りしています徳島の20世紀。
18回目のけさは養蚕と製糸の百年を振り返ります。

スタジオには徳島の養蚕・製糸に詳しい
元県養蚕農協連専務理事の片保正昭さんにお越しいただきました。

さて、みなさんは蚕の都「蚕都(さんと)」という
言葉をご存じでしょうか。
徳島の蚕都と言えば、麻植郡鴨島町を指します。
かつて製糸業で栄えた鴨島町を取材しました。

(VTR)
リポート

筒井製糸が創業されたのは明治43年。
脇町などにも工場が作られ
一時は県内の18%のシェアがありました。

(筒井製絲 川真田さんインタビュー)

昭和初期、鴨島には筒井、片倉の大工場を軸に
20社近い中小の製糸業者が林立しました。
また蚕の卵をふ化させて農家に提供する
蚕種(さんしゅ)業者も集中し、
また蚕都の名前にふさわしい様相を呈していました。

多くの農家が養蚕を営んでいた美馬、三好郡では
この写真のような繭を買い取る場所がいくつも見られました。
しかしこの養蚕・製糸も化学繊維の普及などで
次第に衰退の道をたどります。

(筒井製絲 川真田さんインタビュー)

筒井製糸と双璧の規模を誇った片倉製糸の鴨島工場に
原料課長として務めていた井上進さんに
当時の話を伺うことができました。

井上進さんインタビュー
橋本昌子さんインタビュー

日本有数の大企業、
片倉製糸が鴨島に工場を置いたのは大正11年。
しかし高度成長期以後の製糸業の衰退の流れには勝てず
昭和37年。工場を閉鎖します。

井上進さんインタビュー

筒井製糸の川真田さんが話していたように
徳島の養蚕はそれまでの藍作からの転換でした。
こちらの表をごらんください。

これは明治から昭和にかけての
藍と、蚕のエサとなる桑の作付け面積の移り変わりです。
このグラフからも藍から養蚕という流れがはっきりとわかります。

片保さんにインタビュー

一時は日本の富国強兵、殖産興業というスローガンを支えた
養蚕・製糸ですがその隆盛は次第に陰りを見せ始めます。

これは、昭和37年6月に撮影したニュースフィルムです。
農家が生産した繭を出荷する様子ですが
もう、この当時は養蚕・製糸業はナイロンなど化学繊維の普及や
外国産の安い生糸の輸入などによって
下降線をたどり始めていました。

三好町養蚕農家リポート

かつては県内有数の養蚕地帯だった三好町で
養蚕農家の池本長治さんを訪ねました。
池本さんの家では明治30年頃から養蚕を始めましたが
次第に規模を小さくしながら現在に至っています。

池本さんにインタビュー

池本さんの家では養蚕で得た収入で6人の子どもを育てました。
しかし、その後養蚕から米など他の作物へと
比重が移っていきました。

池本シゲ子さんインタビュー

養蚕農家は、
県内有数だった三好町でも今は池本さんの1軒だけ。

まず、県内の養蚕農家数の移り変わりからご覧ください。

ピークだった昭和8年には3万9千戸を越える農家が
養蚕に従事していましたが
戦争の終わった昭和20年には2万戸を割り
去年にはついに188戸にまで激減しました。

次に繭の生産量の移り変わりです。
こちらも昭和8年には8,900トンを上回っていましたが
急激に減り、平成11年には26トンとなっています。

片保さんにインタビュー

こうした状況の中、養蚕・製糸の技術も後継者不足で
受け継ぐ人が減り続けています。

(VTR)
徳島県農業試験場鴨島分場リポート

明治39年に創立され蚕業試験場、
そして蚕業技術センターとして養蚕・製糸を
研究という側面から支えてきたのがこの施設です。

農業試験場金山さんインタビュー

片保さんにインタビュー

けさは、徳島の20世紀
養蚕・製糸の百年を振り返りました。

(VTR)
製糸業が華やかなりし頃は
県内でもあちらこちらで製糸工場の煙突を目にしました。
しかし藍作からの流れが養蚕・製糸業を
過ぎ去っていくのと同時に煙突の姿も消えていきました。
この使われなくなった煙突こそ
徳島の一時代を支えた養蚕・製糸への鎮魂碑なのかもしれません。


司会

遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ

制作

井上彰夫