2000/03/31  徳島の20世紀 〜12 東新町の100年


写真で見る・東新町商店街の歴史


 

かつて徳島には「新ブラ」という言葉がありました。
東京の「銀ブラ」に対抗して新町を歩くことを「新ブラ」と呼んだのです。

徳島市の新町地区は戦前までは西日本でも有数の商店街でした。
新町を歩くことは当時の人々にとってこの上ない楽しみだったのです。

「東新町」それは徳島の人々にとっての夢の街、あこがれの街だったのです。

毎週シリーズでお送りしています「徳島の20世紀」
12回目の今日は東新町の100年を振り返ります。

まずは東新町の場所を地図でご説明します。

東新町はJR徳島駅から南西の方角、新町橋や眉山のある方ですね。
こちらに500mほど行ったところです。

古くからの商売の町でその歴史は江戸時代までさかのぼります。

(VTR)
江戸時代、現在の城山に徳島城が築かれ城の周りに城下町ができた時、
商人達も数多く集められました。

まずお城に近い内町地区にはしろに品物を納める御用商人が多く集まりました。
そして、お城から見て川向こう、今の新町地区には町人を相手に商売する店が集まったのです。

(VTR)

「内町人に新町者 佐古の奴らに 二軒屋のガキ」

内町人に対し新町ものと低く見られていた新町の商人たちですが
彼らこそが庶民の生活を支えていたのです。

こちらは明治2、3年頃の徳島市中心部の地図です。

 

これが徳島城のあった城山「御城山」と書いてありますね。
城山の南の内町地区、通町や八百屋町などの地名が見えますが、
ここに阿波藩の御用商人たちが店を構えていました。
そして新町川の向こう側が新町地区ですが現在の東新町あたりを見ると
鍛冶屋町と呼ばれていました。
東新町というのは、明治以降の町名で以前は鍛冶屋町と呼ばれていたのです。

これを西新町と明治5年の調査で比較すると当時、西新町にあった店は
呉服の古着屋や小間物屋など227戸にのぼりました。
一方、東新町の店は小間物屋や呉服屋など105戸にとどまっていました。

明治5年の東新町・西新町の店 (徳島専門店会のあゆみより)
東新町 小間物15。呉服14.呉服古着12。荒物9など合計105戸
西新町 呉服古着21。小間物14。穀物11。古着10など合計227戸

文明開化が進みにつれて東新町は買い物客でにぎわう繁華街になっていくのです。

(VTR)
明治32年、県内初の鉄道が徳島・鴨島間に開通し仕事や遊びで多くの人が徳島市内にやってくるようになりました。
徳島駅を降りた人々の多くが当時の商業、娯楽の中心地だった元町や新町方面に向かったことから徳島駅から新町橋を渡って眉山に至る道は多くの人でぎわうメインストリートに変わりました。
こうした流れの中で東新町は次第に人が集まる繁華街になっていきます。
衣服や雑貨など多種多様な小売店が集まる東新町は買い物に便利で
当時徳島では手に入りにくかったハイカラな洋服を扱う店も
早くからありました。
また、明治の終わりごろから東新町周辺にいくつもの映画館ができて
大きな人気を呼んだことも人々の足を東新町に向けました。

(インタビュー)



こちらは昭和8年ごろの東新町1丁目の地図です。
ざっと見ただけでも呉服屋さん、化粧品店、履き物屋さんと
様々なお店が並んでいます。

当時、小売店がこれほど集まった場所は他にありませんでした。
昭和10年ごろには東新町は県内はもちろん、四国でも随一の商店街として賑わうようになります。

(VTR)

昭和の初めの東新町商店街には
既に布製のアーケードが取り付けられていました。
街灯の光で夜でも明るく、道はきれいに舗装され
流行の最先端を行くモダンな町だったのです。

大正から昭和の初めにかけて徳島で暮らした文人モラエスは
当時の繁華街についてこう記しています。

「忙しく仕事に追われている人、
せかせかと通行する人の群れで賑わっていて
なかには多くの女や子供も入り混じってひっきりなしに
足を止めてはショー・ウィンドの前に立ちはだかったり
ときには店内に入って買い物したりしている。」



東新町のカバンや靴などの店「若林」は、江戸時代から続く老舗です。
昭和の初め頃の店の様子について現在88歳の
若林育さんにお聞きしました。

(インタビュー)

東新町は、買い物客にとっても特別な場所でした。
戦前から徳島市内に住む大知アキノさんに
当時の東新町の思い出をお聞きしました。

(大知さんインタビュー)

昭和9年、東新町に新しい形の店が開店します。
新町百貨店、丸新の登場です。
3階建てのビルディングで服、化粧品、家具、おもちゃなど多彩な商品を販売し
食堂や遊戯施設まで備えた近代的なデパートはたちまち大人気となります。
戦後、丸新デパートの中でメガネ店を営んできた篠原正夫さんに昔の丸新についてお聞きしました。



(篠原さんインタビュー)



丸新開店の翌年には
一楽屋百貨店が丸新の隣にオープンします。
丸新を上回る4階建てのビルには県内では初めての
エレベーターもありました。
負けじと丸新も5階建てエレベーター付きの新館を建設。
2つのデパートが激しく火花を散らします。
デパートに対抗して東新町の商店街も
様々なアイデアやイベントでお客さんを集めます。
伝統的な呉服屋さんでもショーウインドーに商品を並べ
マネキン人形を使うなどお客さんにわかりやすい
販売形式を取り入れるようになりました。

また、徳島市中心部の専門店会はスタンプカードを作りました。
1円の買い物ごとにスタンプを1つ押して50たまると
2円の品物と交換するという
現在のスタンプカードと同じシステムです。

昭和11年には買い物客を行き先不明の謎の船
ミステリーショップの旅に招待するという
イベントを行い大きな話題を呼びました。

大型店と地元商店街の競合は東新町を活性化し、
ますます買い物客を引きつけていきました。

(スタジオ)
戦前の東新町界隈に関する物を集めました。

こちらにあるのは明治から昭和の初めにかけての宣伝のチラシです。

このチラシは東新町の隣の籠屋町の店が配ったものです。
時代は日露戦争の頃ですね、
「旅順陥落祝」と書いてあります。
また、このチラシは藍住町内にまかれたもので
20世紀は初めには既に郊外から徳島市中心部に
お客さんが来ていたことがわかります。
その隣は昭和10年頃の丸新のチラシです。

その横は一楽屋百貨店のチラシです。
このように戦前から広告に力を入れていたんですね。

こちらは戦前の呉服店で使っていた物です。

まず、これはシマ帳といって生地のカタログです。
ページをめくると生地の見本がびっしりと
貼り付けられています。
ショーウィンドーができるまでは
お客さんはこのシマ帳を見て生地を選んでいたんですね。
また、こちらは戦前の呉服屋で店員の方が着ていた法被です。
当時、流行の先端をいっていた東新町ですが
店の人やお客さんの服はまだまだ和服が主流だったようです。

昭和の初め、徳島随一の商店街としてにぎわっていた
東新町ですが次第に戦争の足音が迫ってきます。

(VTR)
昭和16年に始まった第二次世界大戦は
商店街にも暗い影を落とします。
電気の節約のためデパートのエレベーターは停まり
チンドン屋を使った派手な宣伝活動も禁止されます。
「ぜいたくは敵だ」のかけ声に深刻な物不足。
店の店員も戦場に駆り出され商店街は
徐々に活気をなくしていきます。
昭和20年7月3日。
徳島市はB29の空爆を受け
一面の焼け野原と化しました。
徳島一の商店街・東新町も例外ではなく
ほとんどの建物が灰になりました。
代々、東新町で呉服屋を営んできた竹原さんに
空襲直後の様子についてお聞きしました。

(竹原さんインタビュー)

終戦後、竹原さんのお父さんをはじめ商店街の人々は
ただひとつ焼けずに残った竹原さんの倉に
毎晩のように集まって話し合いました。

(インタビュー)

こうして戦後すぐに
「新町商士隊」というグループが結成され
東新町の再建に乗り出しました。
商店街の人々は自ら焼け跡の瓦礫を片づける仕事をおこなって、
町づくりの資金を作り道幅を広げるために通りに面した店は
土地の一部を提供しました。
こうして昭和22〜3年頃には多くの店が営業を再開し、
東新町に活気が戻ってきます。

(インタビュー)

昭和20年代後半の後継機を経て
人々が買い物を楽しむゆとりを取り戻しつつあった昭和30年代、
東新町には大勢の買い物客が押し寄せ
再び県内一の商店街としてにぎわいました。
昭和30年には戦前の布のアーケードに代わって
金属製のアーケードがお目見えし
戦後の東新町の名物になりました。

これは昭和38年の歳末の東新町です。
毎年この時期は普段の日にもまして
たくさんのお客さんが県内各地から詰めかけました。

これは昭和37年のクリスマスのおもちゃ屋さんです。

戦後間もなく営業を再開した丸新デパートにも
大勢の買い物客が詰めかけ
30年代には2度も店舗を増築するほどでした。
それでも忙しいときはお客さんに整理券を配って
待ってもらうこともあったそうです。
また屋上の遊園地は子ども達に大人気でした。
一楽屋百貨店は戦後、サカエヤに変わりました。
これは昭和34年の店の様子ですが
カラフルな水着やゴルフ用品など
当時の最先端の品物がならんでいます。

これは昭和34年の夏、商店街に氷づけの花が
飾られた時の模様です。
物を買うだけでなく面白いこと、楽しいこととの出会いも
東新町の魅力でした。

やがて高度成長期が終わり交通の主役が
鉄道からマイカーに移った昭和50年代。
広い駐車場を備えた郊外型の大規模店が県内に相次いでオープンし
東新町のにぎわいにもかげりが出てきます。

そして昭和58年、徳島駅前に
徳島そごうが開店します。
県内ではかつてない規模のデパートが駅前に立地したことで
この年の新町地区の通行量は
昭和49年の半分以下にまで落ち込みました。
平成7年、丸新百貨店が閉店し、
60年余りの歴史に終止符を打ちました。
東新町の顔とも言える丸新の閉店は
ひとつの時代の終えんを告げるものでした。

(スタジオ)
そもそも東新町が
徳島一番の商店街になっていった理由の一つには
鉄道ができたこと、つまり交通機関の発達があったのですが、
皮肉なことに交通がさらに発達してマイカーの時代になると
駐車場の不足が弱点になり、
また、今までお客さんを運んできてくれた徳島駅の駅前に
デパートができたことで客足が遠のいてしまったということですね。

以前は、徳島で最新のものが手に入るところは
東新町しかなかったんですが、最近は郊外の大型店や
あるいは高速道路で神戸まで買い物に行く人も
珍しくありませんね。
買う人にとっては便利になったわけですが
東新町に新しい時代がやってきたということでしょうか。

(VTR)

去年、東新町1丁目のアーケードがふき替えられました。
新しいアーケードは
陽の光を取り入れる構造で太陽の光が降り注ぐ
商店街の雰囲気はがらりと変わりました。

20世紀、東新町が県内随一の商店街だった時代は
既に過去のものとなりました。
しかし、次の世紀を目指して目指して
東新町は新たな時代を歩み始めています。

 


写真で見る・東新町商店街の歴史

明治42年 西新町
S3HIGASI.JPG (29663 バイト) 昭和3年 東新町
S10HIGSI.JPG (27630 バイト) 昭和10年の東新町
S12MARU.JPG (26758 バイト) 昭和12年丸新 新装オープン
S25HIGSI.JPG (29584 バイト) 昭和25年 東新町
 昭和30年アーケードが完成
ARCADE1.JPG (22916 バイト) ARCADE2.JPG (28061 バイト)

資料提供
サカエ産業。大丸呉服店。竹原俊二。徳島商工会議所。徳島メガネ。三船哲治。若林(敬称略)

司会
遠藤彰良、宗我部英久、物部純子

制作 
三浦審也