
かつて鳴門には広大な塩田が広がり、全国の生産量の1割を占めるほどの塩の一大生産地でした。
しかし照りつける太陽の下、海水から塩を作る作業は大変な重労働でした。

「雨よふれふれ千百日も浜のつばてが腐るまで」
きつい仕事から逃げたいという本音が労働歌の中にも唄われています。
しかしその塩田も30年前にすべて姿を消しました。
専売制、技術革新、労働争議、マラソン…。
塩田を舞台に繰り広げられた20世紀の意外な歴史をひも解いていきます。
テレビの前のみなさんは徳島に塩田があったことを憶えていますでしょうか?
塩田があったこと自体知らないという方も今では多いかと思います。
シリーズでお送りしています「徳島の20世紀」11回目の今朝はその塩業の歴史をたどっていきます。
その塩田がどこにあったかといいますとこちらご覧下さい。
鳴門がその中心だったんですがその鳴門には…
専売制の始まった明治38年には、鳴門の塩田の面積は約400haでした。
(VTR)
鳴門に初めて塩田ができたのは今からおよそ400年前の慶長4年です。
その技術は播磨の国、今の兵庫県から伝わってきました。
当時、塩は藍に次いでたいへん貴重なものとして扱われ、
藩も塩業に従事する者には堤防づくりなどの諸役を免じるなど保護政策を実施し、塩田は急速に広がっていきました。
しかしなぜ塩作りはここ鳴門で盛んになったのでしょうか?
鳴門撫養地区で作られる塩は「斎田塩」と呼ばれ全国的にも知られていました。
そして大正に入るとその生産額は全国のおよそ1割を占める程になっていました。

「斎田塩」は大阪や関東方面の他に遠くは日本海側や北海道まで船で出荷されていきました。
急速に広まった塩田なんですがその塩田は「入浜式塩田」と呼ばれるものでした。
この写真がその入浜式ですが塩田がどんな仕組みになっていたのかこちらの図で説明したいと思います。
(入浜式塩田しくみ解説)
@浜溝に海水を引いてくる
A砂をまく
B蒸発するときに砂に塩分が残る
C上からも海水をまく
D砂を「沼井台」に入れ海水で塩分を溶かす
E受壺の「かん水」がたまる
F「かん水」はあとで煮詰める
なるほど、塩田では濃い塩水をつくるとこまでなんですねぇ。
そうなんですよ。こうした製法は昭和30年代後半まで
続けられていたんですがとにかくこの塩田での作業が、たいへんな重労働でした。
(VTR)
これは昭和30年頃の鳴門市撫養町の入浜式塩田を撮影したものです。
当時、塩田で仕事をすることを一般に「浜をする」と言っていました。
浜での作業は一年中行われていましたが最盛期は気温が高く日照時間の長い
3月から8月頃にかけてでした。
しかし塩田労働者にとっては容赦なく太陽が照りつけるこの時期が一番つらい時でした。
砂を撒いてその上に海水を撒き、そして水分をより蒸発させるために撒いた砂をかいていく「浜引き」と呼ばれる作業が炎天下で延々続けられます。
なかでも沼井台(ぬいだい)に砂を入れる作業は一番の力仕事でした。
塩のついた砂は普通の砂より何倍も重くなっているからです。
塩の着いた砂で沼井台がいっぱいになると今度はそこに海水を流し込んでいきます。
この海水が砂に着いた塩分を溶かし、塩分濃度の高い「かん水」となって受け壺にたまっていくのです。これがその「かん水」です。
塩田できつい労働を経験したという人も今では少なくなってしまいました。
しかし高島の塩田で長い間、働いていたという男性に話を聞くことができました。
島田 一雄さんは15歳の時からおよそ50年間、塩田で働いてきました。

(インタビュー)
きつい労働に耐えてきた塩田労働者の体は自然に鍛え上げられていました。
そしてその腕力や脚力を活かして意外な方面で活躍していきます。
(インタビュー)
浜で作られた「かん水」と呼ばれる濃度の濃い塩水は「釜屋」に運ばれ釜で煮詰められて塩となります。
鳴門の高島にはその「釜屋」が国の重要文化財として今も残されています。福永家住宅です。
(音トリキリ)
「釜焚き」の作業は3人一組の交代制で石釜が壊れるまで昼も夜もぶっ通し行われました。
「七つの子」や「赤い靴」などの歌で知られる詩人、野口
雨情はこう書き残しています。
「空にのぼるは釜屋の煙、夜も夜通し絶えやせぬ」
塩業は20世紀の鳴門を代表する一大産業でした。
それにしても塩田で働いていた人が最初マラソンや駅伝で活躍していたんですねぇ。
 |
昭和26年 ボストンマラソンに出場:拝郷弘美(はいごうひろみ)さん
当時23歳
2時間42分23秒第9位
|
※それだけ鍛えられていた
※きつい仕事のあと走っていた
※犬伏選手がオリンピックに行くが…大塚製薬も塩業に関係した仕事からスタートしている
しかし塩田というのは鳴門だけにあったのではありません。徳島市内にもあったんです。
※鳴門に遅れること21年
しかし徳島の塩田は鳴門と違いまして近くに新町川や園瀬川が流れ込んでいまして
塩分濃度が鳴門と比べて低く、塩業には向いてなかったようです。
昭和34年頃に廃止となっています。
このように徳島市内にもあったという塩田なんですがその塩田には数々の歴史が
刻まれています。後半は塩田の歴史を見ていきます。
(VTR)
手厚い藩の保護政策のもとに広がった塩業は明治38年、専売制に移行されます。
生産量や販売価格を国が管理するようになったのです。
安い外国産の塩から国内の塩業を保護することと塩の販売で日露戦争の軍事費を調達することが大きな目的でした。塩は重要な財源だったのです。
一方きつい労働を強いられていた塩田労働者たちは賃金の引き上げを求めて労働組合を結成します。
鳴門でも明治45年に鳴門塩田労働組合が結成されました。
そして昭和2年、徳島の歴史上最も大きい労働争議が鳴門でおこります。
(音トリキリ)
しかし結局は賃上げは行われず労働者側の敗北に終わりました。
太平洋戦争が終わると石炭などの燃料不足から塩の生産量は急速に低下します。
さらに昭和21年の南海地震で塩田も大きな被害を受け、塩不足に拍車をかけます。
(音トリキリ)
こうした動きをうけて政府は塩の国内生産を増大させる政策を打ち出します。
その一つが入浜式塩田よりも増産が見込める流下式塩田への転換でした。
増産により塩の価格を下げることもその目的の一つでした。
流下式塩田ではまず海水をポンプで汲み上げなだらかな傾斜をつけた流下盤の上をゆっくりと流します。
この時太陽の熱で水分が蒸発して海水が濃縮されます。
そしてさらにそれをポンプで汲み上げ、今度は竹の枝を組んで作られた「枝条架(しじょうか)」と呼ばれるものの上に垂らしていきます。

この竹の枝を流れていく過程で風の力によって水分が飛ばされて塩分濃度の濃い「かん水」が作られるわけです。
流下式塩田ではこの枝条架の過程を何度も何度も繰り返し塩分濃度を濃くしていきます。
最終的に「かん水」を煮詰めて塩にするのはこれまでと同じです。
(VTR)
(音トリキリ)
これが竹の枝を組んだ枝条架です。塩水が竹の枝を伝ってぽたぽたと落ちているのがわかります。
この流下式塩田は入浜式のように大量の砂を動かす必要もなく人出も10分の1ですみます。
生産量も、2倍から3倍に増加しました。
鳴門では昭和20年代後半から昭和33年頃にかけてほとんどの塩田がこの流下式に転換していきました。
しかし次に待っていたのは塩の過剰生産でした。
塩が簡単に作れるようになってだぶつくようになったのです。
これに伴い政府は「塩田整理」を実施し、全国の塩田を縮小していきました。
特に昭和34年から行われた3回目の塩田整理では全国の40%の塩田が廃止されました。
技術革新が逆に塩業家を苦しめるようになったのです。
鳴門の塩業家も生き残りをかけて生産調整に乗り出します。
(音トリキリ)
しかしそんな努力も空しくその後「イオン交換膜法」と呼ばれる塩田を必要としない製塩技術が開発され、塩田の役割はなくなりました。
そしてついに昭和47年、政府の4回目の塩田整理を受けて鳴門のすべての塩田は廃止となり、同時に塩田労働者も浜から姿を消しました。
400年前の藩政時代にはじまった塩田の歴史は、技術革新によってその幕を下ろしたのです。
技術革新によって塩田は姿を消していったんですねぇ。
入浜式、流下式、イオン交換膜法と、技術が進んで、あまりにも簡単に作れるようになって塩の値段もぐっと下がってしまって結果、産業としてなりたたなくなったということだと思います。
それにしても塩田の跡地というのはだいたい住宅になったりしてます。
今見てもどこにもその面影はなかなか見つからないですよねぇ。
なんか一つの大きな地場産業がなくなったようでちょっと寂しい気もしますね。
しかしその塩田がなくなりましたが塩作り自体は今も脈々と鳴門で続けられています。
(VTR)
塩田廃止後、新しい「イオン交換膜法」による製塩業は政府の方針により全国で7つの会社に限定されました。
そのひとつが鳴門市撫養町の鳴門塩業株式会社です。
現在もほぼ365日、24時間休むことなく塩を作り続けています。
その生産量は年間およそ20万トン、主な出荷先は名古屋などの中部地方です。
「イオン交換膜法」は海水を電気的に処理し、塩を作る方法です。
不純物もなく、塩田で作るより品質ははるかに安全です。
しかし製法は変わっても海水から「かん水」をつくり、
それを煮詰めて塩を作る原理は400年前と何も変わっていません。
技術革新の果てに消えた塩田、そして塩田労働者たち…、
21世紀を間近に控えた今も、「伝統」という形でこの鳴門に息づいています。