今ごらん頂いているのは
明治40年ごろ眉山から撮影した徳島市の様子です。
写真の中央には徳島市のシンボル城山があり、その南には徳島駅の駅舎があります。その南にある大きな建物は何だと思いますか。
実はこれ、県内で最初につくられた小学校のひとつ。内町小学校です。
内町小学校は明治4年、3つの藩立学校のうちのひとつとして創立した南校、徳島市寺島に誕生しました。
その後明治36年に現在のアミコビルの位置に写ったときの校舎がこれです。
先ほどごらんいただいた写真にうつっているのはこの校舎です。
昭和9年には、鉄筋コンクリート三階建ての校舎となりました。
この校舎は戦争の被害を受けながらも駅前が再開発されるまで多くの子供たちを送り出してきました。
内町小学校一校をとっても100年の間にはその姿を大きく変えています。
毎週シリーズでお送りしています徳島の20世紀。
10回目のけさは、学び舎、小学校の移り変わりを振り返ります。
小学校の思い出は年齢や性別を問わず誰もが心の中にしっかりと刻み込んでいるものだと思いますが、小学校自体は明治から現在にかけてその姿を変えつづけてきました。
では、こちらの表をご覧下さい。徳島県内の小学校の歴史です。
明治4年 藩立学校3校創立
明治5年 学制頒布
明治7年 学齢児就学率 男42.96%女14.71%平均29.32
明治12年教育令公布
明治17年就学率 男68.43女25.84平均48.06
明治19年小学校令(尋常・高等各4年)公布
明治23年教育勅語発布
明治40年義務教育6年に
大正2年 就学率 男97.07女91.97平均94.64
昭和16年国民学校令 公布
昭和22年教育基本法・学校教育法公布 |
明治4年内町小学校の前身、藩立南校など3校が創立され、
翌明治5年に身分や男女の区別なく「国民皆学」を目指す「学制」が出されます。
しかしこのころは小学校教育を受けていた人はまだまだ少なく明治7年の調査で30%足らず。特に女子の就学率が低かったようです。
明治19年に出された「小学校令」で小学校は各4年ずつの尋常小学校と口頭小学校に分けられ明治40年イ義務教育が6年と定められます。
就学率は大正2年でおよそ95%。国民のほとんどが教育を受けられるようになったのがこの頃からです。
昭和16年には学校の名前が「国民学校」となり戦時体制が強化されたこともありましたが昭和22年の教育基本法、学校教育法の交付により現在の6・3・3制が実施されました。
その時代によって小学校は尋常小学校や高等小学校であったり国民学校だった時代もあったのですね。
戦前の小学校の様子を伝える映像は非常に少ないのですが、
昭和初期の貴重なフィルムがありましたので、
そのフィルムに記録されている小学校を訪ねてきました。
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板西小学校(今の板野東小学校) |
これは昭和9年ごろ、板西小学校。現在の板東東小学校の増築を記念したて開かれた運動会の様子を16ミリフィルムで記録したものです。
点との板西の文字がはっきりと読み取れます。
一生懸命に走る子供。これは今も昔も同じです。
昭和9年当時、板西小学校の児童でその後教師としてこの板野東小学校につとめあわせて35年間、この小学校ですごした中島福雄さんに話しを伺いました。
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児童・教師として板野東で35年 中島福雄さん |
フィルムが撮影された当時、おそらく小学生だった中島さんにこのフィルムの映像を見ていただきました。
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奉安殿の前で最敬礼 |
この画面の左側に、天皇皇后両陛下の写真、御真影をまつった奉安殿があったということなんですが当時、奉安殿にカメラを向けることはとてもできませんでした。
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運針の競技会 |
これは、板西高等小学校での運針の授業の様子です。運針は現在の家庭科で、決められた時間なイにいかに早く正確に縫い物ができるかを競いました。
こちらは手工、現在の技術の授業です。詰襟の服や着物など思い思いの服装の生徒がカンナを器用に使っています。小学校を出てすぐに仕事につくためにもみんな真剣でした。
そして、農業の時間現在の中学校にあたる高等小学校ではこんな授業も行なわれていました。
現在の板野東小学校の校舎。昭和42年にたてられたものでかなり老朽化が進んでいます。
この校舎よりもずいぶん古く建てられたというのに、まだまだ元気なのがこの校舎よりもまだまだ元気なのがこの講堂です。
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板西小学校の講堂(大正15年築) |
この板西小学校のフィルムが撮影されたのと同じ昭和初期。
学校でのイキイキとした子供の様子や同僚の教師たちの日常をカメラにおさめていた一人の教師がいました。
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