
2000/02/10 徳島の20世紀 〜5 庶民の娯楽
シリーズでお送りしています「徳島の20世紀」、
5回目の今朝は「庶民の娯楽」、大衆娯楽の歴史を振り返ります。
20世紀の始まりの年、西暦1901年は
明治時代も後半に入った明治34年です。
急速に広まっていく西洋文化とともに
娯楽もまた次々と新しいものが登場し始めたまさに変革の時期でした。
それから100年間、身近な娯楽は生活の豊かさに比例して
様々な形に進化を遂げました。20世紀はまさにその娯楽が花開いた百年間といえます。
「娯楽」という言葉を辞書でひきますと、「人間の心を楽しませ、なぐさめるもの」と記されています。
はたしてこの百年間、徳島ではいったいどんな娯楽が人々の心を楽しませてきたのでしょうか?
(VTR)
江戸時代から昭和の初期にかけて長い間
庶民の娯楽として人気を博したのは何よりも人形浄瑠璃でした。
淡路で生まれた人形芝居は徳島で最も栄え
特に盛んだった明治30年代には60を超える人形座がありました。
大正から昭和にかけて公園での花見は、人々の大きな娯楽のひとつでした。
庶民の憩いの場として公園の整備がすすめられたのもこのころでした。
これは昭和初期の眉山公園の花見の様子を撮影したものです。
このように花見のできる公園として眉山が整備されたのも大正に入ってからでした。
そうです。
これは眉山を公園化しようと計画がもちあがった
大正元年に描かれた公園の完成予想図だったんです。
お茶屋さんや図書館、そして弓道場も描かれています。
(音トリキリ)
城山の麓、徳島公園内にも大正11年、「子供の国」と呼ばれる
小さな動物園のような施設もつくられました。
小鳥や鹿、猿など当時としては珍しい動物に子供達は大喜び、
簡単な遊具も備えてあった「子供の国」は
入場料無料の開放された公園でした。
徳島は古くから馬の育成が盛んでしたが、
平行して競馬もまた頻繁に行われていました。
鳴門市や板野郡の鯛の浜の競馬場の他に
昭和5年には徳島市の田宮にも競馬場がつくられました。
当時の入場料は50銭、馬券付きは1円でした。

(音トリキリ)
当時をよく知る本庄正夫さんに話を聞きました。
(音トリキリ)
賑わった徳島競馬場もオープンした当初こそは黒字経営でしたが
後に優秀な馬が日中事変に徴発されてからは赤字となって、
昭和12年、廃止に至りました。
しかし戦後になるとまた競馬は復活します。
昭和23年、現在はゴルフ場になっているこの吉野川南岸の河川敷に
市営の競馬場が開設されました。
戦災復興のための財源確保がその目的でした。
しかしこの競馬場も寿命は長くありませんでした。
第一回のレースの売り上げは1千0210万円、
その後も順調に売り上げを伸ばしましたがやがて赤字に転落、
わずか8年間で廃止に追いやられました。
その最大の理由は8年後に登場した競輪や競艇にファンをごっそり奪われてしまったからです。
「馬の刺激では物足りなくなった…」
人々はよりスピーディーでスリルに満ちた
娯楽を追い求めるようになったのです。
戦後の復興から好景気の坂を登り始めたこの時代、
「興奮できるより強い刺激」が娯楽の合い言葉でした。
そしてそんな時代に待ってましたとばかりに登場したのがストリップ劇場でした。
昭和25年、場所は徳島市の南新町です。
肌を露わにした踊り子たちの連日の舞台に人々は興奮、
その後全国的にも規模の大きいストリップ劇場として知られ、
長年に渡り徳島の一つの顔として定着していました。

そして戦後「刺激を与える」一大産業として黄金時代を築き、
人々の心をつかんで離さなかったのが活動写真、そう映画でした。
大スクリーンで繰り広げられる夢芝居に人々は酔い、
銀幕のスターに自らを投影させるように憧れを抱いたのです。
徳島でもしばしば撮影が行われました。

これは昭和34年の大映映画「鳴門の花嫁」のロケ風景です。
若き勝 新太郎と中村 玉緒が映っています。
徳島に初めて映画の常設館ができたのは明治44年のことでした。
その名も「世界館」、東新町のまるしんデパートがあった場所でした。
当時の入場料は10銭、軍人と子供は半額でした。
「世界館」の活況ぶりに刺激を受けて大正に入ると徳島市内には次々と映画館が登場します。
(音トリキリ)
そして徳島市の南内町には温泉に入るついでに映画や芝居も見られて
宴会もできるといった大衆娯楽センター「徳島温泉劇場」がお目見えします。
今でいう温泉保養施設のはしりでした。
映画は最初音のない「無声映画」でした。
音声の入った「トーキー」と呼ばれる映画が徳島で初めて上映されたのは昭和5年のことでした。
それから2年後の昭和7年に建てられた映画館が美馬郡の貞光町に今でも現役で残っています。
(音トリキリ)

二階は畳をひいた桟敷席になっています。
もともと芝居もできるように設計されたこの「貞光劇場」
舞台の上には「まわり舞台」の名残も残っています。
収容人数はおよそ 500人です。
現在は昭和32年からお父さんのあとを継いで館長を勤めている藤本さんが
この映画館を守っています。
営業は午後から、お客さんが来たら映画を上映しています。
(音トリキリ)
昭和30年代、貞光劇場では平均して1日から2日で上映映画が入れ替わっていました。
映画の本数が多かったこともさることながらなによりお客さんの次は?次は?という希望によるものでした。
「毎日変わったものを見たい」
高まっていく人々の欲求は、まさしく次の時代の到来を告げていました。
「徳島の20世紀」
庶民の娯楽、前半をご覧頂きました。
やはり戦後映画はまさに「娯楽の殿堂」と呼ばれるにふさわしい存在だったんですねぇ。
二階から人が落ちそうなくらい…

館主の藤本さんは一番入った映画は「君の名は」といってましたけど
美空ひばりさんの映画もたくさん入ったそうなんですよ。
それで藤本さん、ひばりさんが主演でないちょっとした役で出ている映画にまでも
ポスターに「美空ひばり主演」て書いていたそうです。
そうすると大勢の人が見に来たそうです。
それにしても城北高校は「競馬場」だったんですねぇ。
馬の競歩があったというのを聞いてびっくりした。
徳島の20世紀、庶民の娯楽の歴史を振り返ってお送りしています。
前半は20世紀はじめの娯楽の花形だった人形浄瑠璃から
「娯楽の殿堂」とまで称えられた活動写真、映画までをご覧頂きました。
後半はその映画に続いて昭和30年代に登場した娯楽から見ていきます。
この時期の県内には高度経済成長を背景に次々と新しい娯楽施設も登場してきます。
(VTR)

映画に変わって次の時代を担ったのはテレビでした。
東京でテレビ放送がスタートしたのが昭和28年。
徳島で四国放送とNHKがテレビ放送を始めたのは昭和34年でした。
当時もっとも人気を集めたのは野球や大相撲などのスポーツ中継でした。
◇テレビの関連 四国放送テレビ開局40周年記念から
なかでも力道山が外国人レスラーを相手に活躍するプロレスは大人気となりました。
公開録画なども頻繁に行われるようになり、徳島にも様々な人気スターがやってきました。
これは当時の人気番組だった「ジャブジャブショー」の公開録音の様子です。
唄っているのは魅惑の低音歌手と言われたフランク永井さん、
そして若い世代に大人気だった歌手の平尾昌明さんです。
ごらんのように、とにかく会場となった市民会館はスターを目の前に大騒ぎ、
昼と夜の2回の公開録音にはおよそ5千人の人がつめかけました。
しかし当時のテレビの値段は大卒の初任給が1万円あまりだったのに対し
14インチでおよそ17万円と庶民にはなかなか手の届かない高嶺の花でした。
一般家庭にテレビが普及するきっかけとなったのは
昭和34年の皇太子様のご成婚と39年の東京オリンピックでした。
街角ではまだまだ拍子木を鳴らしてやってくる「紙芝居」が子供達の娯楽の主役でした。
(音トリキリ)

◇紙芝居の関連 徳島市津田を撮った写真
昭和30年代、日本全国で空前のダンスブームが巻きおこりました。

県内でも至るところで社交ダンス大会が開かれ年齢を問わず人々は軽快なリズムに身を委ねてステップを競い踊りに熱中しました。
それは同時に日本全国が高度経済成長に踊っていた時期でした。
その高度経済成長を追い風に娯楽も多様化の時代を迎えます。

県内には次々と新しい娯楽施設が登場しました。
昭和32年、徳島市の中徳島町に市立動物園が開園。

これは象の「花子」が岡山の動物園から運ばれてきた時の映像です。
「花子」は平成4年に亡くなるまで動物園の人気者として長い間象子供達に親しまれていました。
翌年の昭和33年には鳴門市の岡崎に水族館がオープン。
熱帯魚など150種を集めた当時県内では唯一の水族館でした。
入場料は10円、観覧料は大人30円でした。
これは「イルカがやってきた」という昭和35年のニュースフィルムの映像です。
県内初のゴルフ場は吉野川の河川敷にある、「徳島ゴルフ場」でした。
それまでゴルフはまだサラリーマンには遠い存在でしたが
このゴルフ場をきっかけに急激にゴルフ人口は増えました。
昭和35年には徳島市本町に県内初のボウリング場がお目見えしました。

レーンはたった二つの小さなボウリング場です。
よく見てみると人の足が見えています。
当時はなんとピンが倒れると、ピンボーイと呼ばれる人が下りてきて
ピンを元どおりにセットしていたそうです。
最初はなんとも原始的なボウリングでした。
そのピンボーイを経験したことがある方に話を聞くことができました。
スエヒロボウルの元支配人、泉井さんです。

(音トリキリ)
昭和40年代に入っても徳島市の新浜本町にアイススケート場が完成するなど
県内の娯楽施設は生活の豊かさと比例して充実していきました。
時代はまさに、右肩あがりの好調な滑りをみせていました。
しかし曲がり角は突然やってきました。
昭和49年第一次オイルショックです。
石油価格の上昇は日本経済に「狂乱物価」と戦後初めてのマイナス成長をもたらしました。
企業は経営の悪化を防ぐために効率化・スリム化を迫られました。
そこでこぞって取り入れたのがコンピューターでした。
このあとコンピューターは急速に社会の一部として進化していきます。
それは大衆娯楽の新しいステージの幕開けを予感させるものでした。
その第一弾は昭和53年、宇宙人の総攻撃という形で現れました。
インベーダーゲームです。
ゲームセンターに小学生が詰めかけ、学校から「インベーダー禁止令」が
出るほどの熱狂ぶりでした。
そして第二弾は昭和58年のファミリーコンピューターの登場です。
「気軽に自宅で楽しめるゲーム」を合い言葉に爆発的なヒットとなりました。
これを機にコンピューターゲームは大衆娯楽のトップの座につきました。
しかしそれは同時に娯楽の個別化を生みだし、
人々から肌の触れ合うコミュニケーションを奪いました。
その現象はパソコンが急速に普及している現在も、加速度を増しています。
浄瑠璃に始まった20世紀の娯楽、
豊かさの中から生まれながらも逆に豊かさを与えてくれるのが庶民の娯楽です。
たとえパソコンの向こうに世界が繋がっているとしても
今の娯楽は本当の意味での豊かさを与えてはくれなくなりました。
徳島の20世紀、庶民の娯楽を振り返りました。
まさに、娯楽の歴史は庶民の歴史。
娯楽というのは生活の本当近いところにあるんですよねぇ。
生活が豊かになるにつれて娯楽も進歩していく…
そして娯楽がまた私たちの生活を潤してくれるんですよねぇ。
でも少し残念に感じたのは娯楽にだんだん
手のぬくもりみたいな物がなくなってきたことですかねぇ。
そうですねぇ。
20世紀最初の娯楽は人間が操る人形浄瑠璃だったわけですから
娯楽がコンピュターを使ったり高度化すればするほど
対人間、という部分は少なくなるのかもしれませんねぇ。
さっきもいいましたけど娯楽というものは生活と同じように発展してきたわけですから
その娯楽に人間味が薄れてきたということは
少し私たちの生活も立ち止まって見なおしてみる必要があるかもしれませんねぇ。
「徳島の20世紀」5回目の今朝は
「浄瑠璃からパソコンまで」庶民の娯楽を振り返りました。
それでは最後にこちらをご覧頂きましょう。
(VTR)
徳島市八多町の五王神社にある犬飼の農村舞台です。
はるか海の向こうからやってきた活動写真に人気の座を奪われ、
長い間休止していた「人形浄瑠璃」が伝統という名の元に
この地に蘇ったのは昭和51年のことでした。
それは奇しくも世の中がコンピューター社会へ移行しはじめた最中でした。
「娯楽は人々の心を楽しませるもの」
20世紀の初等に大衆娯楽の花形をかざった「人形浄瑠璃」の復活は
私たちに本当の豊かさとは何か語りかけているようです。
◇関連:徳島市津田を撮った写真 紙芝居
◇関連:四国放送テレビ開局40周年記念から
司 会 遠藤彰良、宗我部英久、物部純子
制 作 野口信博


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