2000/02/04 徳島の20世紀 第4回 鉄道
銀色の光を放つ一本のレール。
清流吉野川に沿ってこの鉄の道がひかれたのは今から百年前。鉄道は、静かだった田園地帯に明治の近代文化を運んできました。
この銀色の道の彼方から新しい時代がやってきたのです。毎週シリーズでお送りしている徳島の二十世紀。
今回のテーマは鉄道です。徳島に鉄道が開設されたのは今から百年前、明治32年のことでした。
今月の15日はその開通記念日です。前回は河川交通の盛衰をお送りしましたが、河川による交通は明治の中期から大正時代にかけ次第に衰退の道をたどってゆきます。これは鉄道が出現した時期と一致します。
さて、新しい交通の手段、鉄道はその時代のたび毎に徳島の経済、産業文化などさまざまな分野の発展に大きく関わってきました。
けさの「徳島の20世紀」は、その百年の歴史をたどりながら鉄道が果たした役割を見ていくことにいたします。
まずその成り立ちです。
時代は明治。
そこには鉄道建設に大きく関わったあるひとりの人物の存在がありました。
(VTR)
大串龍太郎 |
大串は弘化二年、1845年、板野郡吉野町の藍商人の家に生まれました。
18歳で家業を継ぎ日本各地との取引を拡大していきました。明治30年代、徳島の藍は「阿波藍」とよばれ全国の市場を独占。
生産量はそのピークを迎えようとしていました。
徳島には藍を買いつける人たちが全国から集まり、藍商人たちは莫大な富をえていました。
当時の会い商人の繁栄ぶりを示すものが徳島市に残されています。(徳島市金毘羅神社レポート)
大串は、政治の世界では県議会議長となり、実業界では徳島銀行を創立するなど、当時政財界の頂点にいました。
大串は新たな投資先として鉄道に注目しました。1895年日清戦争終了後、深刻な財政難に陥っていた政府は鉄道などの大型事業に民間の資本を導入しようとしていました。
明治29年、大串は県内の有力愛商らに働きかけ徳島鉄道株式会社を設立。
初代社長に就任しました。それから3年後の明治32年2月15日徳島〜鴨島間に鉄道が開通しました。
徳島で初めての鉄道は民間の手によって生み出された「私設の鉄道」だったのです。
明治32年2月15日 徳島ー鴨島間に鉄道が開通。 |
開通日当日、徳島市の天候は 雪。最低気温は0度5分。
積雪は3センチという悪天候にもかかわらず徳島駅では盛大なセレモニーが催されました。その百年前のにぎわいを当時の新聞から、知ることができます。
(徳島新聞資料出版部 リポート)
徳島日日新聞「開業画報」 |
徳島日日新聞「開業画報」より当日は、朝まだきより市内近郷の男女老若はこの余興を観覧せんがために寺島本町なる鉄道会社に詰め掛け押しかけ、午前十時の頃、はや立錐の余地なく、周辺の装飾はいちいち枚挙するまで回らず。
富街芸子衆はいずれも盛装をこらし音曲を奏しながら舞い踊る。
会社入り口より投下されしミカン、餅を拾わんに気を奪われ、先を競うて相あらそう。停車場、プラットホームは発着の度ごとに、非常なる混雑をもって満たされ、乗客は必死の勇を鼓してその車室に投ぜんと争えり。
毎回数十両の客車を連鎖し、機関車も前後二台を付して運転せるを見たり。大盛況となった開通式。その式典で大串は次のように演説しました。
「鉄道の敷設はこの地における交通の便を増し旅客の行き来や物資の集散に役立つだけでなく知識の発達や学事の普及に大いに役立つと信ずる。」
大串のこの言葉どおり、鉄道はこの跡のとくしまの経済、文化の発展に大きな役割を果たすこととなりました。
開通当時の姿をとどめる場所を市内に訪ねてみました。
(徳島駅3番ホーム リポート)
徳島駅3番ホーム |
徳島線・鮎喰鉄橋。開業当時の姿を残している。 |
この鮎喰川鉄橋も当時の姿を残しています。
この鉄橋は、イギリス式とよばれるもので縦に細く走る補強板がコの字型になっているのが特長です。この鉄橋は改修の度に塗りなおされていまでも開通当時のままの鉄橋が使われているのです。
徳島の鉄道の起こりについてみていただきましたが、
徳島の鉄道は藍商人たちによってつくられた私鉄だったんですね。その財力たるや相当なものだったんですね。
それにしても開通の日は雪にもかかわらず、数千人の乗客が詰め掛けたというのですから
鉄道に対する当時の人々の関心がどれほど高かったかがわかりますね。そうですね。
餅投げが行われたり、芸子さんの踊りがあったりと
今では考えられない程の熱狂ぶりだったんですね。
さて、こちらをご覧下さい。これは、開業した明治32年2月の時刻表を忠実に再現した復刻版です。
この時刻表をもとに当時の徳島鉄道がどんなものだったのか見てみましょう。
開通した日は明治32年2月15日。
開通区間は徳島から鴨島までの18.6キロメートルでした。
こちらが時刻表です。これを見ますと、駅は徳島の次が府中(こう)、石井、牛島(うしのしま) そして鴨島と全部で5駅でした。
現在の佐古、蔵本といった駅はまだありません。
便数は上り下り一日7往復でした。
例えば、朝7時10分の徳島発鴨島行きの下り列車に乗りますと 府中駅には7時26分に到着します。
所要時間は16分でした。
石井には7時35分に、終点鴨島には7時53分に到着します。
鴨島までの所要時間は43分です。
現在JRで30分かかりますから、今とあまり変わりませんね。
当時は、歩くか馬車くらいですし、橋もあまりかかっていなかったことを考えると
とんでもなく速い乗り物だったと言えますね。
それでは、この今までにない、速い鉄道に乗るにはいくらかかったんでしょうか。
運賃は徳島から石井まで10銭、鴨島までは18銭でした。
上等というクラスはその 2倍でした。この運賃を当時の物価と比べるとそば一杯が1銭5厘。
理髪料が十銭。大工の日給は40銭でした。鴨島までの運賃で、そばなら12杯分、散髪なら2回分、 大工さんの日給のおよそ半日分にあたります。
一方徳島鉄道では、ことあるごとに運賃の値引きも行われていました。
こちらが当時の新聞広告です。
新聞に値引きの広告を出した。「開業半ちん」 |
明治32年、徳島鴨島間の開業を記念して運賃が「半賃」、 つまり半額になるというものです。
こちらは相撲の興行で運賃が割引になるというものです。
同じ年の4月15日、徳島市の中洲で東京大相撲が行われましたが
「各駅より徳島に至る往復切符の二割を減ず」とあります。
こちらは、石井の藤まつりです。
「有名なる石井村地福寺、藤の花満開に着き運賃二割を減ず」とあります。
割高な運賃でしたが値引きもして
なんとかお客を獲得しようとしていたんですね。
さて、当時の日本は日清日露戦争で勝利をあげ、軍国体制を一層強化していました。
速く運べること、そして大量に運べること。
この二つの点で、鉄道は軍事面でも無くてはならない存在だったのです。
民間の手によって生まれた鉄道は、軍事輸送という役割を背負わされ、
戦争という暗く長いトンネルへと突入して行きました。
(VTR)
昭和7年。出征する兵士 |
明治40年、徳島鉄道は全国十七の主要幹線のひとつとして国に買収されました。
国鉄の誕生です。
富国強兵の名のもと路線は次々に延長されていきます。
大正2年4月には、徳島から小松島までが
大正3年3月には阿波池田までが開通。
小松島から池田までが一本のレールで結ばれたことになり、
吉野川沿線から京阪神への交通手段が確保されました。
昭和6年、満州事変が勃発。
これ以降中国大陸では頻繁に武力衝突がくり返されました。
これにより鉄道は戦時体制下におかれ、
主に兵員や物資の輸送に使われました。
兵士たちは盛大な見送りを受け、遠い異国の戦場へと送り出されていきました。
そしてあるものは、歓喜の日の丸に迎えられ意気揚々と故郷の土を踏み、
あるものは、戦友の腕に抱かれて無言のまま帰り着きました。
その後も鉄道は軍事目的のため次々と拡大されていきます。
昭和10年3月20日、徳島と香川県の高松市を結ぶ高徳線が全線開通しました。
これは、開通を祝う板西(ばんざい)駅、今の板野駅の式典を撮影したものです。
出発する汽車に向かって子ども達が万歳をしています。
開通を記念して自転車レースや競馬、野球大会などいろいろな行事が行われました。
開通を喜ぶ地元の人々の様子がよくわかります。
高徳線の開通により、徳島ー高松間は池田を経由していたそれまでの5時間から
半分の2時間半で結ばれました。
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昭和10年ある家族が高知へ旅行した映像から。
列車からのながめ。
高知の路面電車同じ年の11月には土讃線が全通し、高知ともつながりました。
これは開通間もない頃、ある家族の旅行の様子を撮影したものです。
これは当時の高知市内です。路面電車が映っています。
昭和17年には、路線が牟岐まで延長されほぼ現在と同じ鉄道網ができあがりました。
四国四県が鉄道で結ばれ、物資や人員の大量輸送を可能にしたのです。
昭和20年、終戦。空襲によって焼け落ちた徳島駅には早くもバラック作りの駅舎が現れました。
戦争という暗いトンネルから抜け出た日本は驚異的な復興を遂げます。
昭和26年コンクリート製の駅舎 |
昭和26年、四国では初めてのコンクリート製の駅舎が完成しました。
鉄道は近代化するとともにその一歩を踏み出そうとしていました。
しかしその陸上輸送の主役の座は次第におびやかされていきました。
自動車です。
国は戦後の経済発展を自動車産業に託したのです。
昭和34年、自動車メーカー各社は本格的な量産体制に入りました。
いわゆるマイカー元年といわれた年です。
昭和35年・徳島市での自動車ショー。 |
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高嶺の花だった自動車は庶民にも手の届く身近な存在となりました。
徳島でも各地で自動車ショーが行われ、
車にあこがれる人々が大勢訪れました。
これは、鉄道と自動車が運んだ旅客の割合を5年ごとにまとめたものです。
昭和40年を境に両者の割合は逆転します。
昭和30年に66.9%だった鉄道の輸送シェアは減り続け
平成7年には半分以下の26.9%にまで落ち込みました。
その反面、自動車は倍以上の72.8%にも達しています。
陸上輸送の主役は鉄道から自動車へと代わっていきました。(徳島線を走るSL)
煙を吹き上げ、荒々しく進む蒸気機関車。
近代化の波は鉄道にも押し寄せ
やがて徳島から蒸気機関車は次々とその姿を消していきました。
この映像は蒸気機関車がなくなる昭和4 4年、
ある機関士の仕事を取材したフィルムです。
昭和44年放送 四国放送「汽車ポッポ人生」より
徳島本線を走る蒸気機関車
機関士・地紙種次郎さん
(四国放送・昭和44年「汽車ポッポ人生」より)
うだるような熱さの運転室。
助手が釜をたき蒸気をつくります。
その蒸気を使いこなすベテラン機関士・地紙(じがみ)さん。
赤らんだ額に汗がにじみます。(地紙種次郎さんへのインタビュー)
明治時代、藍商人たちによって生み出された鉄道。
近代化の象徴だった鉄道。
いつしかその姿はあこがれから郷愁へと変わってゆきました。
大地を走る銀のレール。
今そこに、蒸気機関車の勇姿を見ることはできなくなりました。
ご覧いただきましたように
鉄道はその時代ごとに我々の生活と密接にかかわってきました。
昭和44年 徳島本線・花畑踏切
スタジオに蒸気機関車の模型をお借りしました。
今見るとなんとも懐かしいですね。
徳島から蒸気機関車がなくなったのは昭和45年でした。
けさの「徳島の20世紀」は鉄道の歴史とその役割についてお送りしました。
(VTR)
徳島から蒸気機関車が姿を消したあと
徳島では二つの路線が、その長い歴史に幕を下ろしました。
昭和47年 鍛冶屋原線廃止
昭和47年、鍛冶屋原線が。
そして昭和60年、小松島線が廃止されました。
赤字、分割民営化とこれより先、鉄道は苦難の時代を迎えます。
資料提供
井上武、戸田公夫、橋本隆雄、吉本旭
徳島新聞社、徳島県立文書館
交友社刊「蒸気機関車の系譜司会
遠藤彰良、宗我部英久、物部純子
制作
芝田和壽