 2000/01/28 徳島の20世紀 〜3 河川交通の盛衰
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スタジオゲスト 郷土史家 福原健生さん |
河川交通の盛衰
(VTR)
鳴門市の岡崎と大毛島の土佐泊を結ぶ鳴門市営・岡崎渡船です。
河川の多い徳島県内にはかつて百三十、四十箇所に渡し船がありました。
しかし、陸上交通の発達とともに次第に姿を消し、
今では、同じ鳴門市営の渡船が他に二箇所、
さらに松茂町が県から委託されている長原渡船を残すだけとなりました。
シリーズ「徳島の20世紀」
3回目のけさは、藩政時代から明治、大正にかけて徳島県内の重要な輸送手段となっていた
河川交通がいったいどのようなものであったのか、検証してみます。
ゲストに、郷土史家の福原健生さんにお越しいただいております。
(徳島県河川図を見ながら)
さて、徳島県内には、ざっと数えて1,200の河川があり、主に西から東に流れています。
これらの河川を利用して百年前の明治時代は川船が主な輸送手段となっていました。
吉野川。周辺に旧吉野川、今切川、そして新町川。南に勝浦川、那賀川、海部川とたくさんの川があります。
今は、水量が全体に減りましたが、かつては豊かな水量に恵まれていました。
こうした河川に各種の川船が往き来していました。
(VTR)
四国三郎、吉野川。全長198キロの吉野川は重要な「船の水路」でした。
八反から十二反の帆を張った全長16メートルの平田船が
豊かな水量の吉野川を祖谷川口の川崎から池田−辻−半田−脇町−岩津−川島−第十堰を経て
徳島市まで物資を運んできました。
池田から徳島までの下り便には、薪、木炭、煙草、藍玉などを積んで、二日から三日かけて運び、
逆に上り便は塩、米麦、雑貨などを積んでおよそ一週間を要しました。
脇町付近を通る八反帆の平田船です。
うだつの町並みで知られる脇町はかつて「河津(かわづ)」と呼ばれる河港でした。
今でこそ、川岸は後退していますが、その頃岸に面した家々には船着き場が設けられていました。
名残の石積みです。
(インタビュー)
うたづの町並み保存会・平田喜一郎さん(76)
三好郡池田町の「千五百の浜」
かつては水量も多く、現在よりも水際が迫っていました。
水運の守護神、諏訪神社のすぐ下に名残の常夜灯があります。
常夜灯の高さは4メートル。「光塵(こうじん)」光のチリという文字が刻み込まれています。
明治の時代、ここは池田町の河港として賑わい、終夜常夜灯が灯され水運の安全を見守ってきました。
(福原さんへのインタビュー)
吉野川を平田船の通る風景は素晴らしい景観だったでしょう。
第十堰はどのように通ったのか。
池田から徳島まで二,三日かかるそうだが、夜通し帆走していたのか。
流れに逆らってどう進んだのか。
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平田船 |
さて、平田船の帆が池田町のたばこ資料館に保存されているというので訪ねてみました。
帆を広げてみるため近くの池田公民館へ持ち込みました。
まず重さを計ってみると66.5キロありました。
皆さんに手伝っていただき、帆を広げました。
帆は八連から成る八反帆です。
高さが11メートル20センチもあります。
帆の巾が7メートル20センチです。
平田船は長さが16メートル、巾2メートルだったそうです。
吉野川の川船の数の変動をグラフにしてみました。
川船は明治34年1901年の6,388艘がピークでした。
しかし、次第に減っていき、昭和10年には3,099艘になりました。
(VTR)
那賀川は全長112キロの曲がりくねった川です。
那賀川はダムができるまでの昭和26年まで
那賀奥で伐り出された木材の運搬に利用されました。
途中までは管流しといって一本づつ流します。
これらの木材は、「アバ」という集積場で筏に組みます。
筏は六連で二人が乗り、下流の製材工場まで流します。
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筏流し |
(インタビュー)
筏乗りの経験者・岩崎幸吉さん(68)、山田亀一さん(73)
(福原さんへインタビュー)
筏流しはちょっとした風物詩ですね。
那賀川では平田船の代わりに高瀬船が使われていたのはなぜですか。
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高瀬船 |
さて、次に入り組んだ新町川推計は徳島市街を中心に吉野川上流地方や
北方、南方を河川交通によって結びました。
明治、大正から昭和の初めにかけて徳島市街地と鳴門撫養を結ぶ巡航船が発達しました。
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巡航船 |
巡航船は5〜6トン位、ポンポン船の愛称で親しまれていました。
対岸に見えるのは藍倉です。
小さな帆掛け舟も往き来しています。
ルートは、新町橋畔−古川−吉野川を横切り−榎瀬江湖川から今切川を下って
旧吉野川−撫養川−鳴門文明橋畔に至る。
当時(大正二年)、徳島−撫養間の運賃は大人20銭でした。
(福原さんへインタビュー)
当時の新町川はいろいろは船が往き来して水運の銀座という感じ
巡航船の運賃は当時としては高かったのか
(VTR)
昭和初期、徳島−池田間を結ぶ徳島本線です。
明治から大正にかけては陸上よりも河川による運輸の方が主流でした。
しかし、明治32年に民営の鉄道が姿を見せ、大正3年に徳島−池田間が開通。
さらに昭和10年に高徳線が開通することによって巡航船は廃止に追い込まれます。
こうして輸送の主役は川船から次第に鉄道へと移っていきました。
資料提供
阿波池田たばこ資料館、徳島新聞社、吉野川文化研究会、(株)植田商店、木村章、近藤好美
ゲスト 福原健生さん 司会 遠藤彰良、宗我部英久、物部純子 制作 胡田俊一
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