
2000/01/14 徳島の20世紀 〜2 大正から明治へ
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スタジオゲスト 大正〜昭和の徳島をよく知る 小野ゑみさん 大正5年生まれ |
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徳島の20世紀「大正・昭和(戦前)」
ゲスト 小野ゑみさん(83)
明治時代が国家の基礎づくりの時代だとすると
大正、そして昭和初期は充実する国力を背景に徳島でも
本格的な都市文化や市民社会が形作られたモダン都市の時代と言えます。
しかし、一方で日本は軍事的な海外進出を続け、中国に戦火は広がり
国内では厳しい思想弾圧が始まります。
花開くかに見えた都市の文化や新しい自由な時代の息吹は幻のようにあやういものでした。
(スタジオに置いたラジオ)
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ラジオ
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私たちが暮らすこの徳島の20世紀はどんな時代だったのか
毎週金曜日に古い徳島の貴重な映像をまじえてお届けしています、「徳島の20世紀」
けさは、大正、そして昭和の太平洋戦争が始まるまでの戦前の時代をとりあげます。
スタジオには大正時代に徳島の中心で生まれ育ち当時の町の様子をよくご存知の
小野えみさんにおこしいただきました。
小野さんは大正5年、徳島市西新町の大きな書展に生まれ、徳島の中心地の移り変わりを見ながら育ちました。
戦前は徳島市内の小学生の先生をつとめ、83歳になる今も文芸運動など文化活動に活躍なさっています。
そして、こちらは、大正、戦前を象徴するものとしてラジオを持ってきました。
(大正時代のラッパ型ラジオ。昭和の箱形ラジオ)
電気そのものが珍しかった明治から過程の電気製品も格段の進歩を遂げ
この時代はラジオが過程に普及します。
電波にのって国民が一斉に同じニュースに接し、全国的な流行歌やスターも次々に生まれてゆきました。つまり、現在あるようなマスコミ社会がこのころできあがったと言えます。
このほか、徳島でも社会全体のスピード化や大規模化がダイナミックに進み近代都市の基礎が形作られた時代でした。
当時の徳島をとらえた映像が残っています。
これは昭和9年に行われた小松島港の3000トン岸壁の工事を撮影したものです。
大きな型枠を組んでコンクリートブロックを作っている様子が映し出されています。
女性も男性にまじって力仕事をしている姿が映っています。
できたブロックを海に沈めているところです。
海では作業船が浚渫作業をしています。
潜水夫も出ています。
当時の人の目には世紀の大工事に映った事でしょう。
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港・小松島のシンボル「ハイカラ館」 |
船着き場には大きな洋館が映っています。
これは汽船の待合い場所で、通称ハイカラ館と呼ばれ港町小松島のシンボルでした。
同じ頃の、眉山から見た徳島市の市街地です。正面は城山です。
新町橋です。自動車と人力車、そして大八車が映っています。
こちらは徳島駅前です。乗合自動車が乗客を乗せています。
サイドカーも走っています。
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吉野川橋を渡る大八車や自転車 |
昭和3年に開通したばかりの吉野川橋を渡るところです。
画面をよく見ると、ここでも車と一緒に大八車や自転車が一緒に渡っています。
かちどき橋南詰めの県庁舎が昭和5年に落成したときの様子も映像が残されていました。
徳島県庁は、この年、近代的な西洋建築に姿を変え今の場所にお目見えしました。
かちどき橋はまだなかったので、祝賀の人達は富田橋を渡ってきました。
祝賀飛行があったようです。飛行機は複葉機です。
昭和初期の徳島の映像をご覧いただきました。
どの映像からも当時の人の、目の覚めるような新しい時代への驚き、
そして期待が感じられるような気がします。
このころ、徳島の中心地は、新時代のモダンな都市の装いを見せていました。
戦災をくぐり抜け、今も街角に残る当時の建築に
モダン都市・徳島の名残を見てきました。
(VTR)
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現在の三河邸 (個人住居) |
この三河邸はドイツに留学していた、医師・三河義行が
帰国後、自分の邸宅として建てたもので昭和3年に完成しました。
三階建てのこの邸宅はドイツの住宅様式を忠実に再現したものです。
新町川沿いにそびえるこの赤い屋根の洋館は
かつては旧県庁舎とともに市内で一番目立つ建物だったといいます。
高原石油のビルは昭和7年に完成しました。
このビルは昭和4年に完成しました。
完成当時は阿波農工銀行の本店でした。
中も当時の面影をよく残しています。
内装の端々には軽快なリズムやシャープなデザインがあり、
独特の雰囲気を漂わせています。
同じ西洋建築でも明治時代は国家が威信をかけて重厚な建物を作っていました。
しかし、大正、昭和となりますと、
民間の力でどんどん新しい感覚の西洋建築が町に並び始めたようです。
今ご紹介しました。
なお、三河邸は個人の住宅なので見学はできません。
とにかく、初めて姿を見せた近代都市の魅力にとくしまの人は夢中になったことと思います。
(小野さんにインタビュー)
大正、昭和の始めにかけての新町界隈は徳島で特別な場所
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昭和初期の東新町商店街 |
今の徳島のどこよりも華やかで楽しい一角が戦前の徳島にあったのですね。
公園も賑わったようです。
当時のお花見の市民の様子を映したフィルムがあります。
(VTR)
花見の時期の徳島公園の人出です。大変な賑わいだったようです。
まだ、着物の人が多いようですが日傘などがモダンな感じです。
日本髪を結った着物の女性がいます。
手前に昔の乳母車も見えています。
市民総出という感じで華やか、華やかです。
同じころの板野郡のある小学校をフィルムも残っています。
これは板野郡の板西(ばんざい)尋常小学校、
今の板野東小学校を昭和9年に撮影したものです。
当時の学校生活がとらえられています。
体操の授業の様子です。
こちらは裁縫の実習です。運針をしています。
女の子は着物の子がほとんどで、洋服の子は数えるほどしかいません。
男の子の工作の時間です。男の子も制服の子とがいます。
大八車が何か運んでいます。大根です。農業の実習もあったようです。
(小野さんにインタビュー)
大正デモクラシーの影響を受けて非常に自由だったことなど。
昭和も12、13年ごろから教育が不自由になってきたそうですね。
大正から昭和にかけてひとときもりあがった明るい自由なムードも
実はその基盤は国家ぐるみで無理に無理を重ねた上になりたつ
非常に危ういものでした。
(VTR)
朝鮮、台湾の植民地化にみられるように、
軍事力を背景とした海外への膨張政策が明治以来の日本と言う国家の基本路線でした。
大正、昭和と時代がかわってもシベリア出兵から満州事変、支那事変と
エスカレートする一方の軍事的冒険が強引に国家を引っ張ってゆきます。
日本は国際社会に背を向け、危険な道をひた走る軍事国家でした。
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蔵本にあった第43歩兵連隊 |
大正14年から、現在の徳島大学医学部のある場所に
陸軍歩兵第43連隊が置かれていました。
通常、およそ1,500人の陸軍兵士が駐屯して訓練を受けていました。
昭和に入り、中国大陸で戦火が拡大するにつれ、3,000人の規模にまで
拡大され蔵本は軍事都市のようになりました。
軍隊の面会日などには町の旅館は兵士と家族で賑わい、
古い旅館には部屋に当時の名残がありました。
今の私達の感覚からすると町の中に軍隊の基地があって、そこから続々と
中国大陸に戦いにでかけているというような事は
とても平静ではいられないと思うんですが当時は当たり前で
逆に歓呼の声に送られて名誉なことだったということですね。
(小野さんにインタビュー)
このような国家体制に疑問を持ったり反対したりした人は警察などから
徹底的に弾圧された時代だったそうですね。
これまでの話しをまとめますと
大正、そして昭和戦前の徳島はモダン都市として
今の都市生活の原型があったようです。
いや、今よりもっと華やかな町だったのかもしれません。
しかしそれは、本当の民主主義や健全な産業構造から生まれたものではありませんでした。
言わばつかの間の蜃気楼のようなものでした。
それだけに、この時代は私たちのノスタルジーに訴えるものがあります。
そして、私達がそこから学ぶべきものも、又多いと言えるのではないでしょうか。
徳島に新時代を告げたラジオですが
やがてこのラジオから、昭和16年も押し迫ったある寒い朝
突然、このような放送が流れてきます。
(太平洋戦争開戦の臨時ニュース)
そして、戦前という時代が終りを告げたのでした。
資料提供
木村章、福原健生、三木文庫、上板町歴史民族資料館、徳島新聞社刊「写真集 徳島100年」
ゲスト
小野ゑみさん
司会
遠藤彰良、宗我部英久、物部純子
制作
林敬
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