2000/12/26
徳島の20世紀 〜48
今年の1月からお送りしてきました
シリーズ「徳島の20世紀」も
いよいよ、けさが最終回です。
こちらをご覧ください。
ここに書き出しているのは
ことし一年間「徳島の20世紀」で取り上げたすべてのテーマです。
毎回いろんなテーマで
違う角度から20世紀を検証し
徳島がこの100年間を
どう歩んできたのかを考えてきました。
20世紀を語り継ぐことは
これから私たちに課せられた義務ともいえます。
けさは、これまでに紹介した貴重な映像をもとに
20世紀の徳島が歩んだ道を
もう一度たどって21世紀への締めくくりにしたいと考えています。
スタジオには
四国大学文学部助教授で日本文学史がご専門の
大和武生先生にお起こしいただいています。
さて、こちらをご覧ください。今回、おはようとくしまではこのように20世紀を年代順に
4つのブロックに分けて振り返っていきます。
「藍の衰退と近代化」
「戦争・敗戦」
「高度成長の光と影」
そして
「21世紀への助走」です。
まず最初は20世紀の幕開け
「藍の衰退と近代化」です。
<藍の衰退と近代化(1901年〜1936年)>関連ページ http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/20c/39indigo/index.htm
(VTR)
江戸時代の中ごろから吉野川流域に広まった藍作。
質、量ともに日本一を誇った阿波藍は
地元に莫大な富をもたらしました。
しかし20世紀初めに花開いた産業の近代化は
意外にもこの阿波藍の衰退がきっかけでした。
安い外国産の藍や化学染料に押されて
1903年をピークに生産が激減した阿波藍。
危機感を感じていた藍商人たちは
藍にかわる産業を模索し、
その資本を次々と別の商売に投資していったのです。
関連ページ http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/20C/16finance/index.htm全国の長者番付でも上位に名を連ねた
藍商、久次米兵次郎は
現在の阿波銀行の前身にあたる久次米銀行を設立。
資本金50万円で、
当時三井銀行に次ぐ全国2位の大銀行でした。(私立として)関連ページ http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/20c/04railway/index.htm
政界にも進出していた藍商、大串龍太郎は
資本金5万円で徳島電灯株式会社を設立。
四国で最も早く街に灯りをともしました。
さらに徳島鉄道株式会社を設立し、
2年後には徳島ー鴨島間を開通させています。
鉄道の開通は町を大きく発展させました。
徳島市の東新町も鉄道を利用して
郡部から多くの人が集まるようになり
にぎやかな繁華街へと様変わりしました。
新町を歩くことは当時「新ブラ」と呼ばれ、
ハイカラな装いの商店街は人々にとってあこがれの街でした。関連ページ http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/20c/12shinmachi/index.htm
大和アキノさんインタビュー
これは、昭和9年に行われた
小松島港の3千トン岸壁の工事の様子です。
この小松島港も、もともとは藍商人たちの手によって
造られた港でした。
船着場の大きな洋館は汽船の待合室で
通称、「ハイカラ館」と呼ばれ
港小松島のシンボルでした。
「国にかわって公共事業までやってのける」
このように藍商人は、
藍の衰退によってこの時期
持て余した資本を産業界の近代化に注いでいったのです。
明治22年、市町村制が導入された当時、
徳島市の人口は約6万人。
全国でなんと10番目の規模を誇る大都市でした。
明治から昭和初期にかけて
徳島の町は藍で蓄えられた豊かな民間財力を背景に
今よりはるかに華やかで活気のある都市だったのです。
(スタジオ)
20世紀初頭は藍が衰退して
その莫大な資本がほかに流れたことによって
結果、産業の近代化が進んだわけですね。
この時期はほんとに徳島の町は大きかったんですね。
その後、多くの藍商人たちは
藍から養蚕や製糸業などに転換していくわけですが
その後、それらが藍に匹敵するほどの
産業に成長したかというとそうではありませんでした。
どれも最終的には失敗に終わっています。
その理由の一つは
莫大な資本を藍商人が組織的に利用できなかった。
協力して近代的な会社組織にしていこうという
考えがなかったからなのです。
大和先生にインタビュー
さて、20世紀は「戦争の世紀」とも言われます。
「徳島の20世紀」でも16回にわたり
戦争をテーマに取り上げてきました。
次に紹介する時代は「戦争・そして敗戦」です。
(VTR)
昭和12年7月7日。
北京郊外のろこうきょうで
一発の銃声がとどろき日中戦争が始まりました。
たちまち日本は戦時色が濃くなり、
戦いに向けての国民思想統一が強化されます。
「ぜいたくは敵だ」
この看板が日本全国のあらゆる町に立ったのも
国民生活の統制を目的とした
大政翼賛会が発足した昭和15年でした。
軍部が国民生活を犠牲にして独創をはじめた時代、
昭和16年にはハワイの真珠湾を攻撃し、
ついに太平洋戦争がはじまりました。
しかし、緒戦は勝利に酔いしれていたものの
翌昭和17年のミッドウェイ海戦を契機に戦局は一転、
日本は敗戦の道をたどりはじめます。
このミッドウェイ海戦で撃沈された空母「飛竜」に
県出身の兵士が乗り組んでいました。
森本権一さん、浜田義一さん、木本克巳さんインタビュー
涙をこらえたバンザイの中、
毎日のように戦地へ送られる兵士たち。
ビルマ、フィリピン、中国・・・
太平洋戦中の4年間、各戦線で戦死した県人は
じつに2万8千245人にのぼりました。
一方、本土を守っていた国民は「銃後」と呼ばれ、
バケツリレーや防空訓練、竹やり訓練が各地で行われました。
米の配給も始まり金属の供出が叫ばれ
学徒出陣など全国的な動員体制がしかれました。
しかし、それは戦況が
一段ときびしくなっていたことを意味していました。
そして昭和20年の7月3日から4日未明にかけて
アメリカ空軍のB29爆撃機129機が
約100トンもの爆弾を徳島市に投下しました。
徳島大空襲です。
街の約6割が一夜にして瓦礫と化し
死者は約一千人にのぼりました。
そしてこの空襲から約一ヵ月後、
日本は敗戦国として歩み始めます。
待っていたのは、食うや食わずのどん底の生活でした。
永田了さんインタビュー
配給の欠配や遅配はあたりまえで
都市部に住む人々はみな農村に買出しに出かけ
衣類などを米に交換していきました。
まるで一皮ずつはがれていくタケノコのようだったので
当時はそんな貧しい生活を「タケノコ生活」と呼んでいました。
竹治クニエさんインタビュー
困窮した県民の生活を救ったのは
戦後まもなく徳島駅前から元町にかけて建ち並んだ
ヤミ市でした。
しかし、このヤミ経済がインフレを招きました。
昭和22年、米10キログラムの
公定価格は61円でしたが
ヤミでは約400円で取引されていました。
当時の国家公務員の初任給が540円。
完全に貨幣経済が破綻し人々の生活もまた
先の見えないヤミの中でした。
前田敏雄さんインタビュー
これは徳島大空襲で被害を受けたことを証明する
罹災証明書です。
当時、この証明をもとに人々は木材の配給を受け
急ごしらえのバラック住宅を次々と建てていきました。
一方で道路の拡張、整備も進み
町はまさに復興の砂ぼこりをあげていました。
そして昭和27年には米の自由販売が実施され
事実上、配給に頼らないですむ生活がはじまりました。
しかし「もはや戦後ではない」と政府が認め、
生活レベルが戦前の水準に戻ったのは昭和31年。
実に終戦から11年もあとのことでした。
(スタジオ)
終戦から今年でもう55年が過ぎました。
当時を知る証言者も残念ながら少なくなっているのが現実です。
実は私、元号が昭和から平成に変わるとき
戦争は遠い過去のものになってしまうのかと感じたんですが
今度、また新しい世紀、21世紀を迎えることで
さらに歴史のかなたへ追いやられてしまうのではないかと
不安になってしまいます。
若い世代ほど戦争への恐怖や繰り返してはならないことだという
認識が薄いことは確かだと思います。
これからの私たちに課せられた義務といいますか
最小限できることなのかもしれませんが
その事実を語り継いでいくこと、
そして歴史に目を背けないことが
求められているのかもしれません。
大和先生にインタビュー Real Player
さて戦後、日本は朝鮮戦争をきっかけに
めざましい経済発展をとげます。
しかし一方で、公害や過疎など
さまざまな社会問題と向き合うことになりました。
3つ目の時代、「高度経済成長の光と影」をご覧ください。
(VTR)
昭和30年から20年近くにわたり
日本の経済成長率は毎年10%前後の高い伸びを続けました。
ひとりあたりの県民所得も
昭和40年度の20万1千円が
10年後には実に5倍近い97万円に増加します。
「三種の神器」のひとつ、テレビの普及率も
昭和39年の4.7%が
15年間で88%にまで伸びました。
戦後まもなく営業を再開していた
丸新デパートにも大勢の買い物客が連日詰め掛け
2度も増築をするほどでした。
人々が豊かさに踊り始めた時代、
さまざまな娯楽も飛び出しました。
徳島市立動物園、水族館、ゴルフ場、ボウリング、スケートなど
しかし、華やいだ高度成長の影では
さまざまな社会問題が吹き出しはじめていました。
その一つが公害です。
昭和39年の新産業都市指定を契機に
化学工業地帯へと発展した今切川流域。
しかし、工場からは排水が垂れ流され、
昭和40年代に入ると
妙なにおいのする「異臭魚」が水揚げされるようになります。
岡敬一さんインタビュー
さらに大気汚染や光化学スモッグなども発生し
誘致した企業が引き起こす公害は
その後、原発をはじめとする企業誘致に暗い影を落とします。
そして昭和47年には鳴門の海を
大規模な赤潮が襲いました。
これにより養殖のハマチは全滅、
被害額は約17億5千万円にものぼりました。
浜野義治さんインタビュー
また、戦災復興のための木材需要の増加で
戦後好景気にわいていた農村部では
過疎の問題が表面化してきました。
これは昭和40年の木沢中学校の卒業式の様子です。
この年卒業した生徒は60人。
しかし、村に残ったのはたった4人でした。
県内の過疎地域の人口は
昭和35年に約25万人を数えたものの
平成7年には約14万人にまで落ち込みました。
しかし明るい未来を約束し続けてきた高度成長も
昭和48年、終わりを告げます。
オイルショックです。もの不足のうわさが流れ、トイレットペーパー騒動が
全国各地で相次ぎました。
また合成洗剤や砂糖なども不足気味となり
銭湯の入浴料や整髪料までもが軒並み値上がりしました。
さらにオイルショックは徳島県民に
ショッキングなニュースをもたらしました。
大鳴門橋の工事着工の延期です。
総需要の抑制が目的で
延期が決まったのは起工式のわずか5日前でした。
その後、工事が始まるまでには
実に2年の歳月を要しました。
(スタジオ)
大和先生にインタビュー Real Player
次のVTRをごらんいただいて
徳島の20世紀を締めくくりたいと思います。
最後は「21世紀への助走」
来世紀を生きる私たち県民が
何をすべきかが、見えてきます。
(VTR)
資料提供 (敬称略)
司会
遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ制作
野口信博