2000/11/02
徳島の20世紀 〜39 藍の衰退

 

  解説 金原祐樹さん Real Audio 

なぜ藍が衰退したのか。

明治28年・藍相場(1駄=135kg)

  阿波藍 地藍
上等 90円00銭 −−−−−−−−−−
中等 47円50銭 13円00銭
下等 25円00銭 9円00銭

 

藍の商談(昭和30年代)
藍粉成し唄 Real Audioで再生できます。

「藍で染めたる ノーホイノーホイあの紺がすり
いくら洗ても さめはせぬ ションガエ・・・」

(VTR)
かつて吉野川の流域は日本最大の藍作地帯でした。
阿波藍は全国に出荷され、
質量ともに日本一を誇っていました。
巨万の富を得た商人達はその財力を背景に
銀行や鉄道をつくり
徳島の近代化に大きく貢献しました。

しかし、20世紀の幕開けとともに
阿波藍は急速に衰退します。
なぜ売れなくなったのか?
そして何を後世に残したのか?
阿波藍の歴史を振り返ると
徳島の近代化の産声が聞こえてきます。

(スタジオ)
藩政時代から明治の終わりにかけて
徳島の一題産業だった阿波藍、
しかし、生産量と品質で日本一を誇ったその藍も
今では観光産業、伝統産業として
一部が残っているだけです。

しかし藍の生産自体は衰退したものの
その藍で得た巨大な資本力は
徳島の近代化に大きな礎を築きました。

徳島の20世紀。39回目のテーマは「阿波藍」です。
阿波藍の盛衰が後世に何を残したのか
けさは探っていきたいと思います。

スタジオには、県立文書館の専門員、
金原祐樹さんにお越しいただいています。
金原さんにはのちほどお話をうかがいます。

さて、こちらからごらん下さい。
国内の藍の収穫高の変遷を表したグラフです。

藍の生産が盛んだった明治36年頃まで
阿波藍が全国の約1/4を占めているのがわかります。
もちろんこれは日本一。
徳島は国内で最も藍の生産が盛んな場所だったのです。

また、量だけでなく質も高く、
明治28年の東京での阿波藍の値段を見て下さい。
「地藍」というのは阿波藍以外の藍を指すことばです。
中等で比べると、阿波藍が47円50銭。
その他の地藍は13円。
阿波藍は他の3倍以上の高値で
取り引きされていたことがわかります。
このように阿波藍は高級品だったのです。

染め上げが美しく色も落ちにくい、
阿波藍は当時高級染め物にはなくてはならない染料として
全国に知られていました。

(VTR)
吉野川流域に藍作が広がったのは江戸時代の中頃。
蜂須賀家の熱心な保護政策のもとで
藍作は飛躍的に広まっていきました。
「藍どころの北方、田どころの南方」
そう呼ばれていたように
吉野川流域の農村は見渡す限り藍一色でした。
本来藍は連作のできない土地枯らしの作物ですが
吉野川が毎年のように氾濫して
上流から豊かな土を運んできてくれたので
この地に藍を栽培することができました。
まさしく阿波藍は、暴れ川吉野川の産んだ作物だったのです。

川縁に並んだ白壁の藍倉は繁栄の証。
阿波藍は主に船で関東や大坂に出荷されました。
ほかの地藍に比べて、染め上がりが美しく
色が落ちにくいといわれた阿波藍は
全国で確固たる地位を築いていきます。
また、藍づくりを栽培から加工まで一貫しておこなっていた
藍商人は莫大な富を築き「藍大尽」とも呼ばれるほど
その名を全国にとどろかせていました。
藍商人達はこぞって江戸に支店を構え
日本橋から江戸橋にかけての川縁には
阿波藍の藍倉がずらりと建ち並んでいました。

1674年から藍を取り扱い始めた藍商、三木家も
1789年に同じく江戸に出店します。
さらに三木家は観音丸や伊勢丸といった廻船を次々と購入し
江戸と阿波の間に自前の船で航路を開きます。
行きは阿波藍を積み出し
帰りは鰊粕などの肥料を大量に買い付けて戻ってきていました。
三木家ではこうした遠隔地取引を展開するにあたり
本店と江戸間で頻繁に情報交換をおこない
藍市場の動向や政治情勢、社会状況の把握に努めています。
「少しでも高く売る。できるだけ損はしない」
情報を正確につかんだものこそが
商いに成功すると考えた藍商人の先見性が
阿波藍を全国一の藍に育てあげていました。

(スタジオ)
当時、どれだけ藍商人が徳島の財界に君臨していたのか
こちらをごらん下さい。

これは明治15年の県内の「長者番付」です。

上の名前を見ると、三木、美馬、武知など・・・
なかでもここに別格であげてあるのが
久次米兵次郎。全国でも長者番付にのるほどの大富豪でした。

金原先生にインタビュー
*徳島藩は25万石といわれるが実質は藍のおかげで倍以上

藩政時代から日本一のトップブランドになった阿波藍でしたが
それを影で支えていたのは
吉野川流域の藍作農民でした。

これは、当時の藍の作業唄の一節です。
「阿波の北方 起きあがり小法師
寝たと思うたら 早おきた」(かり竿唄)

つまり藍の作業は、起きあがり小法師のように
休む暇がなく、寝たと思ったらもう起きなければ
いけなかったとういうわけです。
このように藍をつくる作業は非常に厳しい労働でした。

(VTR)
藍の種まきは2月の節分の頃、収穫は夏の土用前後です。
藍作は「金食い農業」といわれほど
干鰯や鰊粕などの肥料がたくさん必要で
稲作よりもはるかにお金がかかりました。
しかし、何よりも
多くの手間がかかるのが藍作の一番の特徴でした。
害虫駆除に水取り作業、
刈り取りまでは息つく暇もない重労働の連続です。
なかでも炎天下の水取りの仕事は
「嫁にやるまい板野の里へ
夏の土用に水踏み車」と作業唄にうたわれるほど
きつい労働でした。

収穫された藍は天日で乾燥させながら
「からさお」で丹念に打ちほぐしていきます。
これが「藍粉成し(あいこなし)」です。
この季節になるとあちこちの農家の庭先からは
藍粉成し唄が聞こえてきました。

藍粉成し唄

よくこなされた藍は次に「寝床」と呼ばれる加工場で
給水や保温を繰り返し、発酵させて
「すくも」という染料に仕上げられます。
「すくも」は、そのままでも売られましたが
多くはさらに砂などを混ぜて臼でつきかためられ
藍玉として販売されました。

(スタジオ)
藍玉とすくもを見せる

(インタビュー・金原先生へ)
どうして砂を混ぜて藍玉としていたのか?
 運搬しやすい、染め上がりがいい。
藍玉を発明したのは県内の藍商人だったのか?
 小松島の砂がいい。砂によるブランドが形成。
量り売りで取り引きしていたので
砂の分、もうけが大きいのでは?
 これも藍商人の知恵か。最後には粗悪な砂が混じったことも。

阿波藍の全国的な広まりというのは、商売上手な
藍商人の存在なくしてはあり得なかったわけですが、
しかし、明治時代に入るとその阿波藍の歴史は大きく
揺るがされることになります。

安い外国産の藍や地藍が多くで回るようになって
阿波藍の地位を脅かすようになったのです。
しかし、それが徳島の近代化に
大きく貢献する結果となりました。

(VTR)
明治になると藍を取り巻く環境は
大きく変化します。
廃藩置県で、藩による厳しい生産統制が撤廃され
藍は誰でもが自由に生産できるようになり
全国で生産量が急激に増加したのです。
またイギリスが持ち込んだ
安くて質のいい「インド綿」の大量輸入が
染料としての藍の需要を高めました。
阿波藍の業者も新たな発展を求め
県外へ次々と移住していきます。
その目指した先は、北海道でした。
藍作の肥料として欠かせない鰊粕が北海道では
安く手に入ったからです。
北海道への移住民は大正期までに5万人にのぼり
藍の生産高は一時4万3千貫にものぼりました。

しかしこうした全国的な動きは
高級品だった阿波藍に大きな打撃を与えます。
値段の安い藍が多くで回るようになり
高価な阿波藍は次第に売れなくなっていったのです。

皮肉にも徳島の移住民が育てた北海道産の藍も
本家の阿波藍の地位を脅かしていました。

さらに明治20年頃より
安くて色素含有率の高い
「インド藍」が輸入されるようになり
阿波藍は一層、窮地に追いやられます。

しかし、このピンチこそが
藍商人達の商売魂に火を付けました。
まず、安い藍の勢いに
品質が落ちかけていた阿波藍を厳しく管理するために
藍商人達は、1883年藍商取り締まり規則を制定、
徹底的な品質管理と藍市場の独占を再び目指しました。
その結果、見事阿波藍の人気は復活。
日清戦争の勝利による好景気もあって
1903年、阿波藍の収穫高は、
過去最高の586万貫を記録します。
しかし、これだけでは終わりませんでした。
阿波藍の商売に限界をみた藍商人達は
莫大な資本を背景に、
藍以外の商売に次々と乗りだしていったのです。

木材でも財をなしていた、久次米兵次郎は
1879年に現在の阿波銀行の前身にあたる
久次米銀行を設立。
資本金50万円で当時、三井銀行に次ぐ
全国2位の大銀行でした。
県議会の議長をつとめ、政界にも進出した大串龍太郎も
1882年、徳島銀行を設立します。
さらに1894年には
資本金5万円で徳島電灯株式会社を設立。
四国の中でもっとも早く徳島の町に灯りを灯したのです。
また1896年には、発起人18人とともに
徳島鉄道株式会社を設立し社長に就任。
2年後には徳島ー鴨島間を開通させています。

その他にも川真田市太郎を中心とした藍商連合によって
1887年に阿波国共同汽船が設立され
阪神への定期航路が開設されました。
このように藍の莫大な資本は
徳島の近代化、主に社会資本の整備に大きく貢献しました。

(スタジオ)

(インタビュー・金原先生へ)
インド藍なんかが出てきて藍商人達が
阿波藍はそろそろ危ないんじゃないかと危機感を感じて
多角経営に乗りだしたことが
結果、徳島の近代化につながったのですね。
 半分は仕方なく
鉄道や電気のように公共性の高いものは行政の仕事かと
今の感覚では思うが
 当時は民間資本が整備したことも多い。
 行政に代わっての公共事業→それだけ藍の財力は莫大

さて、隆盛を誇った阿波藍でしたが
20世紀の幕開けとともに意外にもあっさりと
その地位を奪われてしまいます。
それは、ある発明が原因でした。
ドイツの化学染料です。

(VTR)
値段の安い地藍にも負けず
インド藍の進出にも耐えてきた阿波藍でしたが
1903年をピークに力つきてしまいます。
ドイツの化学染料の輸入が始まったのです。
化学染料は値段も安く染めるのが簡単で
工場での大量生産に最適でした。
急速に化学染料は広がり、
たちまち高価だった阿波藍は売れなくなり、
他の地藍も化学染料にそのシェアを奪われてしまいました。
「技術革新」という近代化の波に
藍はもろくも飲まれてしまったのです。

こうした情勢に、県当局では
藍に替わって養蚕を指導したり
用水路を建設して藍畑の水田化に尽力しましたが
充分な効果は得られず、
吉野川流域に藍で栄えた活況を取り戻すことは
できませんでした。

また、豪商と呼ばれた藍商人たちも
近代的な企業経営に転換して生きながらえたのは
ごく一部で、ほとんどは藍で蓄積してきた
資本を有効に投資できないまま地主となるのが精一杯でした。

(スタジオ)
もう一度、国内の藍の収穫高変遷グラフを

ドイツから化学染料の輸入が始まった
1903年、明治36年を契機に
急速に阿波藍、地藍もすべて衰退しています。

20世紀の幕開けと、ほぼ同時期に
藍は衰退したんですね。

(インタビュー 金原先生へ)
藍商人が、藍の衰退後その莫大な資本を活かせなかった
一番の理由は?

Real Audio

 横並びの意識が薄い
 やはり、近代化に押しつぶされた。船から鉄道へ

しかし、藍商人がつくった銀行や鉄道などは
その後も徳島の経済に大きく貢献したことは
揺るぎない事実です。

その藍商人達が残したものは
その後どうなったかといいますと・・・

久次米銀行は木材部門の不振などから
1891年に破綻してしまいますが
現在も阿波銀行として引き継がれています。

徳島電灯株式会社は、いろいろな合併を繰り返し
1951年に現在の四国電力の徳島支店になっています。
徳島鉄道は1907年に国有化。
同じく阿波国共同汽船も鉄道部門が国有化されています。
その他、藍商の三木家や森家などは
染料や肥料などを扱う総合商社として発展し、
現在も営業をしています。
また、お酒の「金陵」やしょう油の「加賀屋」も
藍からの転換組です。

やはりこうして見ても
藍が20世紀の徳島の経済界に
いかに礎を築いていたかがわかりますね。

しかし、20世紀の徳島の近代化に大きく
貢献した阿波藍でしたが
今は、21世紀に向けてまた違ったメッセージを
投げかけているように思います。
最後にこちらをご覧いただきましょう。

(VTR)
現在も藍の「すくも」を作っている業者は県内に4軒、
この佐藤さんの家もことし、予定通り収穫を終え
今は藍を徐々に発酵させている段階です。
経験と勘がたよりの昔ながらの製法。
日本全国でもいま、「すくも」をつくっているのは
徳島の4軒を含めわずか5軒だけです。
残る1軒は、明治時代に徳島から多くの人が移住した
あの北海道の地にあります。
他の地藍は、時代の流れとともにすべて姿を消しました。

しかし、県内の藍畑はここ数年増加する傾向にあります。
藍の自然な風合いと素朴さが見直されつつあるのです。
19世紀から20世紀の初めにかけて
徳島に近代化をもたらした阿波藍。
しかし21世紀を目の前に控えた今、
阿波藍の復活はわれわれ県民に
「近代化こそが発展ではない」と
語りかけているようです。


資料提供 (敬称略)

司会
遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ

制作 
野口信博