(VTR)
今から45年前。日本は高度成長の時代に入りました。
昭和30年から昭和48年までの二十年近くにわたり経済成長率は、毎年10%前後の高い伸びを続けました。
国民総生産は、アメリカに次いで西側諸国第二位になりましたl。
戦争で焼け野原となった県都・徳島市も復興を遂げました。
庶民の暮らしは、家電製品の急速な普及などで見違えるほど豊かになりました。
戦後、その日を生きるのが精一杯だった時代から、明日はもっとよくなると信じて懸命に働く時代となったのです。
しかし、経済史上主義がまん延する中、公害や交通戦争、そして福祉の遅れなど吹き出した問題は、今も大きな課題として尾を引いています。
(スタジオ)
シリーズでお伝えしております、「徳島の20世紀」
33回目のけさは、高度経済成長期の徳島を振り返ります。
ゲストは、日本経済論がご専門の徳島大学総合科学部の中谷武雄教授です。
さて、まずは高度成長期がどんな時代だったのか、世相を振り返ってみたいと思います。
こちらの年表には主なできごとをまとめました。
(年表・説明)
中谷教授
高度成長期はどんな時代だったか高度成長の時代には徳島県も工業化が進み発展を遂げました。
一方で若者が、就職で次々と都会に出ていったのもこの時代でした。
当時のフィルムから高度成長期の徳島県を見てみましょう。
(映像のみ・音声はありません)
高度成長期の徳島は、県都・徳島市を中心に建設ラッシュとなりました。
今の街並みの骨格が作られた時代です。
吉野川北岸の地域は、化学工場を中心に工場が次々と建てられていきました。
木工などの地場産業も活況を呈していました。
県内の工場の出荷額は昭和30年からの二十年間で約21倍となりました。
しかし、同時に農業などの一次産業は衰退しました。
二次産業、三次産業が伸びる「産業構造の高度化」です。
こうした工業化の中、徳島県の東部沿岸地区は重化学工業でさらなる発展に向かおうとしました。
しかし、その中核となるはずだった阿南市の橘湾や辰巳工業団地への企業誘致は、公害を理由にした地元住民の強い反対にあいました。
企業立地を推進する武市知事が反対派に囲まれ負傷する事件も起きました。
結局、世紀精製基地や製鉄所など名前の挙がった大企業の進出は次々と消え去り、県の描いていた企業誘致は、失敗に終わりました。
昭和30年代から40年代にかけて若い労働者は「金の卵」と呼ばれました。
昭和42年には全国の中学校新卒者33万人に対し求人はその3倍もありました。
当時の四国放送のフィルムには一人の中卒者を得るために神山町まで足を運ぶ大阪の会社の経営者の苦労が描かれています。
そして大勢の新卒者が一度に県外へ旅立つ「集団就職」もこのころの徳島を象徴する風景でした。
昭和36年には約700人が小松島港から船出しました。
一方、これは若者確保のため徳島商工会議所が行った「集団採用」の模様です。
昭和35年には、徳島市内の72の店が一緒に採用者を募りました。
月給は、中卒者¥4,500以上、大卒者は¥6,000以上でしたが魅力的な条件ではなかったようです。
応募者は43人、就職したのは11人。
殆どがすぐに辞めてしまいました。
より高い給料を求める若者の県内採用の難しさがうかがえます。
日本の高度成長を支えた要因は何か?
徳島県も国の成長にほぼ沿う形で成長をとげました。
しかし、このグラフをごらん下さい。
これは、徳島県の人口の推移を表しています。
昭和30年に日本全体の人口はまだ増えていた時代ですからこれは、さきほどご覧いただいた集団就職など働き手が都会へ流れたことが原因なんです。
こうした高度成長の中、人々の暮らしは、豊かになっていきました。
家電製品を中心にした「消費革命」が起き、娯楽やレジャーにも目が向けられるようになりました。
高度成長期の、徳島の暮らしを映像で振り返ります。
(VTR)
昭和34年は皇太子と美智子様のご成婚に国中が沸きました。
県内も祝賀ムードに包まれました。
この時代、暮らしにも笑顔が戻り県内にも様々な娯楽が登場しました。
安保問題で混乱した岸内閣の後を受けた池田内閣の所得倍増論は10年間でGNPを二倍にするというもので多くの国民の期待を受けました。
労働者の賃金は、労働者不足と春闘方式による賃上げ交渉の定着で毎年上昇しました。
昭和35年、県職員の給与は13%アップしました。
冬のボーナスも給与の二カ月分のひとり平均6万円が支給されみな、えびす顔でした。
一人あたりの県民所得は昭和40年度には20万1000円でしたが、10年後には、実に5倍近い97万8000円に増えました。
これに伴い、人々の消費も一変しました。
特に家電製品が急速な普及を遂げました。
「三種の神器」と呼ばれたテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の爆発的な普及の波は県内にも押し寄せました。
テレビの普及率は昭和34年の4.7%が15年間で88%に伸びました。
スーパーマーケットもこの頃、出店が進みました。
人々はインスタント食品や冷凍食品など規格化され、大量生産された商品を手軽に買うことができるようになりました。
しかし、一方で物価がうなぎのぼりとなり消費者の頭を大いに悩ませました。
この時代、車も急激に普及しました。
県内の免許人口も20年間で4倍近くに膨れ上がり道路は車であふれました。
この結果、交通事故は急激に増え昭和46には年間の犠牲者が180人に達しました。
そして歩行者は、歩道橋を渡ることを余儀なくされ道路から閉め出されることになりました。
人より車優先の効率主義、道路行政の遅れ、そして排気ガスの問題と車社会の到来は、高度成長期の矛盾を象徴したできごとのひとつです。
(スタジオ)
高度成長期は、暮らしに活力がでてきた懐かしい時代であるとあると同時に、社会の様々な矛盾が現れてきた時代でした。
高度成長の時代は、昭和48年の石油危機によるマイナス成長で終わりを告げました。
高度成長を生み出した構造の上に未だに日本は立っていると思うがけさは、高度成長の時代を、当時の四国放送のフィルム映像で振り返りました。