2000/09/01
沈みがちだった人々の心を勇気づけた流行歌
「りんごの唄」が大ヒットした敗戦直後、全国の主な都市は
空爆の爪跡によって焼け野原となっていました。
徳島市内の中心部も例外ではありません。
そんな時代、焼け野原の中に忽然と現れ
困窮の時代のあだ花のように花開いたのが
「ヤミ市」でした。
徳島の20世紀では先週では敗戦直後の
食うや食わずの貧しい生活を強いられた
人々の暮らしを特集していますが
けさは、「ヤミ市」を通して当時の徳島を振り返ります。
郷土史研究家の福原健生さんにお越し頂きました。
けさは、当時のバラック建てのヤミ市を
スタジオに再現してみました。
(福原さんに実際のヤミ市について聞く)
(VTR・徳島のヤミ市がどこにあったのかリポート)
新町橋の上から見た現在の元町地区。
城山はビルに隠れて見えません。
そして、50年前。敗戦間もない元町周辺の様子。
バラック建ての建物がヤミ市です。
元町から見た八百屋町。昭和24年1月の写真です。
ヤミ市が立ち並ぶ中、復興した商店も見られます。
現在の徳島駅前の西側です。
そして、これが昭和25年頃の徳島駅前です。
この当時、走っていたバスは木炭車です。
ガソリン燃料の不足を補うため
車の後ろに木炭ガス発生器のついた車が走っていました。
現在、ポッポ街として再開発されているあたりには
このようなバラック小屋が建ち並んでいました。
これは、昭和27年に撮影されたものです。
前の年にコンクリート建ての徳島駅舎が完成しましたが
バラック小屋はこのように、
現在の駅前広場の場所に対して
かなりせり出した形で残っていました。
(スタジオ)
徳島駅にはかなり広範囲にヤミ市が広がっていました。
現在の地図と比べてみます。
新町橋から徳島駅にかけての元町地区。
元町から八百屋町にかけての道の両側。
現在国道192号は当時は小さく細い道でした。
徳島駅前広場西側にあるポッポ街周辺にも
たくさんのヤミ市がありました。
福原さんに、ヤミ市はどうして
徳島駅前に形作られたかの解説を求める
戦後間もない頃の徳島のヤミ市を知る人に
当時の様子をうかがいました。
(VTR)
徳島市一番町の前田敏雄さんは
敗戦の一年後にビルマ(現・ミャンマー)から
復員してきました。
そのころよくヤミ市を訪れました。
当時、ヤミ市を行き交う人にとって
めったに手に入らなかったもの、
お酒はひとときの安らぎを与えてくれる貴重なものでした。
徳島市一番町の坪内米子さんは
敗戦後高等女学校に通いながら
配給品だけでは足りない食料の買い出しのため
ヤミ市をよく訪れました。
当時八百屋町で、履物店を営んでいた
伊祁正恵(いき・まさえ)さんは
ヤミ市の一角で下駄などを売って
生計を立て子どもを育てました。
(スタジオ)
福原さんの解説
徳島のヤミ市は昭和27年頃の
都市計画事業によってその姿を消しました。
けさは、徳島のヤミ市を取り上げました。