さて20紀最後の終戦記念日も過ぎて、
戦争体験はいっそう歴史上の出来事として
遠い記憶の彼方に
押しやられようとしています。
しかし、人々が本当に
食うや食わずの貧しい生活を
強いられたのは
戦時中よりむしろ敗戦後、
戦争が終わってからでした。
昭和25年8月の終戦から
年の朝鮮戦争で
景気が上向き始めるまでの5年間、
国民の生活はまさに“どん底”でした。
徳島の20世紀では今週から3週にわたって
敗戦後の生活を特集します。
1回目の今朝は
「敗戦、どん底の生活」と題し、
戦後いっそう厳しさを増した
食糧難を中心にお送りします。
スタジオには郷土史研究家の
福原 健生さんにお越し頂いています。
おはようございます。
福原さんには後ほど
詳しくお話をお伺いします。
(VTR@スタート)
昭和20年8月15日、
日本の無条件降伏を告げた「玉音放送」です。
この日を堺に日本は敗戦国として
歩みはじめました。
しかし、
徳島の人々はこの1ヶ月前からすでに
敗戦を覚悟していました。
徳島大空襲、
7月3日の深夜から4日未明にかけて
アメリカ空軍のB29爆撃機129機が
およそ1000トンもの爆弾を
徳島市に投下しました。
町のおよそ6割が
一夜にして瓦礫と化し、
死者はおよそ1千人にのぼりました。
この空襲によって
県民の多くが敗戦を覚悟し、
同時に食うや食わずの“どん底の生活”が
スタートしたのです。
当時、徳島市立高校の前身、市立高等女学校で
教師をしていた永田 了さんは
学校で宿直をしていて空襲にあいました。
校庭の防空壕に潜り込み
どうにか生きながらえたものの
勝占町の実家に帰ると貧しい生活が
待っていました。
Real Player 永田田了さん(88)徳島市勝占町
戦後授業が再開されると了さんの目には
信じられない光景が
目に飛び込んできました。
弁当泥棒です。
終戦後、街に住む多くの人々は
道に生えた雑草や
大根の葉っぱなどを雑炊にまぜて
ひとときの満腹感をかみしめていました。
徳島市住吉の田村 とみこさんも
空襲で被害をうけて以来、
少しでも食糧を確保しようと
吉野川の中洲に作物を植えました。
Real Player 田村とみ子さん(82)徳島市住吉4
今日食べる分を確保するだけで精一杯。
明日の見えない生活はまさに地獄でした。
しかしなぜ戦後食糧事情はここまで
悪化したのでしょうか?
その一番の理由は敗戦により
満州や朝鮮・台湾などから
米などの食糧の輸入が
なくなったからです。
当時、外地からの輸入食糧は消費量の
およそ2割を占めていました。
さらに戦時中海外に居留していた日本人は
630万人ともいわれ、
終戦後これらの人々が引揚者として戻り、
消費人口が急増したことも
食糧不足を悪化させました。
そしていっそう食糧事情を深刻にしたのは
終戦の年、昭和20年の米の大凶作でした。
(フリップ@おり)
肥料不足と度重なる台風が原因で
昭和20年の米の生産量は
昭和17年のおよそ6割、
36年ぶりの大凶作でした。
こうした理由によって
終戦後日本の食糧事情は
戦時中よりもさらに悪化したのです。
戦後はどんどん引揚者が戻ってきて
人口が増えるのに
食糧は減っていく一方だったわけですねぇ。
そうですねぇ、
まさしく戦後の日本の食糧事情は
危機的な状況でした。
そして当時、
米などの主食は配給制だったわけですが
その配給制にも
戦後の食糧事情の厳しさが現れています。
主食の配給は戦時中の昭和16年に
始まりました。
当時の配給は大人一人1日あたり
2合3勺でした。
しかし戦局が厳しくなるにつれて
その中に玉ねぎや大豆が混じるようになって
昭和20年の7月には
2合1勺に減配となってしまいます。
終戦後10月には米不足のため
米穀総合供出制が敷かれました。
これは食べられる物ならなんでも
農家から供出させて、
それを配給するというもので
恥も外聞もない生きるための
必死の制度でした。
しかしそれでも配給の遅配や欠配が相次ぎ、
ついに昭和21年には
「米よこせ」と書いたプラカードを掲げて
皇居前に25万人が押し掛けました。
食糧メーデーです。
あしたの食糧が約束されない現状に
日本国中が騒然としていました。
福原さんにインタビュー
やはり戦後は配給自体あまり
期待できないものだったんですか?
※県当局も自給自足を呼びかけた
→男女青年学校は授業をせずに専ら食糧生産
→どんなスペースにも作物を植えた
さて敗戦後、
当然の事ながら配給だけでは
生き抜くことはできませんでした。
特に空襲で被害をうけた徳島市民は
食糧を手に入れるために
農村へ買い出しにでかけ
大切にしていた衣類を次々と
米に交換していきました。
まるで一皮ずつはがれていく
タケノコのようだったので
当時はそんな貧しい生活を
「タケノコ生活」と呼んでいました。
(VTRAスタート)
徳島市の二軒屋でお菓子屋を
営んでいた竹治 クニエさんは
空襲で家を失いました。
その後は勝浦町の親戚の家に
身を寄せていましたが
食べ盛りの子供を4人も抱えていました。
クニエさんは仕方なく
実家に大切にしまってあった着物を
次々と食糧に交換していきました。
Real Player 竹治クニヱさん(84)徳島市大谷町
「衣類と食糧の物々交換」
都市部に住む人々はこぞって列車にのって
農村へ食糧を求めました。
重い荷物をかかえた人たちで
超満員となった列車は当時、
「買い出し列車」と呼ばれていました。
当時国鉄の職員だった
徳島市国府町の森 明さんは
終戦のとき徳島駅で勤務していました。
「買い出し列車」を目の当たりにしてきた人物です。
Real Player 森明さん(89)徳島市国府町
しかし当時は食糧はすべて国が管理していて、
買い出しは禁止されていました。
警察の取り締まりも厳しく、
米などは発見次第、即刻没収となりました。
一方の農村では「買い出し」を
どう受け止めていたのでしょうか?
代々地主だった神山町の
大粟さんのところにも
戦後頻繁に着物を持った女性が
物々交換にやって来ました。
Real Player 大粟玲造さん(83)名西郡神山町神領
しかし、一方で農村も
厳しくなる米の供出に苦しんでいました。
農村もまた時代を生き抜くために必死でした。
(スタジオ)
福原さんにインタビュー
買い出しは禁止されてはいたんですが
町に住んでいた人はそうでもしないと
食べていけなかったんですね。
※当然配給では足りない
※ 先ほどVTRでヤミという言葉が出てきたが
農村で仕入れて町で売る闇業者も多かったそこから買うひともいた
警察につかまることもしばしばあったようですねぇ。
※普通の民間人はかわいそう
※業者の場合は3回に1回成功すれば元がとれていたくらい高い値段だった
さて敗戦後人々が物々交換に頼らざるを得なかった背景には理由があります。
戦後の急激なインフレです。
物価が急上昇し、
貨幣の価値が下落したのです。
これ当時の物価の変動を表したグラフです。
昭和9年から11年を1とした小売りの物価変動です。
昭和20年から24年にかけて
物価が急激に上昇しているのがわかります。
そして昭和24年には
なんと20年の77倍にもあがっています。
そしてこれは中でも
米の公定価格の変動をあらわしたものです。
10キログラムの公定価格です。
米も昭和25年には
昭和20年に比べて100倍もの値段に跳ね上がっています。
しかしこれはあくまでも公の価格で実際ヤミで取り引きされた値段は
この何十倍というものでした。
たとえば昭和22年
米10キログラムの
公定価格は61円でしたが
ヤミではおよそ400円で
取引されていました。
当時の国家公務員の初任給が
540円だったことを考えると
いかにインフレが進行していたか、
貨幣経済が崩壊していたかがわかります。
(VTRBスタート)
こうしたインフレを抑えるために政府は
一定額の生活費以外は
預金を自由に下ろせなくする
「預金封鎖」を実施しました。
また新しい円に切り替え
インフレの抑制効果をねらいましたが
貨幣経済はさらに崩壊し、
カネよりもモノという時代が
しばらく続きました。
(スタジオ)
福原さんにインタビュー
戦後はインフレになったんですか?
※莫大な戦費を国債でまかなっていたため
貨幣を増発し20年の秋までに6割も膨張した
さてこうしたお金がお金として価値を持たず、
物がなかなか手に入らなかった時代に
貧しいながらもなんとか結婚式をあげたという北島町の夫婦を
取材してきました。
(VTRCスタート)
宗 北島町に住む
三木 安平さんと奥さんの美津子さんは
終戦間もない昭和21年5月に
結婚式をあげました。
三木さんの実家は農家、
そして美津子さんの実家は
代々しょう油を作っていました。
Real Player 三木安平さん875)美津子さん(73)板野郡北島町
ご主人の安平さんは当時披露宴に必要だった
鯛や野菜などの値段を手帳に
細かく書き残しています。
タマゴ8個が24円、
1個が3円で現在の物価に直すと
3千円にもなります。
しかし農家だった三木さんは
これらのほとんどを現金ではなく
米と物々交換をしています。
奥さんの美津子さんも
嫁入り道具を物々交換でどうにか
手に入れました。
その時のタンスを美津子さんは
今も大事に残しています。
(スタジオ)
食べる物を切りつめて手に入れた
花嫁道具だけに
今まで捨てられなかったんでしょうねぇ。
やはりお米のありがたさ、
食べ物のありがたさを知った
結婚式だったと美津子さんは
おっしゃっていました。
遠 福原さんにインタビュー
物価が安定してきて生活が上向いてくるのは
戦後いつごろからだったんでしょうか?
※やはり朝鮮戦争ごろから
さて戦後とにかく食べることだけで
精一杯だったどん底の生活も
復興の砂埃の中で
次第に落ち着きを見せてきます。
(VTRDスタート)
これは徳島大空襲で
被害を受けたことを証明する
罹災証明書です。
当時この証明をもとに
人々は木材の配給をうけ、
急ごしらえのバラック住宅を
次々と建てていきました。
一方で道路の拡張、整備も進み、
町はまさに復興の砂埃をあげていました。
依然としてどん底を這っていた
人々の生活も
野菜や芋の統制が徐々に廃止され
次第に明るさを見せてきます。
そして昭和27年には
米の自由販売が実施され
事実上、配給に頼らないですむ生活が
再開しました。
しかし「もはや戦後ではない」と政府が認め、
生活レベルが戦前の水準に戻ったのは
昭和31年、
実に終戦から11年もあとのことでした。
徳島の20世紀
来週は敗戦特集の第2回目、
「ヤミ市の時代」をお送りします。