けさは、苦しく貧しい生活を強いられながらも
戦時体制を支えた一般の人々の暮らし
「銃後の守り」を振り返ります。
スタジオには、その当時
家庭の主婦としてまた、若い母親として
「銃後の守り」を体験された4人の女性にお越しいただきました。
まず、徳島市佐古の阿部志づ子さん86歳です。
阿部さんは当時、出征したご主人の両親と自宅で商売をしていました。
そのお隣が、徳島市中前川町の青山千恵子さん84歳です。
青山さんはご主人と一緒に満州から引き上げてきた後
3人の子どもを育てました。
そのお隣が、徳島市仲之町の酒井かずえさん79歳です。
酒井さんは戦時中は
阿南市内の病院に看護婦として住み込みで働いていました。
(VTR)
防毒マスクをつけた4人の男性。
この写真は戦場で撮影されたものではありません。
実は、徳島市南常三島町にあった高等工業、
現在の徳島大学工学部で昭和10年頃撮影されたものです。
こうした戦場を思わせる光景も忍び寄る軍国主義の中では
一般市民の暮らしと隣り合わせでした。
この時代、学校でも軍隊のような教育と訓練が義務付けました。
女学生たちがバケツリレーと放水ポンプを使っててきぱきと
訓練しているのがよくわかります。
こちらは大東亜戦争の開戦1周年を迎えた昭和18年、
石井町の名西高等女学校で撮影されたものです。
女学校でも軍事色は次第に強まっていきました。
昭和18年から19年にかけて戦況が悪化すると
各小学校でも防空教育が盛んに行われるようになりました。
学校以外では町内会や隣組といった組織ごとに
防空訓練が広がっていきました。
また、敵の本土上陸に備えて竹やり訓練も半ば強制的に行われました。
防空訓練や竹やり訓練の中心となった女性たちの服装は
モンペ姿でした。
(スタジオで戦時中に使われたものを並べて紹介)
防毒マスク。防空頭巾。電灯カバー。竹やり。
こちらの本をご覧ください。
昭和19年に大日本婦人会が発行した雑誌です。
この裏表紙に家庭内での防空壕の作り方が書かれています。
(VTR)
この雑誌には防空壕の重要性と
壕の中への持ち込み品などのアドバイスが記されています。
また本の中には空襲に備えて
家庭での女性の心構えなどが書かれています。
(スタジオ)
さて、戦況が悪化するにつれ
金属などの供出も一段と厳しくなっていきました。
(VTR)
これは、県内最大といわれた徳島市の丈六寺の釣り鐘が
供出される時の写真です。
昭和16年9月、国家総動員法に基づいて
金属回収令が出され家庭や町の中から
鉄や銅製品が姿を消していきました。
これは供出にあたって日の丸と一緒に記念撮影された火鉢です。
また主食の米は統制経済の要で、
農家は強制的に供出させられました。
物不足が本当に深刻な時代でした。
(スタジオ)
さて、銃後の守りでは、女性や子どもが
戦地へ向かった人々を後ろから支える役割を果たしました。
(VTR)
石井町の大日本国防婦人会の記念写真です。
昭和10年に組織されたこの婦人会をもとに
戦争協力体制が強化されていきました。
たすきをかけたエプロン姿が国防婦人会のシンボルです。
これは、女学生たちが慰問袋を詰める作業をしている様子です。
袋には武運長久という言葉が書かれています。
こちらは勤労奉仕の一コマです。
出征家庭の手伝いも軍事体制を支える大切な活動でした。
石井町の藍畑郵便局での慰問袋の発送作業です。
当時は、出征兵士を激励するため
婦人会を中心に品物が集められました。
これは丸新百貨店の慰問品販売のためのチラシです。
食べ物から身の回りの小物、プロマイドまで
慰問袋の中身がどんなものだったのか興味深いところです。
子どもたちも軍事体制の中へと否応なく組み込まれていきました。
身の丈に切った竹を鉄砲代わりに担いでいるこの写真は
徳島市国府町のものです。
また戦勝を祈ってのお参りも子どもたちの日課でした。
出征兵士の見送りの様子です。
近所や知り合いの人たちの万歳の声に送られて
大勢の人々が一枚の召集令状で戦地へと赴いていきました。
毎日どこかで行われていた出征兵士の見送りも
銃後の活動のひとつでした。
(スタジオ)
当時の品物を紹介
慰問袋。千人針。たすき。
ゲストにあいさつ
(VTR)
戦争は決して戦場だけのものではありませんでした。
戦時体制を支えさせるため軍部は国民に厳しく
苦しい生活を強制し、さらにさまざまな面での
協力を求めました。
「銃後の戦争」とも呼ばれ
すべての国民が戦争に巻き込まれた
あの時代の記憶は、今薄れつつあります。
20世紀最後の終戦記念日を前に
私たちは、語り継ぐことの大切さ、
その意味を一人一人が問い直すべきではないでしょうか。