2000/08/08
徳島の20世紀 〜24回 戦意高揚・歌で標語で
| コンセール合唱団のみなさん | |
| 元・福島国民学校教諭 河野幸夫さん(90) (元・徳島市史編纂委員) |
「勝利の日まで」
丘にはためく あの日の丸を
仰ぎ眺める 我らの瞳
何時かあふるる 感謝の涙
燃えて来る来る 心の炎
我らはみんな 力の限り
勝利の日まで 勝利の日までこの曲は太平洋戦争中の昭和19年、国歌の監視の下につくられた歌です。
その目的はただひとつ。国民の戦意高揚でした。「ぜいたくは敵だ」
「欲しがりません勝つまでは」
「撃ちてしやまむ」
「鬼畜米英」
「進め一億火の玉だ」
こうした標語もまた歌と並んで国民を戦争へと向かわせました。
さて、今世紀最後の終戦記念日を15日に迎えようとしています。
徳島の20世紀では今日から3日間終戦記念特集をお送りします。
一日目のけさは
「戦意高揚・歌で標語で」と題して
軍国主義のもと、人々を戦争に駆り立てた歌や標語を特集します。
スタジオには
当時の戦意高揚の歌を歌っていただくコンセール合唱団のみなさんと
福島国民学校で教師をされていました河野幸夫さんにお越しいただいています。
昭和12年7月7日、北京郊外の蘆溝橋で一発の銃声がとどろき
日中戦争が始まりました。
たちまち日本は戦時色が濃くなり戦いに向けての国民思想統一が強化されます。
この年、内閣情報部ははじめて「愛国歌」を制定します。「愛国行進曲」
1
見よ東海の空あけて
旭日高く輝けば
天地の生気溌剌と
希望は踊る大八洲(おおやしま)
おゝ清朗の朝雲に
聳ゆる富士の姿こそ
金甌無欠(きんおうむけつ)揺るぎなき
わが日本の誇りなれ2
起て一系の大君を
光と永久(とわ)に戴きて
臣民われら皆共に
御稜威(みいつ)に副わん大使命
往け八紘(はっこう)を宇(いえ)となし
四海の人を導きて
正しき平和うち建てん
理想は花と咲き薫るこの「愛国行進曲」は歌詞、曲とも一般から公募されたものでして
特に歌詞においては約5万8千通もの応募から選ばれたものでした。
河野さんに質問 歌詞の解説
合唱団のメンバー(当時国民学校の児童)に歌の想い出を聞く
さて、こちらは国民の戦意を高揚するためにつくられた代表的な国策標語です。
戦時中こうした標語は街角のビラや新聞、雑誌など至るところに氾濫していました。
しかしそれは戦時下の国民が公の価値観から私生活に至るまで
何から何まで国家の監視下に置かれていたことの証明でもあります。
なかでも
「ぜいたくは敵だ」や
「欲しがりません勝つまでは」などは
国民の生活を厳しく制限するためのものでした。
「勤倹節約」
この言葉にすべてが言い表されているように戦時中の標語のほとんどは
国民に勤勉な労働と節約を奨励するものでした。「偲ぶ戦線 感謝で作業」
「汗で耕し 工夫で増産」
「増産へ 阿波70万の体当たり」
「ドンドン撃つには グングン貯蓄」
「力一杯、貯蓄は2倍」
「撃つんだ 勝つんだ 貯めるんだ」昭和12年の日中戦争開戦、昭和13年の国家総動員法の公布と
戦時体制が強化されるにつれて標語は街に氾濫します。「ぜいたくは敵だ」
この看板が日本全国のあらゆる街に立ったのも
国民生活の統制を目的とした大政翼賛会が発足した昭和15年です。
郡部が国民の生活を犠牲にして独走を始めた時代、
標語はまさに国民の戦意をむりやり高揚させるための道具として利用されたのです。
標語の多くは大政翼賛会の審査のもとに一般から広く募集されたものでした。
これは「郵便貯金とわが家の生活設計」をテーマに当時の貯金局が作品を募集した広告です。
賞金は一等の入選が100円。
しかし莫大な戦費を必要としていた当時、賞金は現金ではなく国債でした。「金はためても 仕事はためな」
「お前鉢巻き わしゃタスキ掛け 汗のお金じゃ貯めておこ」
「勤倹の根から 芽が吹く 花が咲く」厳しい国家の監視のもとに
国民が自らの首を絞めるような標語を率先してつくる、
当時はそんな時代だったのです。
当時は日本全国どの町や村にも戦意高揚の標語があふれていました。
これは当時の内閣情報局が毎週発行していた「写真週報」ですが
やはり表紙には標語が書かれています。「女性もあげて決戦へ」
「戦力増強をこの腕に」
「断じて仇を討たん」
そしてその裏表紙には
「ウレシイナ ボクラノチョキンガ タマニナル」
と、書いていまして
貯金箱から鉄砲の弾が歩き出している、こんな絵が描かれた標語もありました。
当時の新聞の広告欄にも戦意高揚の標語は毎日のように載っています。「勝つまで要るだけ 貯めるぞ貯蓄」
「貯蓄は 兵器だ 弾丸だ」
「兵隊さん有り難う 我等は貯蓄で 総攻撃」
「家は焼けても 貯金は焼けぬ」
「節電で 産めよ 戦地で待つ兵器」
「生活も戦いだ! ムダを省いて貯蓄しよう」河野さんへのインタビュー
図画の時間に「標語」という時間があった合唱団メンバーへのインタビュー
さて、先ほど紹介した標語の中に
「偲ぶ戦線 感謝で作業」というのがありましたが
当時こうした、戦地に行かず本土を守っていた国民達は
「銃後」と呼ばれていました。
しかし戦費が膨大に膨らみ、戦局が厳しくなるに連れて
本土では生活自体を「銃後戦争」と呼ぶようになりました。「愛国の花」
1)
真白き富士の気高さを
こころの強い盾として
御国(みくに)につくす女等(おみなら)は
輝く御代(みよ)の山桜
地に咲き匂う国の花3)
勇姿の後を雄々しくも
家をば子をば守りゆく
優しい母や又妻は
真心燃ゆる紅椿
うれしく匂う国の花河野さんへインタビュー
さて、戦局が厳しくなるに連れて標語の中身も変化を見せてきます。「撃ちてしやまむ」
「鬼畜米英」
「進め一億火の玉だ」どれも日本軍が各地で玉砕が相次いだ時期につくられた標語でした。
日中戦争に続いて昭和16年、太平洋戦争が開戦、
緒戦は勝利に酔いしれていたものの、 翌17年6月のミッドウェイ海戦を契機に戦局は一転し
日本は敗戦の道のりをたどり始めます。
米の配給が始まり、金属の供出が叫ばれ、学徒動員など全面的な動員態勢が敷かれました。
その厳しくなる戦局に連れて 標語にもまた激しい語句が踊り始めます。「撃ちてしやまむ」
「さあ今年こそ 米英ぶっ潰すのだ」
「米本土 乗っ取る意気で 増産だ」
「米英鬼を叩きつぶせ」また「神風」という言葉が標語の中に使われ始めたのも戦争末期でした。
「最後には神風が吹いて日本は必ず勝つ」
国民の多くがそう信じていました。
米英、つまりアメリカ、イギリスを倒せといった直接的な表現が多くなった
戦争末期の標語を当時の新聞からもう少しご紹介します。「敵も必死だ油断はならぬ 一億一丸 押して押して押し倒そう」
「船だ!船だ!船を造って米英撃滅」
「眼前に迫る 小癪(こしゃく)な米鬼を 撃滅せん」
「世界の敵だ 白旗たてても 許すな米英を」河野さんインタビュー
戦争末期にはアメリカが 「日本良い国かみの国、一夜明けたら灰の国」というビラを撒いていた。
さて、戦局が厳しくなるとともに日本各地の町や村からは毎日のように兵士が戦場へ送られました。
「出征兵士を送る歌」
1)
わが大君に 召されたる
生命はえある 朝ぼらけ
たたえて送る 一億の
歓呼は高く 天を衝く
いざ征け つわもの 日本男児2)
華と咲く身の 感激を
戒衣(じゅうい)の胸に 引き緊めて
正義の軍(いくさ) 行くところ
たれか阻まん その歩武(ほぶ)を
いざ征け つわもの 日本男児河野さんインタビュー
標語や歌で人々が戦争に駆り立てられた、
そんな時代があったことを風化させることなく語り継いでいくことが
これから21世紀を生きる私たちに課せられた仕事かもしれません。
国民を戦争へ駆り立てるために担ぎ出された「言葉」たち。
当時の「大日本帝国」は
そんな「言葉」によって支えられていたといっても過言ではありません。
だからこそ、国策標語のほとんどは
敗戦によって焼却処分され、闇の彼方へと隠蔽されました。
しかし、その時代を生きた人々の記憶の淵には
今も忘れることのできない言葉として焼き付いています。それは戦意高揚の歌も同じです。
「言葉は時代を反映する」
20世紀最後の終戦記念日が来週に迫っています。
司会
遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ制作
野口信博
終戦特集