2000/06/01
徳島の20世紀 〜19 大鳴門橋

この白黒フィルム映像は昭和37年の鳴門海峡です。

わずか1600mほどの鳴門海峡は、本州への交通を固く閉ざしてきました。
徳島県民にとって、この鳴門海峡に橋を架けることは今世紀で一番大きな夢だったと言えるかもしれません。

そしてこれが今の大鳴門橋です。

今月8日でちょうど開通15周年を迎えます。
通行台数は一日約1万7000台で瀬戸大橋を上回っています。
最大の動脈としてなくてはならない存在となっています。

(スタジオ)

毎週シリーズでお送りしている徳島の20世紀。
今回のテーマは大鳴門橋です。
大鳴門橋と言えば「東洋一のつり橋」でした。
当時は本当にでかいなと思ったものです。

つり橋の長さは一般的に
主塔と主塔の間の中央支間の長さで競われます。
大鳴門橋の中央支間は、876mで
できた当時は世界10位。東洋では1位。
当然日本一長いつり橋だったわけです。
ちなみに現在では明石海峡大橋が世界一、
大鳴門橋は、20位にも入らないということで
橋梁技術の進歩を感じさせます。

そして大鳴門橋のもう一つの枕詞は「夢の架け橋」。
今日は夢の大きさも世界のトップクラスだったに違いない
大鳴門橋の歴史を当時の映像をもとに振り返ります。

はじめに橋がかかる前の鳴門海峡の
ユニークな映像をご覧いただきましょう。

(VTR)

昭和36年 送電線を通す工事

これは鳴門海峡の上に送電線を通す工事の様子です。
昭和36年の映像です。
90個の風船をつけたワイヤーを船で引っ張って
海峡を渡すというもので世界ではじめての方法でした。

(スタジオ)

さて、この鳴門海峡に橋をかける話が歴史上最初にあがったのは
今世紀の始め、1914年にさかのぼります。
それから50年後、神戸鳴門ルートが
本州と四国の間の最初の連絡橋として建設されるという
国の方針が示されました。

(VTR)

鳴門海峡に橋を架ける考えを初めに打ち出したのは
上板町出身の衆議院議員、中川虎之助です。

中川虎之助(1859−1926)

大正3年。虎之助は帝国議会で
鳴門海峡に橋を架けるための調査を行うよう提案しました。
しかしこの提案は、全くの夢物語と受けとめられ
失笑の渦の中、わずか30分で否決されました。
「阿波の大風呂敷」とからかわれた虎之助は
こう、つぶやいたといいます。

「諸君の眼は豆のごとし」

その26年後の昭和15年、
今度は「神戸から鳴門に橋を」との声があがりました。
後の神戸市長で「神戸鳴門ルート生みの親」と呼ばれる
原口忠次郎です。

原口忠次郎(元神戸市長)

原口は遅れている四国を開発し、
神戸の経済圏を広げようと考えていました。
戦争の最中、構想は立ち消えとなりましたが
原口は戦後も神戸鳴門ルートの顔として活躍、
神戸鳴門ルートの誘致活動が
他のルートに先駆ける原動力となりました。

戦後、鳴門海峡に登場したのは
国内で初めてとなるフェリーボートです。

全国初のフェリー就航 昭和29年

車10台ほどしか積めない小さな船が
鳴門と淡路の福良との間を片道1時間で
一日5往復しました。
明石海峡にもフェリーが走り、
徳島市と神戸は車に乗ったままで
5時間で行き来ができるようになりました。

しかし、ちょっとした悪天候でも
すぐに欠航するのが一番の泣き所でした。
車社会の到来を迎え、県民の橋への思いは
より強いものになっていきます。

昭和34年、皇太子殿下のご成婚に日本中が沸きました。
この年建設省は、初めて本四架橋の調査費500万円を計上しました。
そして専門家に頼み鳴門海峡の海底調査などを行いました。
調査の対象となったのは神戸鳴門ルート、児島坂出ルートなど
4ルートで、いよいよ夢を現実のものにするための道のりが始まりました。

同じ年、徳島県は大鳴門橋に通じる小鳴門橋の建設に着手、資金は電力会社から借りました。
大鳴門橋建設への熱意を形にして示すのが狙いで2年後には完成させました。

昭和36年小鳴門橋完成

また昭和35年には誘致運動の母体となる「本土淡路四国連絡橋・架橋促進連絡協議会」を
兵庫県などとともに結成しました。
他のルートもこぞって誘致合戦に突入しましたが
神戸鳴門ルートと他のルートでは、「大人と子どもほどの開きがある」と言われるほど
神戸鳴門ルートが先行していました。

  原菊太郎 徳島県知事(当時) Real Playerで再生できます 

原菊太郎知事(当時)へのインタビュー

そして昭和39年、歴史に残る「船上会談」が瀬戸内海でおこなわれました。
全国から注目されたこの席で時の実力者、河野一郎建設大臣は、本四ルートについて
「まず明石・鳴門をてがけたい」と明言、
食い下がる香川県知事を
「方針は変えない」とはねつけたのです。
翌日の徳島新聞一面には
「明石鳴門を最優先」との大見出しが踊りました。

船上会談に出席した森下元晴さん(元厚生大臣)
当時の四国放送映像から

 

森下元晴さんへのインタビュー(船上会議に出席)

一気にルート問題の決着を図ろうとした河野大臣でしたが
皮肉なことにこの会談が逆に他のルートの
猛烈な巻き返しを呼ぶことになります。

(スタジオ)

この船上会議が行われた昭和39年は、
新幹線が開通した年でもあります。

少し後の昭和47年に本四公団がまとめた
調査報告書によりますと神戸鳴門ルートの時間短縮効果は、
車の場合、鳴門ー垂水間は208分から61分にと
大幅に短縮されますが、それ以上に
新幹線が通れば徳島市から新大阪までが
281分から45分に短縮されることが示されています。

神戸鳴門ルートの時間短縮効果

昭和47年本四公団調査報告

自動車(鳴門〜垂水) 208分→61分

新幹線(徳島〜新大阪)281分→45分

大阪まで45分というのは今でも魅力的な数字ですね。

徳島県は、当時神戸鳴門ルートを一日も早く実現するために
大鳴門橋は道路単独橋が妥当と考えていましたが
県内には鉄道も通る併用橋を望む意見もありました。

いずれにせよ、いよいよ夢が現実になると思われた
大鳴門橋ですが、昭和40年代にはいってから
政治・経済の両面で時代のうねりに飲み込まれ
本四ルートとしては児島坂出に先を越されることになります。

(VTR)

昭和30年代、時の実力者河野建設大臣の発言で
本四ルートは明石鳴門で決まったかに思えました。
しかしその河野一郎氏が船上会談の翌年の昭和40年、急死し事態は急変します。

森下元晴さんインタビュー

当時の知事 武市恭信さん

当時の知事・武市恭信さんインタビュー

昭和45年 徳島県民に街頭インタビュー

ルート争いがまさに泥沼化した昭和45年、
自民党の田中角栄幹事長は
3ルートとも同時に着工すると発表しました。
昭和47年徳島入りした田中首相は
次のように述べました。

  昭和47年田中角栄首相 「3ルート同時着工」 Real Playerで再生できます。 

3ルート同時着工の日取りは
昭和48年11月25日に決まりました。
しかしここでも思わぬ事が起こります。

この年、日本はいわゆる石油危機に見舞われ
石油価格をはじめ物価が高騰しました。
そして田中内閣は、総需要抑制の名のもと
本四ルートの着工を凍結したのです。
凍結が決まったのは起工式のわずか5日前でした。
県の担当部署では、起工式で出す料理の試食中に
凍結の連絡が入りパニック状態に陥りました。

 

当時、県の担当課長だった谷崎貞一さんインタビュー

次の年、徳島県選出の三木武夫氏が首相に就任し、
凍結解除が期待されました。
しかし「狂乱物価」が続く中「四国に3本も橋がいるのか」
との批判が全国的に吹き出しました。
その結果、本四ルートはまず児島坂出ルートで
建設することで1本に絞り込まれる形となりました。
そして大鳴門橋は、本四ルートとしてではなく、
地域の開発橋として昭和50年に着工されました。
世論と地元との両方に理解を得るための苦肉の策でした。

そして昭和60年6月8日
大鳴門橋は完成の時を迎えました。
中川虎之助が鳴門架橋を唱えてから数えて71年。
県民の世紀の夢はようやく現実のものとなりました。
しかし、本四連絡橋としての真価を発揮するには
1998年の明石海峡大橋の開通を
待たなければなりませんでした。
瀬戸大橋の開通から10年後のことでした。

(スタジオ)

20世紀における最大のプロジェクトだった本四架橋は
結局昭和60年に大鳴門橋が完成、
次に児島坂出ルートの瀬戸大橋が開通(1988年)
その10年後のおととし明石海峡大橋の開通で
神戸鳴門ルートが全線開通しました。
そして去年(1999年)最後のしまなみ海道が開通し、
四国三橋時代が到来しました。

振り返ってみますと大物政治家の発言がこれだけ裏目に出た
というのは珍しいというか、私たち当事者としては
ひどい目にあったというべきでしょうか。

当時の知事の武市さんが
「技術的なことは触れられなかった」とおっしゃっていましたが
そのあたりが判断を狂わせたのかも知れませんね。

着工の5日前に凍結というのも関係者は本当にびっくり
したでしょうね。歴史の巡り合わせとはいえ、
残念なできごとでした。

けれども結局四国に3つの橋が架かったんですから
すごいですよね。無駄遣いだったと言われないように
しなければいけませんね。

さてこうした70年余りの歴史を経て
大鳴門橋は今交通量で瀬戸大橋を上回り
四国の大動脈として欠かせない橋となっています。
しかしこれから橋をどのように活かしていくかが、まさに21世紀の課題です。

けさの、徳島の21世紀は
大鳴門橋の歴史についてお送りしました。

(VTR)

大鳴門橋は、21世紀にはどのような姿になっているのでしょうか。
そしてどのような役割を果たしているのでしょうか。
大鳴門橋に関わってきた全ての人が期待を込めて
見守り続けているに違いありません。

大鳴門橋の橋げた部分には新幹線を走らせるための空間が設けられています。
最終的に道路と鉄道との併用橋になったのは
三木武夫首相が最後まで併用橋に固執したからだと言われています。
しかしその本来の目的は今も眠ったままです。

今年この鉄道空間の一部に観光施設「渦の道」が設けられ
一躍人気スポットとなりました。
やっと有効利用ができたわけですが、
県では今でも新幹線を通す要望を続けています。

森下元晴さんインタビュー

武市恭信さんインタビュー

大鳴門橋は21世紀にはどのような姿になっているのでしょうか。
そしてどのような役割を果たしているのでしょうか。
大鳴門橋に関わってきたすべての人が
期待を込めて見守り続けているに違いありません。


資料提供

徳島新聞社

司会

遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ

制作 

網師本誠司