2000/05/18
徳島の20世紀 〜17 賀川豊彦
![]()
明治42年12月24日、神戸。
当時日本最大のスラム街だった新川に一人の青年がやって来ました。
彼は、貧しい人たちと寝食を共にし自分の福や金を分け与え神の教えを説きました。青年の名は賀川豊彦。
少年時代を徳島で過ごした賀川豊彦は社会運動家として、キリスト教伝道者として貧しい人々のためにささげました。
毎週シリーズでお送りしています「徳島の20世紀」
17回目の今日は
徳島が生んだ世界的な偉人賀川豊彦の生涯を振り返ります。
「賀川豊彦」という名前はたいていの人がご存知だと思いますが
どんな人なのかよく知らない方も多いのでのではないでしょうか。
賀川豊彦の業績をざっとご紹介しますと。
賀川豊彦の業績
救貧・ボランティア活動
労働運動農民運動
協同組合運動
執筆活動
平和運動
キリスト教伝道など
まず、スラム街や関東大震災の被災地に自ら飛び込んでの
救済活動があげられます。
また、人々の暮らしをよくするため労働運動や農民運動、
協同組合運動を指導しました。
「日本のガンジー」と呼ばれノーベル平和賞の候補にも挙げられた
まさに世界のカガワでした。
まずは賀川豊彦の生涯を生い立ちから振り返ってみましょう。
(VTR)
明治21年、賀川豊彦は神戸で海運業を営む
父・純一の長男として生まれました。4歳のときに父と母を相次いで病気で亡くし、
豊彦は当時の板野郡堀江村、現在の鳴門市大麻町東馬詰の父親の実家に引き取られました。
家は裕福でしたが本妻の子でなかったため周囲から冷たい扱いや嫌がらせを受けることも多く孤独な少年時代を過ごします。
明治33年、旧制徳島中学校に進んだ豊彦に人生を決定付ける出会いが訪れます。
当時、徳島市通町にあった日本基督協会で二人でアメリカ人宣教師ローガンとマヤスが聖書を英語で教えていました。英語を勉強する目的で教会に通っていた豊彦は二人の暖かい人柄に触れるうちに次第にキリストの教えにひきつけられていきます。
(賀川豊彦記念・松沢資料館 斎藤宏さん)
15歳の冬、賀川豊彦は洗礼を受けてキリスト教に入信しました。
この後、豊彦は生涯、信仰とともに生きることになります。
旧制徳島中学校時代、豊彦はひとつの事件を起こしています。
軍事教練の授業中、彼は持っていた銃を投げ捨てその場に寝転がったのです。
「わが村を去る」より日露戦争が始まった。しかし私はトルストイの非戦論を信じ
日本の勝利にも興奮を感じなかった。明治38年、豊彦は牧師になるために東京のキリスト教系の学校、明治学院に進み猛勉強を重ねます。
しかし、もともとからだが弱かった上、栄養も充分でなく彼の体は病にむしばまれていきます。
明治学院を卒業後、豊彦は伝道の手伝いに行った愛知県豊橋で倒れます。当時、死の病として恐れられていた結核でした。
高熱を出し、生死の境をさまよった豊彦は豊橋の牧師・長尾巻の看護でかろうじて一命をとりとめます。
19歳になった豊彦は神戸神学校に入りますが健康状態は思わしくなく休学して1年にわたる療養生活を余儀なくされます。
当時の豊彦の日記には病気への不安や絶望が記されています。
「無の哲学」より
私は全く絶望だ。絶望だ。
人生の価値を全く疑ってしまった。
一晩泣いた。賀川豊彦記念・松沢資料館 斎藤宏さんインタビュー
「死線を越えて」より
彼は絶望の淵より驚異の世界に甦った。
彼は実在の世界に死の力を以って
強く生きんと覚悟した。死の淵から立ち直った豊彦の心にあったのは命の恩人の長尾巻でした。
日頃から貧しい人々を家に泊めて世話をしていた長尾に、豊彦は感銘を受けていました。
こうして明治42年12月24日。
21歳の賀川豊彦は神戸新川のスラム街に家を借り
貧しい人たちの救済に乗り出したのです。(スタジオ)
賀川豊彦の生い立ちから青年時代までを振り返りました。
徳島で過ごした少年時代は家庭の面では恵まれなかった一方、
キリスト教徒の出会い、平和主義の芽生えなど
後の豊彦の生き方を決定づけた時期でした。
明治学院在学中には新聞に「世界平和論」という論文を発表しています。
これは、当時旧制徳島中学校の校長が行った帝国主義に同調する講演への反論で
帝国主義を国を滅ぼすものとして否定し平和を訴えています。
(明治39年8月17日の徳島毎日新聞)当時の日本で戦争に反対するのは勇気のいることでしたが
自分が正しいと思ったら批判を恐れずに言う、あるいは行動に移すというところがあったようです。
そして病気で苦しんだ末、賀川豊彦は貧しい人々のためにつくす道を選びます。
彼の最初の事業となったのが神戸新川での救済活動でした。
(VTR)戦前、神戸の通称・新川と呼ばれた地域は当時、約1万人の貧しい人々が住む日本最大のスラム街でした。
人々は日々の食事にも事欠き、家の扉まで暖房のまきに使うため吹きさらしの長屋で布団もない暮らしをしていました。
伝染病がはびこり、犯罪も絶えませんでした。<豊彦の新川時代の日記>
二畳長屋と云ふ所には
一軒の家が二畳であるのに一家九人もそこに這入って寝るのである。
栄一は先づ、此処へ這入って住まねばならぬと考えた。豊彦はスラム街で伝道活動を始めます。
住民から暴力を振るわれたり金を巻き上げられたりする
毎日でしたが、それでも豊彦は身よりのない人々を
家に住まわせ自分のわずかな金や服を分け与えました。『コラ、オドレ!』子供の叫喚、疳声。
またあの子じゃないかー
お父さんに脇腹を蹴られて
寝床から裸体で逃げ出す
あの十一、二の男の児!映画「死線を越えて賀川豊彦物語」
豊彦はボランティア組織「救霊団」を結成して本格的な救済活動を始めます。
家のない人のために無料の宿泊所や安く食事ができる食堂を作り病人の介護、仕事のあっせん日曜学校など、その活動は生活の様々な分野におよびました。
子供の教育にも力を入れ、しばしばスラム街の子どもたちを連れて明石の海岸や六甲山で林間学校を開きました。
こうした豊彦の活動を知って協力する人も徐々に集まってきました。
新川にきて4年目、25歳の時に豊彦は妻ハルと結婚します。
二人は結婚式が終わるとすぐ新川に戻り、式の衣装のまま病人の介護にあたりました。
賀川豊彦が救済活動を始めてから90年を経た現在、新川と呼ばれた一帯には幹線道路が通り近代的な市営住宅が建ち並びかつての面影はありません。
新川のボランティア組織「救霊団」はその後名前を「イエス団」に改め、今では広く関西や四国で保育園や老人福祉施設などを運営しています。
<真愛>(イエス団・賀川記念館 館長 村山盛嗣さんインタビュー)
賀川豊彦の福祉への取り組みは彼の精神とともに今も生きています。
(スタジオ)
賀川豊彦の新川での活動は多くの人々を救いますが
一方で様々な事情からスラム街に来る人は後を絶ちませんでした。
そこで豊彦は貧困を防ぐ事、防貧に目を向けていくようになります。
(VTR)大正3年、アメリカに留学した賀川豊彦はニューヨークで6万人の労働者のデモを見て衝撃を受けます。
当時は第一次世界大戦後の不況の真っ直中で日本でも工場の閉鎖や賃金の引き下げ、リストラなどで労働者の暮らしはおびやかされていました。労働運動の必要性を感じた豊彦は大正6年、日本に帰ると労働組合に入り関西の労働運動のリーダーシップをとるようになります。
大正10年、神戸にある三菱、川崎の二つの造船所で大規模な労働争議が起こり、豊彦は3万5千人の労働者を率いてデモを行いました。しかし、結局この労働争議は失敗に終わります。
これをきっかけに労働運動は力に訴える方針に傾き平和的な運動を唱える豊彦は組合の内部から非難を浴びます。
「暴力は人間解放の道ではない」
この言葉を残して、豊彦は労働運動から遠ざかります。
豊彦が次に取り組んだのは農民運動でした。
当時、日本の農家のほどんどは小作人で生活苦にあえいでいました。
大正10年、豊彦は日本農民組合を組織し全国各地に出向いて小作争議を指導しました。
また、昭和2年には兵庫県瓦木村の自宅で農民福音学校を開き、農村の青年たちの教育に力を注ぎました。
鳴門市大麻町の農家・市橋潔さんは戦前戦後、農民福音学校で賀川豊彦から教えを受けました。
(農民福音学校で学んだ 市橋潔さんインタビュー)
農民福音学校は農閑期に全国各地で開かれました。
鳴門市内でも農閑期に民家を借りて学校が開かれ遠くからも人が集まりました。
農民福音学校が開かれた船本牧舎(鳴門市)
大正8年、かねてから生活協同組合に関心を持っていた賀川豊彦は大阪に「共益社」という消費者の組合を作ります。
翌年には神戸に「灘購買組合」と「神戸購買組合」が豊彦の指導で作られました。
(コープこうべ 名誉理事長顧問 高村いさおさんインタビュー)
組合では消費者の意見を取り入れた商品の開発や食料品を産地直送で安く販売するなどして市民の人気を集めます。
そのご灘と神戸の二つの組合は合併し、「コープこうべ」と名を変えて現在に至っています。
組合員の数は140万人。
世界でもベスト3に入る大きな生協です。
(コープリビング甲南リポート)コープリビング甲南には日本一大きい500坪の福祉用品売場があります。
高齢者や障害者の生活を助ける身の回りの品から介護用ベッド、車椅子まで数多くの福祉用品を取りそろえ在宅介護の相談コーナーもあります。
(コープこうべ 環境活動部 統括部長 斎木勝利さんインタビュー)
暴力を否定し、たがいに協力し会うことで生活の改善を目指した賀川豊彦の精神は今に受け継がれています。
(スタジオ)さて、賀川豊彦は作家としての側面もあり、200冊を越える著作があります。
そのジャンルはノンフィクション、詩や小説教育など様々な方面におよびます。
中でも最も有名なのが大正9年に出版された小説「死線を越えて」です。(徳島県立図書館蔵)
スラム街での豊彦自身の体験をもとにしたこの小説は当時、数百万部を売る大ベストセラーになりました。
豊彦は今のお金で10億円を超える印税を手に入れましたがそのお金を自分のためには使いませんでした。
例えば印税の一部の10万円。今なら何億円というお金がどう使われたかという記録を見ると、まず3万5千円を神戸の労働争議の後始末、2万円を日本農民組合の費用、その他、労働運動や生協、福祉などすべて自分が関わった社会事業に使っています。
印税の一部(10万円)の使道 (林啓介 「賀川豊彦」より)
神戸労働争議後始末¥35,0000
日本農民組合費用¥20,000
友愛救助所基本金¥15,000
消費組合設立費用¥10,000
その他社会事業など¥20,000
合計 10万円
こういった賀川の生き方の基本になっていたのはキリスト教の精神でした。
(VTR)大正12年9月1日。
関東大震災によって首都圏はがれきの山と化し、400万人の被災者が出ました。
当時、神戸にいた豊彦はただちに救援物資や義捐金を集めて被災地に送り10月には最も被害の大きかった下町の本所に自ら乗り込んで救援活動を始めたのです。
(斎藤さんインタビュー)
大正から昭和にかけて賀川豊彦は全国を巡ってキリスト教の伝道にも力を注ぎます。
まだ交通が不便な時代、いくつもの社会事業を指導する忙しいスケジュールの中で豊彦は日本中を駆け回りました。
また、アメリカやヨーロッパにも招かれて講演を行い、その名を世界中に知られるようになります。
賀川豊彦は郷里、徳島での伝道にも熱心でした。(光の子保育園・園長 黒田絢さんインタビュー)
さて、こちらは昭和4年4月から5月にかけての賀川豊彦が行った伝道活動のスケジュールです。
まず4月14日から16日まで山口、17日から八幡、20日から下関と休みなく活動しているのがわかります。
1か所で平均10回以上の集会が開かれ、当時既に全国的な有名人だった豊彦の話を聞こうと多くの人が集まりました。
農民学校で教えを受けた鳴門市の市橋さんは公演先まで豊彦を自転車に乗せたそうだ。
豊彦はタクシーを使う贅沢をしなかった。
やがて日本は戦争への道を歩み始め賀川豊彦も時代の波に巻き込まれていきます。
(VTR)昭和11年の満州事変をきっかけに日本は日中戦争へと突入します。
少年時代から一貫して暴力を否定してきた豊彦は昭和16年平和使節としてアメリカに渡り日米関係修復に努力します。
しかし豊彦の努力も虚しく太平洋戦争が始まります。
日本の軍国主義が中国で行った暴虐を思うと耐え切れぬ恥ずかしさがこみ上げてきます。
昭和20年。終戦後まもなく賀川豊彦は内閣参与に招かれ翌21年には貴族院議員に選ばれます。
敗戦国日本は豊彦の世界的な名声と数々の社会事業を手がけた手腕を必要としていました。
しかし豊彦が最も心を痛めていたのは戦争で打ちひしがれた人々でした。
既に50代の半ばを過ぎ、体にいくつもの持病を抱えていた豊彦でしたが再びキリスト教伝道の旅を始めます。また、戦争の悲劇を繰り返さないよう国際的な平和運動にも尽力しました。
<1958年の豊彦の講演(肉声)>
昭和34年、賀川豊彦は伝導のため徳島へ向かう途中で倒れます。
神戸、新川のスラム街に飛び込んでから50年が過ぎていました。
昭和35年4月23日。
賀川豊彦は天に召されます。
豊彦の最後の祈りは他人のため働き続けた彼の人生を象徴していました。
<「愛の科学」中国版より>「天のお父様
教会を強めて下さい。
日本を救って下さい。
世界を平和にして下さい。」(スタジオ)
20世紀は、貧困や戦争など様々な社会のひずみが発生した世紀でもあります。
賀川豊彦は生涯をかけてそれらのひずみと闘い続けたんですね。
信仰の人であると同時に大変な実行力のある人ですね。
困っている人を見ると何かをせずにはいられないという。
賀川豊彦の生き方は現代の我々も学ぶべき事が多いように思います。
(VTR)一生を人のためにつくした賀川豊彦。
スラム街の賀川から世界の賀川になっても彼は人々と直にふれあう事を忘れませんでした。
お金や物だけでは人の心までは救えないことを賀川豊彦は知っていました。
お年寄りの介護や災害の被災者救援がクローズアップされている今、私たちはもう一度賀川豊彦の精神を思い出す必要がありそうです。
資料提供
上落合キリストの教会
賀川豊彦記念・松沢資料館
司会
遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ制作
三浦審也