2000/04/27 徳島の20世紀 〜15  特攻隊員の遺書


太平洋戦争の末期、
配色濃い日本軍は
昭和19年10月、フィリピン・レイテ沖海戦から
飛行機に爆弾を抱えて敵艦に体当たりする
特攻作戦を展開します。
とくに昭和20年4月からの沖縄作戦では
多くの若い命を犠牲にしました。

特攻機で戦死した方は全国で凡そ4千人。(3,910)
このうち徳島県出身者は48人です。
この人達はいったいどんな思いで死んで行ったのでしょうか。

けさの「徳島の20世紀〜特攻隊員の遺書〜」は
彼らの遺書などを通してその人の奇跡を検証します。

陸軍特別攻撃隊 殉義隊(じゅんぎたい)
隊長 敦賀真二(つるが・しんじ)陸軍中尉
阿南市富岡町出身

<遺書>
大命遂に降下す。
輝かしき特攻隊長としてこの武人最高の名誉を忝す。
一億国民はもとより三千年の祖先の血潮は脈々として
我が満身に湧溢す。
まさに皇国忿怒の魁として
一億の刀の切尖として敵艦に玉砕あるのみ。
たとえ暗夜海上遠く出撃して消息不明のこともあろう。
又、誰一人見ていてくれる者もない敵中深く自爆して
爾後不明のこともあらん。
何れにせよ、花々しき勲功は敢へて希望せず。
私の死後、お上から下さる金など、
それから私の貯金は全部航空機献納資金として
陸軍に献納して下さい。
薫より。
父上様、母上様

現在、遺書は手元にありませんが富岡中学で敦賀真二中尉の
二年後輩の故・喜田泰臣さんが平成元年に出版された
この本の中に遺書の内容が残されていました。
その他、敦賀中尉に関することの全てが記されています。

昭和19年12月21日
この日、新手の連合軍艦船団がスールー海を北上していた。
第四航空軍はこの艦隊に対し生き残り特攻隊の
出動可能機の全部を集めて投入することになった。

フィリピンのミンドロ島。この日雲一つない快晴であった。
敦賀中尉以下6名が無言で愛機に搭乗。
出発線より敦賀隊長機が離陸。後続機が出発。
全機編隊を組み、敦賀機が翼を振ると
部下の5機も翼を振って別れを告げる。
やがて視界から消える。
サンホセ海域の敵艦船群に突入。
南の空の白雲を墓標とした。

敦賀真二 陸軍中尉
享年21歳であった。

敦賀中尉は大正12年3月24日
阿南市富岡町に生まれました。

敦賀中尉は七人姉妹兄弟の四男で
男5人の内4人までが兵役に就きました。

中でも真二少年は小学生の頃から成績抜群で
富岡中学へと進んだ。
背が低いながらも機敏な真二少年は中学二年を修了すると
昭和12年3月。東京陸軍幼年学校に入学し、
エリート軍人の道を歩みだします。

昭和14年12月。陸軍予科士官学校に入学。
二年後には陸軍航空士官学校に入ります。

この頃から「ツルパン」と呼ばれるようになります。
つまり、敦賀のパンチを縮めて
「ツルパン」と呼んでいたもので
後輩には相当おそれられていたようです。

昭和18年5月。陸軍航空士官学校を卒業後、
明野陸軍飛行学校で訓練中、空からふるさとに
別れを告げるためにこの通信筒を投下しています。

手作りなのでしょうか。
「敦賀少尉 富岡町 敦賀清二郎宛」と記されています。

中には重しの小さな石が入っています。
便せんには・・・・

「潮岬、蒲生田岬、岡山を経て帰ります航法の途中です。
目下、元気旺盛。明野も本月一杯で了り。
九月より亀山に移ります。
上空より故郷の景色を眺め感無量です。
皆様方のご健勝を祈ります。
 真二より
敦賀清二郎様
 外一同」

そして、遂に敦賀中尉は昭和19年12月3日。
陸軍特別攻撃隊、殉義隊隊長として
茨城の常陸陸軍飛行場を出発することになります。

兄の敦賀通夫さんは
弟の真二さんが常陸飛行場を出発する
珍しいビデオを見つけました。

(VTR インタビュー 敦賀通夫さん・83歳)

徳島出身の画家・故・伊原宇三郎さんは
当時陸軍報道班員として陸軍特別攻撃隊出発の模様を
取材に来ていて、偶然、郷土出身の敦賀通委に出会いました。
その時の模様を昭和20年2月18日号の
「週刊少国民」に発表しています。
その一部をご紹介しましょう。

「敦賀隊長は全機に異常のないのを認めると
最後に機上の人となった。
その直前まで最後の整備に心を込めていた少年兵たちが
機の後方に身を退く。そのまま出発かと思っていたら
思いがけないことに隊長は体をねじ曲げで後方の少年兵の
一人一人に実に真情のこもった挙手の礼をした。
たまりかねたのが一人の少年兵がつと飛行機にかけあがると
今拭いたばかりの防風ガラスをもう一度拭き始めた。
手はガラスの上で動いているが、
眼は隊長の顔をしげしげと見ている。
もういい、もういいと隊長がうなづくと
やっと少年兵は飛行機を降りた。」

敦賀真二中尉は
特攻死で二階級特進し、少佐となります。

生家の近くに墓があります。

ー辞世のうたー
露ほどの 命捧げて大空に
醜の御盾(しこのみたて)と散るぞうれしき

第七神風桜花特別攻撃隊
神雷部隊
中川明、海軍一等飛行兵曹
徳島市国府町出身

<辞世のうた>
海行かば 水漬屍(みずくかばね)と言ふけれど
空行く吾は 白雲と散る

白雲の八重がき分けて 突き進む
大和男児の雄々しさよ

昭和20年に入りますと戦局は益々悪くなり
3月には硫黄島が全滅、
4月に入って沖縄本島に米軍が上陸しました。

「鉄の暴風」と呼ばれた艦砲射撃です。
日本軍は沖縄を取り囲んだ敵艦船に特攻機で挑みました。

中川一等飛行兵曹が所属する神雷部隊第708飛行隊は
5月4日早朝、九州鹿屋基地から
一式陸上攻撃機七機で出撃しました。

一式陸攻には乗り込んでおり
中川一等飛行兵曹は副操縦士をつとめていました。
飛行機の胴体には1トンの爆薬を装填した
「桜花(おうか)」という特攻機を抱えています。
目標上空で母機から切り離された一人乗りの「桜花」は
操縦士もろとも敵艦に突入するわけです。

出撃した第708飛行隊は
7機のうち5機が未帰還となりました。
中川明海軍一等飛行兵曹
享年21歳でした。

中川一等飛行兵曹は
大正13年9月10日。徳島市国府町に生まれました。
12人の兄弟に囲まれて育ち、
上から4人の男子が兵役に服してします。

中川一等飛行兵曹は徳島県立農業学校を卒業しました。
昭和18年4月、
鹿児島の海軍甲種飛行予科練習生となりました。

昭和19年、一式攻撃機の操縦士となり
「桜花」特攻隊の神雷部隊に編入されました。
中川一等飛行兵曹は努力の人だったと
弟の中川次郎さんは次のように話しています。

(VTR 弟中川次郎さん69歳のインタビュー)

中川一等飛行兵曹は父や兄弟に宛てたはがきを
たくさん書いています。いくつかご紹介しましょう。

これは、すぐ下の、勝さん宛に出したものです。
昭和18年6月7日の消印です。

「拝啓、ほんとうに暖かくなったね。
兄さんも毎日、毎日一生懸命やってるから安心せよ。
其の後、お母様もお元気かね。
家では、もうお前が一番上の兄貴だ。
しっかり弟妹を指導せよ。
次郎は、特に来年こそはの意気で。
こう言う自分も兄貴らしい事は何もせずに残念だ。
しかし、お前達と楽しく飯を食べる時も来るだろう。

<後略>

これは、特攻出撃のちょうど一カ月前、
お父さんの才一さん宛てに出したはがきです。

「拝啓、皆々様其の後お変わり御座居ませんか。
お伺い申し上げます。
私、相変わらず元気です故、御休心下さい。
早、四月の候と成り、
家事も多分繁忙なる事と拝察致して居ります。
さて、発送予定のケース、至急お送り下さいませ。
では皆々様によろしくお伝へくださいませ。
又次に御便を出します。
 草々」

次々と特攻機が出撃しているこの時期に
普段と変わらない内容ではないでしょうか。
だからこそ、胸を打つものがあります。

誠 第31飛行隊(通称・武陽特別攻撃隊)
隊長 山本薫 陸軍中尉
小松島市小松島町出身

<遺書>
愈々 晴れの特攻隊長として出撃。
途中死んだ部下もあります。
その仇討ち。
近頃、つくづく死ぬは悲しむことにあらず。
悠久の大儀とは何かという事を悟り
喜んで死ねます。」
修養はむつしいものですね。
薫も今やっと完全な人間となることができました。
 薫より。
母上様」

「愈々晴れの特攻隊員として出撃す。
母のことを宜しく頼む。
芙祥子の事も。
死すべきときには潔く死ぬ。
山本の家名の誉れを汚すな。
後は万事頼む。
 兄より
裕泰殿」

誠 作命(作戦命令) 甲第315号
誠部隊命令5月13日
 台北
一、球兵団前面の敵は殆ど其の全力を展開せるものの如く、
沖縄周辺敵艦艇の動き、
又極めて活発なり。
<省略>
四、誠 第31飛行隊は、
本13日、出動可能の全力を以て
一九二〇 乃至 一九四〇の間に
沖縄周辺の敵艦艇を索めて
攻撃すべし

これは、陸士で同期生の菱沼俊雄さんが
終戦5年経ってからまとめたもので
故・山本薫中尉の奇跡が克明に記録されています。

菱沼さんの記録によりますと
山本中尉は
昭和20年5月13日 午後4時32分、
台湾の八塊基地を出撃。
午後7時30分。
沖縄・中城湾に集結する敵艦艇群に突入しました。
享年23歳でした。

山本薫中尉は
大正11年4月16日
小松島市小松島町に
三人兄弟の長男として生まれました。

成績優秀な山本中尉は徳島中学へ進学、
卒業間際の昭和14年12月。
陸軍士官学校に56期生として入学。
二年後、陸軍航空士官学校で
操縦士としても技術を身につけました。

故・山本中尉の人柄について義理の妹にあたる
山本安恵さんは次のように話しています。

(VTR 山本安恵さんへのインタビュー)

山本中尉は本当に家族思い、
又、部下思いの優しい方だったようです。
いくつかの手紙をご紹介しましょう。

「私は十幾人かの若い部下を率いて戦場に参ります。
真に可愛い奴ばかりで、
中には家庭の事情のお気の毒な人もいます。
しかし、みな、殉国の至誠に燃えている様子は
正に神様のようで、修養の至らぬ私が
果たしてよくこの重任を果たし得るや、
彼らを立派に死に就かし得るやを恐れる次第です。
若し私が死んだら部下の人達の遺族の方々へ
宜しくお伝へ下さい。

今、芙祥子の受験前とて忙しい事と思います。
かげながら芙祥子の合格と将来の幸福を祈ってやみません。
薫は、今迄偉大なる父上様、母上様の養育を受け
本当に幸福でした。
どうか母上様、
薫の死を喜んで下さい。
ご健康と芙祥子の幸福、
裕泰の武運をお祈りします。」

粗末なわら半紙に走り書きしたこの手紙は
出撃20日前、台湾の基地で書かれたものです。

「母上様には長々お世話になり孝行をつくせませんでしたが
不幸の罪お許し下さい。
薫の肉体はほろんでも魂は決して滅びません。
どうか芙祥子や裕泰を見守って下さい。
空襲なんかあまりこわがらぬようにして下さい。
では失礼します。
お元気で。
裕泰にも宜しくお伝へておいて下さい。
 四月二十七日夜
  薫より
母上様
 膝下」

『戦争の世紀』と言われる20世紀の中で
太平洋戦争の特攻死は
私たちに強烈な衝撃を与えました。
当時の若者達の殆どが
国難に殉ずるのが当たり前と考えられていただけに
やりきれないむなしさを覚えます。
しかし私たちはこうした時代があったことを忘れないでおきたいと思います。


資料提供

司会
遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ
制作
胡田俊一

資料提供(敬称略)
ドキュメンタリー工房
故 菊池俊吉
鹿児島海軍航空隊第12分隊