2000/04/12 徳島の20世紀 〜14  徳島城址の100年

明治という新しい時代の到来と共に
藩政時代の象徴だった徳島城は
その役割を終えました。
広大な城跡には
さまざまな施設が建てられました。
日本で2番目に誕生した徳島城公園、
総檜造りの千秋閣、そして全国で五本の指に入る規模だった
西の丸運動場など城跡の百年は
市民の「憩いの百年」であったのです。

毎週シリーズでお送りしています
徳島の20世紀。けさは徳島城の城跡の移り変わりの
百年を振り返ってみたいと思います。

さて、徳島城といいますと阿波17万6千石、
蜂須賀家政公が今から四百年以上の昔に築いた城として
知られていますが、城跡というとどこからどこまでが
城だったのか、みなさんはご存じでしょうか。
こちらをご覧下さい。

これは現在の徳島市の中心部の地図です。
城跡としてみなさんもご存じなのは、標高71.6mの
城山を中心としたこの部分です。

JR徳島駅の北側で東は現在の鷲の門のお堀のあるところ
西は現在市立体育館や武道館のある部分までです。

しかし、徳島城というのは、実はもっと広かったそうです。
徳島城の一番外側は、北は助任川、南は新町川そして
東は福島川まで、三つの川に囲まれたこのひょうたん型をした
島の全部が徳島城の敷地、つまりは城跡なのです。
自然の地形を生かした外堀というわけです。

それでは、次にこの地図をご覧いただきましょう。
これは、同じ場所から見た明治42年の物です。
いかがでしょう。違いがわかりますか?
まず目にはいるのが、この川ちょうどJRとの境目あたりに
大きな川があるのがわかります。

こんな川がありましたか?

はい、この川は寺島川といいまして、もともとは
お城の西側の新町川から分かれて現在の寺島本町を流れ、
城山の南側を通って再び新町川と合流していました。
徳島駅の駅舎の一部はこの寺島川を埋め立ててつくったんです。
それではこの二つの地図を重ねてみましょう。

今からかなり違っていたんですね。

そうです。寺島川は海から船が入ってくるほどの大きな川で
徳島駅の貨物や燃料などをおろしていました。

そしてこの城跡の中心部分をよくご覧下さい。
城山をはさんで東側には徳島公園が、
そして西には監獄署がありました。
これは後の刑務所です。
同じ城跡の敷地内に二つの全く異質な施設が同居していたわけなんです。
今回はこの城跡の中心部にスポットをあてて
その百年の移り変わりを振り返ります。

物語のはじまりは、今から95年前の昔にさかのぼります。

(VTR)

明治38年、日露戦争で大国ロシアを破った日本は
空前の戦勝ムードにわき返りました。全国各地では
勝利を祝う催しが行われました。
徳島では戦勝を記念する事業として城跡に
公園を建設することになったのです。

リポート

公園の必要性を強く主張したのが
当時の徳島県知事・床次(とこなみ)竹次郎でした。

「公園の設置は市民の衛生を保持し、崇高優美なる
精神上の感化を与える。四国第一の都会たる徳島に
公園の創設は必要中の必要事業なり」

当時、徳島市は広島に次ぐ日本で10番目の大都市でした。

公園の設計には本田静六と本郷高徳があたりました。
この二人は日本ではじめての公園、
日比谷公園を手がけたことで世界的に知られた技師でした。

これは、明治38年の新聞に掲載された徳島公園の設計図です。
18.5haの城跡は、画面の黒い部分の城山のほか、
図書館がある東区、監獄の農地を設けた西区、
そして多くの建造物と庭園のある南区と大きく3つに
区分されました。

当時の最高水準の造園技術と現在に換算して10億円を超える
費用、そして5年の歳月をかけ、
明治43年、徳島公園は完成しました。
日比谷公園に次ぐ日本で二番目の西洋風庭園が誕生したのです。
整備された歩道に沿って、ソテツやイチョウなど
凡そ5700本の樹木が植えられました。

公園は市の中心部にあって行き来に便利であることや
木々の緑の豊かさなどから瞬く間に人気となり、
連日大勢の人が訪れるようになりました。

お花見でにぎわう徳島公園です。
桜の下でお弁当を広げる姿は今と同じです。
公園ができるまでは、神社や境内で見られた光景です。
公園が市民の憩いの場となったことがよくわかります。

(インタビュー)
明治の初期、この場所には滴翠閣(てきすいかく)という
武道場しかありませんでした。それが明治41年、
公園はほぼ完成し、明治を代表する数々の文化施設が
建てられました。

その一つが千秋閣です。
これは、大正天皇の宿泊所として建てられたもので、
今の徳島城博物館のあたりにありました。
千秋閣は総檜書院造りという当時の贅を尽くした建物でした。
この建物は天皇の行幸スケジュールに間に合わせるため
着工からわずか4カ月で完成にこぎつけました。
千秋閣はのちに公会堂として一般に開放され
様々な会合や催し物に利用されました。

昭和の初め頃の千秋閣です。
何かの会合だったのでしょうか
髪を結い上げたきれいどころが
人力車を見送っています。

これは徳島県物産陳列所です。千秋閣の南側、
ちょうど今の文化センターのあたりに建てられていました。
物産陳列所は日露戦争の戦没者をたたえると共に
一般市民の戦意高揚を目的として建てられたものです。
玄関脇には魚雷や大砲など戦利品が飾られていました。
明治という時代が、軍国主義の色濃い時代であったことが
よくわかります。

昭和にはいると農地だった城山の西側に西の丸運動場が、
中央部分には図書館が、そして東側には
こどもの国が加わりました。

こどもの国は、遊具や小さな動物がいて
こどもにとってはまさに天国でした。

光慶図書館は大正天皇の即位を記念して建てられました。

これは、剣先橋です。寺島本町側から城跡をみたものです。
現在はJRを越える陸橋にかわっています。
公園が造られてからわずか20年で
城跡は徳島を代表する文化地区へと成長したのです。

盛況を博す徳島公園。
その明るく文化的な広場とは対照的に
もうひとつの施設がこの城跡にはありました。
「監獄」です。

公園ができる以前の明治18年。
城山の西側に徳島監獄本署として落成しました。
ここはまさに市内の中心地です。
画面の右手奥に見えるのが徳島駅です。
延々と続く赤いレンガの壁が
外界との接触を断ちきっていました。

(VTR)

ここは厳しい懲罰の世界です。
犯した罪の代償は重く辛いものでした。
敢えて町中に刑罰のシンボルを築き人々の目に触れさせることで
犯罪を抑制しようとする明治政府の狙いがあったのです。

新聞には囚人の数がしばしば公表されていました。
明治38年7月には
男性632名、女性22名の合計654名が
ここに収監されていました。

明治から昭和まで同じ姿をとどめた監獄とは対照的に
その壁の外側はめざましい早さで移り変わり、かつての姿を
消してしまったものも多くありました。

(VTR)

城山の下を船が通るかつての風景を思い起こさせてくれるのは
かの古い写真だけになりました。

徳島城の城跡は、明治になって公園という
近代文化の拠点として発展していきました。

公園には今ご覧いただいた公会堂や図書館、こどもの国の他に
料亭やレストランまであったといいますから
市民の憩いの場所としてすっかり定着していました。

さて、これまでは様々な文化施設が建てられた
明治から昭和の初めまでをご覧いただきました。
徳島城址の100年。続いては
その戦後の移り変わりを振り返ることにしましょう。

(VTR)

昭和20年。戦火によって徳島市は
灰とがれきの山に変わりました。
公園の樹木はそのほとんどが焼け、
千秋閣や物産陳列館など明治を代表する建物も
全て失われてしまいました。

昭和28年、城山の東側に市民会館が建てられました。
この建物は松茂の自衛隊格納庫を再利用してつくられたものです。
日本が高度経済成長時代に突入する頃
ひとびとが求めたのは「娯楽」でした。

昭和35年。徳島にプロレスがやってきました。
外国人レスラーを空手チョップでなぎ倒す
力道山に観客は熱狂しました。

市民会館では大相撲も行われました。
なかでも、横綱朝潮や大鵬の一番は
詰めかけた満員の会場を沸かせました。

ここでは歌謡ショーも数多く行われました。
当時あこがれの人気スター達が
この舞台で唄い、踊りました。
これは、エリちえみさんです。
美空ひばりの公演が行われました。
会場に入りきれないほどの人が詰めかけました。

城山の西側には西の丸運動場がありました。
昭和4年。全国で5本の指に入るほどの規模を誇る
陸上競技場としてオープンしました。
戦後は中学、高校の陸上競技の大会や練習場としても使われました。

昭和39年10月には東京オリンピックの聖火が
競技場のスタンドに灯されました。
戦後日本で行われる始めてのオリンピック開催を
県民総出で祝いました。
平和な空気がただよう徳島のまちに
突然、事件が起こりました。徳島刑務所から囚人が脱走したのです。
看守のすきを見た囚人が建物づたいに高い塀を乗り越え
市民の住む町へと消えていきました。
町には戦慄が走り、大規模な捜索が行われました。

徳島公園は昭和52年、徳島中央公園と名前が変わりました。

この季節、花見を楽しむ多くの人でにぎわいます。
公園の中にある売店を訪ねました。
工藤節子さんのおじいさんは、戦前この公園にあった
千秋閣で住み込みの技師として働いていました。
千秋閣は空襲で焼け、終戦後ここに店を開きました。

(VTR)

藩政時代、誰もが足を踏み入れることを許されなかったこの場所は
明治以降、ひとびとの集いの場として、
また憩いの場としてその役割を果たしてきました。
城跡の100年。それは
「市民の憩いの100年」であったわけです。

これは昭和36年の徳島市です。
城山と徳島公園そして駅周辺までが見えます。
徳島公園から今はない、大きな道が鉄道を渡って
寺島本町までのびているのがわかります。
そのすぐした、国道192号線には
まだ立体交差はできていません。
時代の移り変わりはさらに速さを増し、
このフィルムに映った39年前の徳島の姿さえ偲ぶことは
難しくなりました。

けさの、徳島の20世紀は
徳島城址の100年をお送りしました。


資料提供 (敬称略)

福原健生、吉本旭、四国大学蔵書凌雲文庫、徳島県立文書館、徳島市市史編纂室、徳島新聞社、日本造園学会、「写真で見る徳島市百年」「写真集徳島100年」

司会

遠藤彰良、宗我部英久、喜多ちひろ

制作 

芝田和壽