2000/03/09 徳島の20世紀 〜9 阿波きざみたばこの歴史

                
ゲスト 郷土史家 吉岡浅一さん                     

(VTR)

江戸の頃から、阿波を代表する特産品に
たばこがありました。
阿波の刻みたばこは、
藍とならんで古くから
全国でその名をしられていました。
そしていまからおよそ
百年前の明治時代、
藍が凋落の一途をたどるなか
徳島のたばこ産業の繁栄は
そのピークを迎えます。
徳島のたばこ産業とはどのようなものだったのでしょうか


毎週シリーズでお送りしている徳島の二十世紀。
今回は、阿波刻み煙草の歴史 について振り返ってみたいとおもいます。

スタジオには郷土史家の吉岡浅一 さんに起こしいただきました。

吉岡さんは長年徳島県のたばこ史について研究されており、「阿波刻みたばこの光と陰」という本も執筆なさっています。
のちほどお話をお伺いします。

さて、テレビの前のみなさんは「刻みたばこ」とは、どういうものかご存じでしょうか。
まずこちらをご覧下さい。
これがたばこの葉です。
阿波池田たばこ資料館からお借りしてきました。
阿波葉と呼ばれるたばこの葉を乾燥させたものなんですがこれを束ねて細かく刻んだものがこちらの「刻みたばこ」になるのです。
ごらんのようにとても細く猫の毛のように見えます。
これが刻みたばこの特徴なんです。
この葉を、いまではあまりみられなくなりましたがこういったキセルに詰めて吸う訳です。

それでは、徳島のたばこ産業はどのように発展していったのでしょうか。
たばこを育んだのは徳島の豊かな自然でした。

(VTR)
徳島県西部に位置する三好郡。
急斜面が多いこの周辺では稲作に代わる作物として、古く江戸時代からたばこが栽培されてきました。
このあたりでとれる葉たばこは山間部で、発生する霧のため独特の味わいを持っていました。

これは明治十六年のたばこの作付け面積をあらわしたものです。
徳島県全域では1454haで、そのうち三好・美馬の山間部では1410ha、実に
徳島県全体の 95%のたばこが生産されていました。
井川、池田の町はそのたばこの集散地として発展してゆきました。
江戸から明治にかけてたばこ産業は飛躍的な発展をとげます。
その理由は刻み道具の発展です。

明治になると、歯車を動かすゼンマイ刻み機が、さらに水車や蒸気を動力とした刻み機が開発されました。これにより繊細でしかも刻み幅のそろった製品がつくられるようになり品質と生産量は飛躍的に向上しました。

この工場では明治三十五年、石油発動機を導入して刻みたばこを生産していました。

壁には発動機が吐きだした百年前の煙のすすが残されていました。

大量生産に成功したたばこ商人たちは競って販路を拡大してゆきました。
刻みたばこは池田の港から船で吉野川を下ります。
大阪で北前船に乗せられ、九州、山陰、関東、東北、そして、北海道まで、全国各地へと運ばれてゆきました。
なかには北海道にたばこの販売支店をだすものまで現れました。
火付きが良く独特の風味を持つ阿波刻みたばこは各地で絶大な人気を得、明治の時代、その名声を不動のものとしたのです
三好郡池田町。この町のあちらこちらで当時の隆盛を伺うことができます。

うだつは富の象徴。
財をなしたものだけに許される成功の証でした。
豪勢なそのつくりからは、全国を縦横無尽に活躍した、たばこ商人の誇りと意気込みが伝わってきます。

たばこ商人の屋敷はその内部も贅を尽くしたものでした。

阿波刻み煙草年表

明治8年(1875) 煙草税制の布告(たばこに税金がかかる)

明治29年(1896)葉煙草専売法公布

明治37年(1904)煙草専売法区府

大正元年(1912)全ての煙草産業が専売制となる。

この家は明治九年、刻みたばこ全盛時に建てられたものです。
床の間から柱、そして障子にいたるまで当時の最高級の素材が惜しげもなく
使われています。

たばこ産業の盛り上がりをごらんいただいたわけですが、
この山あいのちいさな町が、この上ない繁栄に沸いていたんですね。

贅をこらしたあのうだつは富の象徴、まさに成功したものの証しというわけ
ですね。

さてこちらをご覧下さい。
これは幕末から明治時代、阿波刻みたばこが売られていた全国の販売拠点を
まとめたものです。
北前船に運ばれて日本各地に届いていたのがよくわかります。
まず南は九州です。小倉、佐世保、そして長崎県の平戸。
そして北へ行きますと山陰は島根県のゆのつ、など四カ所です。
関西では大阪、神戸、丹波篠山。さらに北へゆきますと石川県の輪島、
東北地方では、青森県や秋田県に、また東京や千葉など関東でも販売されていました。
全国の販売網のなかで阿波刻みたばこが最も大きな市場としていたのが北海道です。
ご覧のように、小樽や函館、根室、釧路など全部で道内で十か所の販売拠点がありました。

それでは、この全国規模の販売網でどのくらいの売り上げがあったんでしょうか?

山忠製造所(井川町)の売り上げ

年商37万円(明治37年)→今のお金で120億円

純益 8万円        →25億円

小樽支店(2ヶ月)3万円 →10億円

こちら、井川町の「山忠」という、あるたばこ製造所の例をご覧下さい。
明治三十七年の年商、つまり年間売り上げは、当時のお金で三十七万円、純益は八万円とあります。
これを今のお金に換算すると、さていくらだと思いますか?

実は年商は百二十億円。純益は二十五億円にもなるんです。

吉岡さん、これはすごい数字ですね。
ほかにもこのくらいの規模の工場がまだ池田や井川にはあったんですか?

ご覧戴きましたようにたばこ商人たちは並外れた富を手に入れ、その暮らしぶりは豪華を極めたと言われます。
一方、工場で働く職人たちはどういった暮らしをしていたんでしょうか。
その暮らしぶりを知るてがかりとなるのがこちら、明治十七年にかかれた「雇人算用帳」 です。この帳簿によると、職人への給料は盆と暮れの年二回にわけて支払われていました。
毎日の生活費は工場主から借りたり、現物で支給してもらいます。
そして盆と暮れに賃金を精算し貸した分との差額を支給していました。
こちらがわかりやすくまとめたものです。
大山徳蔵 という職人が一月から七月まで何を借りたかが細かく書かれています。

一月十八日 十三銭、傘代かし
二月十四日 十五銭、これは現金で借りています。 
こちらは三月二十一日、十銭、箸蔵行き小使いなんていうのもあります。
で、七月までの借金は合計38円79銭4厘。
給料は38円91銭3厘で、手取り残金は11銭9厘。
ところが次のような付け落としがありました。
あずき 5銭。いりこ 5銭5厘。現金1銭の計11銭5厘、
手取り残金の11銭9厘から付け落としの11銭5厘を引くと4厘。
七か月働いてたった 4厘しか手元に残らなかったという訳です。

吉岡さん、七か月はたらいてたった4厘、
当時の職人の暮らしはみなこうだったんですか?

まだましなほう。借金する者も多い。
親方に首根っこ押さえられている。ここから出られない。

なるほど、工場主が莫大な富を手にした一方で工場を支えた職人達の生活は恵まれなかったということですね。

さて、うだつをあげた豪邸が建ち並ぶなど明治三十年代に繁栄の極みに達した民間のたばこ産業にもやがて終止符がうたれることになります。

(VTR)
明治三十七年四月一日、政府はたばこ専売法を公布しました。
葉煙草の仕入れから製造にいたるまで全てのたばこ産業を国の専売と定めたのです。
このとき、日本はロシアと戦火を交えていました。

日露戦争です。戦況は日毎に悪化しました。
莫大な戦争費用を賄うためにはたばこを官営とする以外に道はなかったのです。
専売制、すなわちそれは、たばこ商人の「没落」を意味します。
このことをたばこ業者たちはどのようにうけとめていたのでしょうか。
専売法公布の一年前の明治三十六年、ある新聞に、帝国政府への抗議文が掲載されました。

「我が日本帝国にこれを実行するの必要がありとしますれば、ひとり煙草製造業に限らず酒屋も、醤油屋も、味噌屋も菓子屋も、その他あらゆる営業権を政府が買い上げ、政府自ら百般の営業をやるべしである。
煙草製造官業の目的は単に歳入の増加にあるということである。しかれば何も個人の営業権を奪おて官業にするような、左様な無法な、残酷な事をせなくても他にいくらも良法名案があろうと思う」

煙草業者たちはこのようにのべ、政府の方針に強い不満をあらわしました。
しかし専売制はその年の七月、施行されました。

明治三八年四月、あやめ、さつき、はぎなど官製の刻みたばこが発売され、好評をえました。
これはそのときの新聞広告です。
そのすぐ下、安売りを知らせる藍商店の広告があります。国産藍はこの年、大暴落しました。
外国からの輸入染料に太刀打ち出来なかったのです。
一方たばこは政府の保護政策のもと、この時代の確固たる地位を築いてゆきました。

結局のとことろ専売制導入にあたって、井川と池田のたばこ商人には和解金や補償金が支払われました。
その額は今の金額でおよそ百億円。
実に四国で流通していた金の三分の一が、この山あいのまちに集まったといわれています。

井川町ではこの基金で小学校の講堂が建てられるなど、町の教育の普及に
おおいに役立ちました。
また池田町ではいまの金額でおよそ三億円の補償金をもとに明治四十一年、上水道が作られました。
これは全国で十二番目、四国で初めての水道です。
水不足と伝染病に悩まされていた池田のひとびとも、たばこの恩恵を受けることとなったのです。
専売制によって転業を余儀なくされたたばこ商人たちは酒造、製糸業などさまざまな分野へと参入してゆきました。

官営へと移行し、幾多の戦争を乗り越えたのちも、刻みたばこは作られ続けました。
これは昭和三十四年、池田町にあった日本専売公社池田工場での刻みたばこの作業風景です。
随所にオートメーション化がなされているのがわかります。
たばこ工場を見下ろす山あいの村には葉煙草が豊かに茂っています。ここには明治の昔と変わらない収穫風景がありました。

いまでもこの村で葉煙草を作り続けているご夫婦がいました。
渡辺忠孝さんとたき子さんです。
冬に害虫よけの麦を植え三月の葉煙草の植え付けに備えます。
苗床の世話や葉の消毒、収穫や乾燥など葉煙草作りは一年を通じて
手間のかかる作業です。

その昔、日本全国にその名を知られた「阿波きざみたばこ」
商人たちに巨万の富をもたらしたたばこは今、時代の流れとともにひとびとの記憶から消え去ろうとしています。
賑わいをみせた池田のまちを見下ろすこの農家でまた今年もたばこ作りが始まります。

ご覧いただきましたように、日本全国に広まった「阿波刻みたばこ」はこちらにその歴史を簡単にまとめてみました。
明治二九年、葉煙草専売法が公布されました。

刻み煙草業者は政府から原料の葉たばこを購入することときめられました。
製造販売はまだ民間の手によっておこなわれていました。
ついで明治三七年、たばこ専売法が公布されました。
これにより葉煙草の仕入れから、製造、販売まで、たばこ産業のすべてが
官営となったわけです。

大西さん、学校や上水道の建設など、一般のひとびともたばこ産業の恩恵を受けていたわけですね。

豊かな経済力全国に半世紀さきがけて発電所の建設

大西さん、専売制で煙草商人たちは様々な事業に進出したということですが・・・?

九州で炭坑を買ったひと。一生かかっても使い切れない。
動力の導入は県下で一番早い
 
けさは、繁栄をきわめた「阿波刻みたばこの歴史 」についてお送りしました。
吉岡さん、けさはどうもありがとうございました。

(VTR)
明治時代、刻みたばこは庶民の暮らしに深く浸透していました。
紙巻きたばこが主流になった現在、細く長いキセルをくゆらすその姿は

江戸時代の浮世絵を見ているように思えてなりません。


司会:遠藤彰良、宗我部英久

制作 :芝田和壽