2000/03/03  徳島の20世紀 〜8

戦争の世紀始まる 上八万村・118名の戦没者


PORTRAIT.JPG (101699 バイト) ここに掲げられた人たちは
徳島市上八万町の戦没者の方々です。
西暦1901年から2000年の
百年間に様々な戦争がありましたが
この方々はその犠牲者です。

 

BUKUN.JPG (22006 バイト) 私が手にしている一冊の本。
この「武勲録」は
上八万ふるさと会の皆さんが編集したもので、
こちらのお写真はこの中に収められた
戦没者の方々です。

20世紀は「戦争の世紀」と言われます。
背源を求めイデオロギーを掲げ
この百年、各地が戦火にまみれました。

STUDIO.JPG (25282 バイト) 徳島の20世紀。
8回目のけさは
戦争犠牲者の縮図ともいえる
上八万地区の場合を取り上げ、
様々な角度から検証します。


(VTR)

YOSIMOTO.JPG (29438 バイト) 上八万ふるさと会 吉本晋さん(79)

吉本さんら上八万ふるさと会の人たちは
名東郡上八万村と呼ばれていた地区の遺族を
手分けして回り、戦没者の履歴を調査しました。

これは昭和12年当時の上八万村の地図です。

白い丸が戸数で、499戸あります。
緑の丸は日露戦争から太平洋戦争までの
戦没者を示しています。
赤い丸は兄弟二人の犠牲者を出した家につけました。
その結果、緑の丸の戦没者が118人
赤丸が12戸ありました。

全てはこの「武勲録」に基づいています。

まず、日露戦争の戦没者からみてまいりましょう。

(VTR)
1904年に始まった日露戦争は
満州への収益を求める日本とロシアとの闘いでした。
郷土・徳島からは歩兵43連隊が出兵した関係で
県内全体で1,509人の犠牲者を出し、
この中に上八万村の12人が含まれています。

そのひとりが、陸軍歩兵上等兵
森 虎市。
広島県の病院で戦病死。
享年二十三歳でした。

スタジオに掲示しましたのは
武勲録に遺影が載っている76人の方々です。
以後、戦没者の敬称は略させていただきます。

次は1931年。昭和6年の
満州事変に端を発した日中戦争での戦没者です。

(VTR)

中国大陸を舞台に展開された日中戦争は
日本が傀儡国家・満州国を踏み台にした
中国への侵略戦争と言えましょう。
いわゆる十五年戦争は
昭和16年(1941年)12月8日に始まった
太平洋戦争が終結する昭和20年8月15日まで続きました。

当時の中華民国を中心に
台湾も含めたこの方面での戦死者は
37人にのぼっております。

中華民国を中心としたこの方面での戦没者の方々です。

遺影:坂井光茂。船城太郎。相田猪佐夫。川人進。
西尾九一郎。早渕静夫。泉勝。安渕恒次郎。宮崎利秋。

中国を舞台にした戦争は十五年戦争と言われただけに
犠牲者も多く、
さらに、その前の日露戦争での戦没者も加わるため
地区別では最も多くなっています。

陸軍歩兵上等兵
小川 明
昭和十二年九月五日
中華民国 江蘇省の戦闘で戦死。
享年二十歳。

(VTR)
兄・小川秀雄さん(88)の話

弟二人の遺影を抱えた秀雄さんは
今年88歳になりました。

中国戦線で国の犠牲になった方々です。
戦死のほかに戦病死された方も目立ちます。

遺影:長谷部覚。長谷部敏一。杉本鶴治。小川多美雄。
元木信夫・元木純一
ご兄弟で戦病死されています。

陸軍歩兵上等
樋口儀蔵。
中華民国浙江省の
霊峰兵站病院で
終戦後の昭和二十年十月二十八日戦病死。
享年三十八歳。

(VTR)
長男・樋口輝雄さん(68)の話

遺影:宮内一雪。水落多良。武市貞美
十河功。川人一二。

中華民国、現在の中国で戦死された方々です。
伝染病や戦争栄養失調症も
戦場では恐ろしい敵でした。

続いては太平洋戦争です。

(VTR)
昭和16年1941年12月8日
ハワイの真珠湾攻撃で幕を開けた
太平洋戦争は、「ABCDライン」

つまり、アメリカ、イギリスなどの
対日禁輸政策に対し
南方に資源を求めて始めた苦し紛れの戦争でした。

太平洋戦争で最も戦死者の多かったのが
フィリピン戦線です。

この地区では、敵のほか
飢餓、風土病、伝染病との闘いが加わり
悲惨な戦場となりました。
戦没者は
フィリピン 20人。
ニューギニア 4人。
ブーゲンビル島2人などとなっています。

こちらの方々がフィリピンを中心とした
戦没者の方々です。

遺影:坂井秀夫。久米政晴。山岡浅緒
中林末男。三浦八郎。三浦正一。
近藤清五郎。中西圭三
桜木久夫。小川功

初期の戦闘で、一度は優勢に立っていた
日本軍でしたが、物量にまさる米軍の巻き返しにあい、
次第に苦戦を強いられるようになりました。

ガダルカナル島の攻防戦など
フィリピンを中心とする周辺の島々では
言語を絶する血みどろ死闘が展開されたのでした。

陸軍歩兵兵長
多田敦
昭和二十年六月十四日
ジャワ島のジャカルタ陸軍病院で戦病死。
享年二十六歳。

(VTR)
義理の姉・多田登志子さん(82)の話

SYUTUJIN.JPG (25760 バイト) これが「出陣」の詩です。
一部をご紹介しましょう。

出征の歌
多田敦遺作

一、
入隊以来 一カ年
兄と頼みし 戦友と
兄ともなりし 戦友と
歓呼の声に送られて
第二の古巣 兵営を
今ぞ出で行く雄々しくも

二、
四、
父さん、母さん 有り難う
我が子を送る 嬉しさに
瞼もうるむ 母の顔
小さいときから いろいろと
今ぞ其の恩 キット今
眼と眼で交わし すべり出る


フィリピンなど南方の島々では
多くの方が国の犠牲となりました。
武勲録では「悲壮な戦死」と記されています。
勝ち目のない無理な闘いだったと言えそうです。

遺影:山内重信。水落恒男。辻岡優。
花岡淳一郎。勝野時雄。
久保納。久保井八十六。

南方の戦没者はまだまだ続きます。

陸軍歩兵兵長
宮内重美
徳島歩兵第四十三連隊に入隊。
昭和十九年九月三十日
フィリピン・ルソン島で米上陸軍と交戦し戦死。
享年三十四歳。

(VTR)
妻・宮内ツヤ子さん(83)の話

陸軍上等水兵
佐々木武夫。
昭和二十年二月二十四日
フィリピン・マニラで戦死。
享年三十四歳。

(VTR)
妻・佐々木タメノさん(83)の話

陸軍機関兵長
勝野正夫。
昭和十九年十月二十五日
フィリピン・レイテ沖海戦で
駆逐艦「初月」で戦闘中戦死。
享年二十三歳。

(VTR)
弟・勝野昭さん(73)さんの話

ビルマ戦線は
郷土部隊の歩兵第43連隊が派遣されていた関係で
多くの戦死者を出しました。
赤丸が戦死者の数です。17人です。

ビルマ戦線も、当初は破竹の進撃で
たちまちのうちにほぼ制圧しました。

しかし、ここでも連合軍の反撃が始まり、
日本軍の無謀なインパール作戦も失敗しました。
撤退する敗残兵が飢えと病で倒れ
死体の重なる山道は「白骨街道」と呼ばれるほどでした。

遺影:前野正男。中西清。桜木庄太郎。
多田治美。大門晴一。平山茂雄。
荒木栄。佐々木速。桑内千秋。

配色濃くなった日本軍は
次々と前線基地を失っていきます。

サイパン、グアム、硫黄島が相次いで玉砕しました。
沖縄には昭和20年4月に米軍が上陸しました。

海軍軍属 雇員
多田昭二
硫黄島の戦闘で戦死。
享年十七歳。

(VTR)
兄・多田昭一さんの話

ごらんの方々は
グアムと沖縄で戦死されました。

遺影:中村勲。由良長男。三木五平。長谷部猪佐男
村井茂久。宮崎昭吉。鈴江晴好。早渕峯太郎。

米軍は島伝いに日本に近づいてまいりました。
昭和19年7月7日。サイパン玉砕を発端にして
8月にはグアム島も玉砕。
翌20年3月には硫黄島玉砕。
4月には沖縄本島に米軍が上陸。
連合軍は日本本土に迫ってきました。

このほか、シベリヤや、千島列島など日本近海や
日本国内で戦没された方々もいます。

海軍二等兵曹
福山敏夫
昭和十八年九月二十日
北太平洋のキスカ島撤退作戦に
輸送船で参加し、戦死。
享年三十九歳。

(VTR)

妻・福山トミエさん(90)の話

由良岩雄。武市繁由。
相田健一。相田秀夫。中林五郎。
上原勝。佐々木義平。
伊勢良夫。樋口新五郎。桑原博。
曽良恒一。

けさご紹介しました上八万村当時の
戦没者名簿は日本の縮図と言えます。
ざっと計算して28人に1人の割合で
犠牲者を出していますが
これはまさに全国平均とほぼ同じ割合なのです。

20世紀は「戦争の世紀」と呼ばれ
我が国も世紀の半分までは戦争に明け暮れました。

幸い我が国は太平洋戦争以後、
平和憲法を守り戦争のない半世紀を迎えました。

上八万町の「武勲録」は戦没された方々の武勲を
伝えるとともに、私たちに戦争の悲惨さと
平和の尊さを教えてくれました。

資料提供 (敬称略)
上八万ふるさと会 吉本晋
ドキュメンタリー工房

司会
遠藤彰良、宗我部英久、物部純子

制作
胡田俊一