2000/02/25  徳島の20世紀 〜 7 鳥居龍蔵


7-TORII.JPG (2821 バイト) 考古学・民俗学の「巨人」 鳥居龍蔵

 

7-STUDIO.JPG (10960 バイト)

 

激動の20世紀。
アジアは歴史の大波にもまれ、各地の固有の文化や風俗は
大きく姿を変えました。
しかしここに、百年の時の流れを越え
20世紀初めのアジア各地の貴重な民族文化を生き生きと
伝えてくれる写真があります。
その数およそ2000枚。学術的価値ははかりしれません。

これらの写真はすべて
明治から昭和にかけ、前人未踏の探検調査を行った
ある日本人の学者が困難を重ねて撮影したものです。

遠くシベリアから台湾、韓国、中国、モンゴルまでも
縦横無尽に踏破したその人の名は、鳥居龍蔵。
民族学、考古学史上の巨人です。

毎週金曜日にお届けしています徳島の20世紀。
けさは今世紀の民族学考古学の上に大きな業績を残し
波乱の人生を歩んだ徳島市生まれの学者、
鳥居龍蔵にスポットを当てます。

スタジオには徳島県立博物館・館長で
鳥居龍蔵の業績を研究なさっている
天羽利夫さんにお越しいただきました。

7-AMOU.JPG (4128 バイト)  

県立博物館 天羽利夫さん

(天羽さんにインタビュー)
天羽さんの後ろに鳥居龍蔵が明治時代に撮影した
貴重な写真が並んでいますが
最近ますますその価値が見直されているという事ですね。

93年に東京大学で鳥居の展示があった。

そんな人がこの人がこの徳島から出たんですね。
それでは鳥居龍蔵の歩みを見てゆきたいと思います。

(VTR)

7-SEIKA.JPG (4217 バイト) 徳島市東船場1丁目に生家あとがある。

徳島市の中心を流れる新町川のほとり。
水際公園の一角に鳥居龍蔵の生家あとを示す標示があります。
鳥居龍蔵は明治3年ここ徳島市東船場1丁目の
裕福な、たばこ問屋に生まれました。
家のすぐ裏の新町川で遊んでいて
危うく溺れかけたこともあるといいます。

7-CHILD.JPG (2802 バイト) 少年時代の鳥居龍蔵

絵本や芝居など、当時の町の文化的刺激を受けて育ち
好奇心旺盛な子どもになります。

6歳になって尋常小学校にあがり、
龍蔵は教科書の冒頭に『世界には5種類の人種があり、
日本人はそのうちのアジア人種である』
と書いてあるのを見て激しく興味をそそられます。
人類学、民族学に関心を持つきっかけでした。

しかし龍蔵にとって学校は不自由で窮屈な所でした。
どうしても学校になじめず学校嫌いになって龍蔵は
小学校を2年で中退してしまいます。

以後、龍蔵は近所の先生に教わるなどして
語学や歴史学を独学で次々と身につけてゆきました。

明治23年、20歳になった龍蔵は上京し、
東京帝国大学人類学教室に坪井正五郎博士を尋ねます。
学会のリーダー・坪井博士は、かねてから文通していた
鳥居龍蔵の才能と情熱を鋭く見抜き、龍蔵を招いて
帝大人類学教室、標本整理係の席を与え、
おしみなくその育成に力を注ぎました。

本格的に研究者の道を歩み始めた龍蔵に
最初にアジア調査の機会が訪れたのは明治28年、
龍蔵25歳の時でした。
最初に訪れた中国東北部の遼東半島で
龍蔵は当時存在しないと思われていた、
石器時代の巨石遺跡「ドルメン」や、
数々の石器を発見し、大きな成果を上げます。

こうして鳥居龍蔵の探検調査に明け暮れる
学者人生が始まりました。
地図もなく、外国人が入れば
何が起こるかわからないような辺境の地を
毎年のように訪れ、行く先々で画期的な発見や、
驚くべき未知との出会いがありました。

龍蔵の調査は大きく6つの部分に分けられます。
画面の中の枠で囲んだ区域が龍蔵が調査した地域です。

今日の学会の基礎を築く、不滅の業績を残しています。
龍蔵の研究は今日の民族学、考古学の両方にまたがる
総合的で幅広いものでした。

龍蔵の研究の証である各種の貴重な資料のうち
考古学部門のものは
東京大学構内の博物館に保管されています。
特別に許可を使って中を見せてもらいました。

(VTR 東京大学総合研究博物館)

7-MUSEUM.JPG (5268 バイト) 7-ONUKI.JPG (4351 バイト) 東京大学 総合研究博物館 

/東京大学 大貫静夫教授

教授・大貫さんインタビュー

一方、龍蔵が収集した中で民族関係のものは大阪府の
国立民族学博物館に保管・展示されています。
特に中央アジアから東アジアにかけての展示コーナーには
龍蔵が集めた資料が重要な位置を占めています。

(VTR 国立民族学博物館)
教授・大塚和義さんインタビュー

7-OTSUKA.JPG (3454 バイト) 国立民俗学博物館 大塚和義教授

現代の考古学、民族学の第一線の先生方がそれぞれの分野で
鳥居龍蔵を恩師のように『先生』と呼んで
『今の時代でもあれだけの調査はとてもできない』と
口を揃えるのが印象的でした。

(天羽さんへインタビュー)
明治という創世記の時代の熱気のようなものを感じますが
独学であれだけの学者にまでなったという基礎の部分は
明治3年に徳島市で生まれ育ったというところにも
カギがあるのでしょうか。

東船場という土地柄が重要。

さて、龍蔵の主な業績を6つの地域それぞれに具体的に
みていきましょう。

☆中国東北部とモンゴルにまたがる広大な地域。
 龍蔵のアジア調査の第一歩は
 明治28年に遼東半島から始まる。
 ワラジばきで徒歩の調査。その後昭和に至るまで
 何度も調査を重ねる。
 踏破した距離は数千キロに及びます。

(VTR)
最初のフィールドワークによってこの地域に
石器時代の存在を確認した龍蔵は遺跡の発掘に力を入れます。
その結果、日本の古代文化が大陸の強い影響を
受けていると考えるようになり、
大陸文化の重要性をいち早く世に伝えました。

また、晩年は10世紀から12世紀にかけて
モンゴルから中国東北部にあった国
『遼(りょう)』の研究に力を注ぎます。
これらは龍蔵が遼の遺跡で発見した
仏像の破片やレンガ類です。
遼では騎馬民族のモンゴル人が
周辺の農耕民族の文化を取り入れて
複雑な社会や文化を形作っていました。
遼の研究が龍蔵の晩年のテーマでした。

次にこちらをごらんください。

☆明治29年からは毎年のように台湾を調査しています。
当時は少し地方に行くと治安が非常に悪く
まだ首狩りの風習が残る部族もありました。
あまりの危険さに誰も調査に行こうとする研究者がなく
龍蔵が命の危険を覚悟の上で調査を引き受けたそうです。

スケッチによる記録にあきたらない龍蔵は、
自ら写真の技術を身につけ第一回の台湾調査からは
現地にカメラを持ち込んで写真をとるようになりました。

これは銀の甲をつけて正装したヤミ族の男達です。
穏和な部族で龍蔵は村長の家に招かれて滞在しました。

こちらはパイワン族の子どもと青年達です。
同じ民族衣装を着ています。上着が短く
みんなお腹を出しています。

龍蔵は時に危険に直面しながらも
精力的に様々な部族と交流、調査を続けました。
龍蔵が撮影した人々の文化や風俗は
今では無くなったり忘れられたりしたものが多く、
これらの写真は極めて貴重なものです。

また、龍蔵が確立した台湾の部族の呼び名や分類は
現在でもなお使われているほど的確なものです。

調査活動をする若き龍蔵自身の姿も
カメラにおさまっていました。
好奇心旺盛な「アミ族」の男達が、
調査する龍蔵を逆に観察しているような面白い写真です。

鳥居龍蔵が撮った写真は今のようにフィルムではなく、
一枚一枚がこのようなガラスの板に薬剤をぬったものでした。

こんなガラス板を何百枚と調査に持っていくのは
牛車に乗せたり人夫をやとったりと大変な苦労でした。

こういう写真は時間が経てばたつほど
ますます価値がでてくる貴重なものですね。
すごい業績だと思います。

さらにこちらの地図をご覧下さい。北の島です。

☆龍蔵はこれらの島々に住んでいた千島アイヌの人たちを
明治32年に調査しています。
これは今日では絶対にできない調査です。なぜなら、
千島アイヌ達は日本政府の強制移住政策などもあって
民族として消滅してしまし、誰ひとりいないからです。

龍蔵は千島アイヌの生活用品を数多く収集しました。
羽がついたままの鳥の皮の服です。
5〜6千羽の海鳥を必要とします。
風雨の厳しい時にはもう一枚を裏返しして
羽毛を外側にして着ると雨や雪をはじきます。

龍蔵は千島アイヌが竪穴式住居に住んでいたり
石器や土器を使っていたことを確認して
アイヌこそが日本の先住民族ではないかと注目しました。
今日、千島アイヌに関する龍蔵の研究は
不朽の業績として高く評価されています。

また龍蔵は民族として消滅しようとしている
千島アイヌに深い同情を寄せ
可能な限りの資料と記録を後世に残せるよう
全力をつくしました。

☆龍族は四川省や雲南省などがある中国の西南部を
明治35年から9カ月にわたって調査している。

☆このあたりは天下に名だたる険しい山々が連なり
雪山で大変な苦難の旅でした。

7-HENSOU.JPG (3350 バイト) 中国人に変装した龍蔵

調査旅行中の一行です。
調査団は馬と徒歩だけで数千キロの調査をやり遂げました。
またこの頃はちょうど義和団の乱があった直後で
治安が悪く、龍蔵は弁髪をつけて中国人に変装していました。
危険を冒しての調査によって龍蔵は稲作を初めとする
この地域の文化や風習が日本の衣食住の
ルーツのひとつではないかと推測しました。
これは、日本文化が周辺各地のアジア文化の複合的な
影響を受けているとする
今日の日本文化論の基礎となる大きな業績でした。

さらに足跡をたどりますと。
辺境、周辺部を求めて今度は北に飛びます。

☆明治44年から昭和にかけて何回も龍蔵はサハリンから
シベリアのアムール川流域を調査して、貝塚などの
考古学調査と多くの小数部族の民族学調査を同時に行い
その足跡は、はるかバイカル湖のほとり
イルクーツクにまで達しています。

☆龍蔵の精力的な調査活動の勢いはまだ止まりません。
サハリン、シベリアと並行して
同じ年に朝鮮半島も調査しています。
朝鮮でも周辺部で巨大な石器時代の遺跡を発見して、
従来の学説をくつがえす画期的な成果をあげています。

学者として偉大な業績を残した鳥居龍蔵ですが、
その人生の後半は
日本とアジアの激動の歴史と重なったこともあり、
波乱の歩みがありました。

(VTR)

7-PARE.JPG (3185 バイト) 龍蔵と結婚した きみ子も民俗学者として成長

明治34年、東京帝国大学助手になっていた31歳の龍蔵は
徳島市の女性きみ子と結婚します。
明治40年、龍蔵は妻と、
生後70日にしかならない長女を連れて
一家でモンゴル奥地の調査を行います。
妻きみ子はモンゴル語を身につけて有能な助手として
調査を支え、のちに自分自身で論文を書くなど
女性民族学者として成長していきます。

大正10年。龍蔵は東京帝国大学人類学教室の主任になり、
名実ともに学会をリードする地位にのぼります。

翌年の大正11年に、龍蔵は故郷に錦を飾るように
徳島公園の中にある城山貝塚の発掘調査を行っています。
この貝塚からは貝をはじめ、
縄文時代弥生時代の石器や土器が発見されました。
徳島県唯一の縄文時代の人骨もこの調査で発掘されました。

東京帝国大学助教授にまで
順調に昇進の道を歩んでいた龍蔵ですが、
大正13年、54歳の時。
ある論文の審査をめぐって同僚らと対立し、
突如として大学に辞表を提出して辞職してしまいます。

この後龍蔵は上智大学教授などをしながら
『町の学者』と自称し、資金集めに苦労しながら
探検調査を続けました。

昭和14年になって龍蔵の業績に注目した
北京の燕京大学が教授として龍蔵を招き、
龍蔵は69歳にして一家をあげて中国に移住します。

しかし、日本は中国との衝突をエスカレートさせ
昭和16年、ついに太平洋戦争に突入しました。
燕京大学は閉鎖され
龍蔵一家は日本軍によって軟禁状態におかれてしまいます。

戦後、龍蔵は再び大学に復帰しましたが
平穏な日々は長く続かず、中国国内は
国民党と共産党の内線で騒然となります。

昭和26年。81歳の龍蔵は苦労の末、
着の身着のまま、家族と共に貨物船で
日本に引き揚げてきました。

日本に引き揚げて二年後の昭和28年。
自分の歩んできた研究人生を振り返りながら
龍蔵は82年の生涯を閉じました。

(インタビュー)
☆研究者として龍蔵の人生をどう思うか

明治の徳島はすごい人を生んだものですね。
偉業を偲びたいと思います。

徳島ではこちらに行くと
鳥居龍蔵の業績にふれることができます。

(VTR)

7-TORiiMuseum.JPG (4200 バイト) 鳴門市妙見山にある県立鳥居記念博物館

鳴門市撫養町の妙見山の上に
城の形をした鳥居記念博物館があります。
この博物館は鳥居龍蔵の業績をたたえて作られたもので
四階建ての館内には龍蔵が収集した資料や
龍蔵の身の回りの品物が展示されています。
特にアイヌ関係のものや中国の古代のものは
貴重なものがあります。

博物館の横には
鳥居龍蔵ときみ子夫人の墓があります。

龍蔵は生前から自分の墓は
鳴門海峡が見えるところにつくって欲しいと
言い伝えていました。

お墓は、龍蔵のアジア研究の原点となった
ドルメンの遺跡をかたどっています。
ドルメンは巨人の墓という言い伝えがあります。

民族学、考古学の巨人・鳥居龍蔵は
今ここで妻と共に、梅の花咲くドルメンの下に眠っています。

7-DOLMEN.JPG (4325 バイト) ドルメンに眠る 鳥居龍蔵と妻

鳥居龍蔵の調査マップ

資料提供
県立鳥居記念博物館。県立博物館。国立民俗学博物館。東京大学総合研究博物館。立木写真舘

司会
遠藤彰良、宗我部英久、物部純子

制作
林敬