2000/01/07 徳島の20世紀 〜1 明治の徳島

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徳島の20世紀@「明治」

西暦2000年、新しいミレニアムが始まりました。
と同時に20世紀最後の年のスタートでもあります。

20世紀は人類が初めて月面に降り立つなど
科学技術が飛躍的に発展した一方で
大量殺戮を伴った戦争や、環境破壊など
人類の将来にかかわる大きな課題を突きつけられた百年でもありました。

この百年間を徳島の先人達はどう生きてきたのか。
「おはようとくしま」では今日から毎週1回、1年間に渡って
徳島の100年を映像で振り返るシリーズ
「徳島の20世紀」をスタートさせます。

けさはその第一回として
明治の徳島がどのような町でどのような時代だったのかを
残された貴重な資料をもとにお伝えします。
まずは、100年前の主なできごとからごらんください。

100年前の主な出来事
  • 徳島市内中心部への電力の供給が始まったり鉄道や電話が初めて利用されるようになった。
  • 国内の主な出来事 日清、日露戦争がおこった。義務教育六年制が導入された。
  • 明治22年市町村制が導入された当時、徳島市は内町、渭北、渭東地区など現在の16分の1の広さしかなかったものの人口は約6万人で当時全国で10位という大きな年でした。

県内では徳島市内の中心部への電力の供給が始まったり、
鉄道や電話が初めて利用されるようになったのがおよそ100年前です。

また国内の主なできごととしては日清、日露戦争が起こったほか、
義務教育の6年制が導入されたのがこのころです。

次にこちらの図をご覧下さい。
市町村制が導入された明治22年当時、徳島市は内町、渭北、渭東地区など
現在の16分の1の広さしかありませんでしたが、
人口はおよそ6万人で当時、全国で10位という大きな都市でした。

さて、スタジオには一枚の写真を拡大したパネルを用意しました。
これは徳島市にお住まいの高橋玲子さんが所蔵している明治40年頃の
徳島市の写真です。眉山から撮影されたもので城山を中心にした市街地の様子がよくわかります。

当時はまだ写真が珍しく、克明に百年前の徳島を記録したこの写真は本当に貴重なものです。
まずはこの写真をもとに、明治の徳島を振り返ります。

新町川の河口から川に沿って沖洲、末広、中洲。新町川をはさんで
中洲の対岸には現在は県庁がありますが、この写真ではその周辺にあまり建物はたっていないようです。
ただ、現在県庁があるあたりには何か別の建物があるように見えます。

私が現在のその場所へ行って
徳島城博物館の初代館長福原健生さんに百年前の徳島について聞きました。

(VTR)

この建物は、各種の催し物会場にも使われていた「県会議事堂」
この建物があったのが、現在のかちどき橋南詰め周辺です。

今から百年前、その県会議事堂の西隣にあったのが県立徳島中学校です。
昭和に入ってこの徳島中学校の跡地に前の県庁が建てられました。

現在、その場所は県庁前広場となり、石碑に徳島中学校の名残がわずかに残るだけとなっています。

新町川は藩政時代から徳島の海上交通の中心でした。

この写真は県庁のある万代町方面から中洲方面を撮影したもので大正時代頃の
新町川の様子を現在に伝える貴重な一枚です。

新町川を通る船の多さに驚く一方、かちどき橋はまだ無く、鉄橋だけがかかっています。
そして、この城山へ向かって流れる川が寺島川です。
昭和に入って埋め立てられました。

明治40年頃の徳島市内の地図です。この地図からも写真が伝える当時の徳島の姿を確認することが出来ます。

新町川の河口部、中洲町あたりは湿地帯。そして新町川の支流、寺島川が城山の方向へ流れているのがよくわかります。

続いて百年前のこちらの徳島の写真の中から、新町川沿いにご注目ください。
倉庫群の歴史についても話をうかがっています。

(VTR)

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新町川沿いの藍蔵

明治時代には新町川の岸には藍倉がズラリと立ち並んでいました。
この倉庫群があったのが現在の藍場浜公園周辺です。

(VTR)

さて、みなさん。百年前明治時代の徳島の写真。今度は城山の東側をご覧ください。
ちょっと変わった形をしたこの建物に気が付いたでしょうか。

よく見ますととてもハイカラな百年も前の建物とは思えない外観です。
さて何なのでしょうか。

(VTR)

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徳島監獄所

監獄署 徳島刑務所

刑務所とはいっても当時の人には大変親しまれた建物で、懐かしく思われた方も多いと思います。
なつかしの建物や風景を写真で振り返ります。

徳島公園は明治38年、日露戦争での勝利を記念してつくられました。
公園の中にあった千秋閣は皇太子の宿泊所として建てられました。

この物産陳列場も公園の中にあった建物で博物館のような施設でした。

明治40年頃、城山から北東方面を見た風景。中央には徳島師範学校があり、
その向こうには吉野川も望めます。

そして現在の風景です。
こちらは城山から北方面を見た風景です。

細長く見える街並みは助任本町です。
常三島の方向から見た助任橋です。

現在の様子と比べると助任川がずいぶん狭くなっているのがよくわかります。

昭和のはじめまでは、蜂須賀家の家老だった賀島家の屋敷が県庁でした。

これは徳島高等女学校。現在の城東高校です。

こちらは明治11年につくられた徳島地方裁判所。
徳島町1丁目にありましたが戦災で焼けました。

阿南市の津乃峰山から見た橘湾です。
まもなく、石炭火力発電所が操業を始めます。

こちらは橘の港です。ここも、大きくその姿を変えた場所です。

日和佐町の薬王寺です。現在は商店街にお店が並んでいます。

明治時代の鳴門市撫養町や鳴門町には広大な入り浜式の塩田がありました。
しかし、昭和30年頃を境に流下式製塩法に取って代わられ こうした塩田の姿は消えていきました。

江戸中期1752年につくられた第十堰。
現在、その改築をめぐって徳島は大きく揺れています。

続いては、およそ百年前、明治末期の徳島の人々の暮らしについて
VTRでまとめました。ご覧ください。

(VTR)

江戸時代の末に伝わったランプは明治から大正にかけて電灯がともるまで
広く使用され、県内でも僻地では昭和20年頃まで使われました。

徳島で初めて電灯がついたのは1895年。明治28年4月のことです。
これは徳島電燈株式会社が送電したもので四国では一番早く電灯がともりました。

取り付けられた電灯の数は800個でした。

徳島市内に開通した電話はよく1908年には小松島で、 1909年に撫養でも開通しました。

電話の設置にかかる費用は当時の新聞によりますと 工事費と登記料をあわせて70円。
白米が10キロ1円50銭の時代でした。

断髪した士族が刀を腰にさしてこうもり傘をかざした姿。

高等女学校での裁縫の講習会。

こうした写真の一枚、一枚が徳島の文明開化を物語っています。

明治時代の頃発案され、あっという間に明治の主力交通機関となったのが 人力車。

1899年明治32年のピーク時には2565台を数えましたが、 鉄道の開通などで次第に影をひそめていきました。

明治3年に日本に初めて輸入されたと言われる自転車も急速に徳島でも普及しました。
最初は木で作られていましたが、その後鉄輪になり、 1897年、明治30年頃にゴムの車輪に変わった時には県内で30台足らずしかなかった。

自転車も明治の末には1万台を突破しました。

徳島の近代化を大きく進めたのが鉄道の開通です。

1899年明治32年2月徳島と鴨島の間を走った鉄道は、翌年には 川田まで延長されましたが、1907年、明治40年に買収されて国有鉄道になりました。

明治時代の末期は富国強兵の号令のもと、戦争の足音が近くに聞こえていた時代でした。
当時の写真として戦争への出征を記念したものや、 蔵本にあった陸軍の歩兵連隊を撮影したものが比較的多く残っています。

「徳島の20世紀」
けさは、その第一回として明治という時代について考えました。


資料提供 (敬称略)

青木幾男、飯原一夫、加賀谷利彦、高橋玲子、
立木写真舘、旧永井屋敷、
県立文書館、県立博物館、徳島市市史編纂室、
松茂町歴史民族資料館、モラエス館、


司会
遠藤彰良、宗我部英久、物部純子

制作
井上彰夫