遠藤
けさの特集は、賀川豊彦です。

(VTR)
今月8日、神戸で行われたシンポジウムにノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスさんがやってきました。
ユヌスさんは、バングラデシュの貧困をなくす活動が高く評価されています。
100年前の神戸にも同じことを言った人物がいました。
賀川豊彦。
「日本のガンジー」とも呼ばれ、生涯を貧しいもののために捧げました。
安い賃金で働く労働者のために社会と戦いました。
資本主義の限界を感じ、協同組合運動をおこしました。
経済格差など現代社会が抱える問題が山積みの今、賀川豊彦の精神が見直されています。
(スタジオ)
遠藤
賀川豊彦が、貧しい人々を救ってから今年でちょうど100年が経ちます。
今朝は、徳島が生んだ偉人、賀川豊彦について考えてみたいと思います。
地元・徳島でも賀川豊彦の名前を知らない人が多いようです。
賀川が何をしたのか、フリップにまとめました。

宗我部
見てもらうとわかると思いますが、ありとあらゆる活動をしています。
貧しい人たちの生活支援や災害時のボランティアなどの救済運動、労働者の生活を守るために戦った労働組合運動、農村社会の改善を目指した農民運動、そして、協同組合運
動、小説などの執筆活動、晩年は国際的な平和運動にも貢献しました。
島川
今朝はゲストにおこしいただきました。
鳴門市賀川豊彦記念館の館長・田辺健二さんです。
遠藤
おはようございます。
賀川豊彦がしてきたことって、ずいぶんと幅広いですね。
田辺さん
・・・
遠藤
賀川の活動の出発点は、神戸のスラムで暮らす貧困者を救うことでした。
賀川が飛び込んだ、当時のスラムとは一体どんな様子だったのでしょうか?
(VTR)
今からちょうど100年前、神戸には、貧困にあえぐ人々がたくさんいました。
当時、神戸にあったスラムは、日本最大ともいわれ400メートル四方の場所におよそ6千人もの人が密集する状況でした。
ひと家族が二畳の部屋で暮らし多い家では、9人もが寝ていました。
便所や風呂は共同で、雨が降ると下水があふれ、悪臭が漂いました。
また、罪のない子供も犠牲になりました。
経済的な理由で子供を育てられない貧しい親が栄養失調で子供を飢え死にさせたりしました。
賀川は、当時のスラムの印象を著書の中で書いています。
「私の布団をのぞんで、泊めてくれと一緒に寝ることを申し込む者は、二人や三人でありませんでした。また病人の多いこと、それはお話になりません。」
賀川は、失業者や病人を自分の部屋に泊めていたため目の病気や皮膚病にも悩まされました。
賀川は命がけでスラムの人々を助けます。
賀川はボランティア組織「救霊団」をつくり、安く食べることのできる食堂や無料診療所を提供するなど本格的な救済活動をします。
賀川が取り組んだボランティア活動は、スラムがなくなった現在も、神戸の町に根付いています。
100年経った今、貧民が多くいたあたりも整備され公園には賀川を記念したモニュメントもあり、当時の面影はありません。
しかし、賀川が作った「救霊団」は「イエス団」と名前を改め、いまでも、関西や四国に30あまりの保育園や老人福祉施設を運営しています。
鳴門で牧師をしていた村山さんは、身近に接した賀川の行動に強く影響を受けおよそ50年ほど前にイエス団に入りました。
その後、村山さんは神戸のイエス団で地域の人たちに様々な生活支援をしました。
古着のバザーや地域の子供たちのために子供会を開いたりしました。
その活動の中で改めて賀川の精神を知りました。
イエス団が行っていたお年寄りへの給食サービスも今では地域のボランティアが引き継いでいます。
このおばあちゃんたち、何をしにきたのかといいますと・・・
お風呂なんです。
こちらでは、ボランティアが神戸市の施設でお年寄りに、お風呂をサービスしています。
阪神大震災以降、銭湯が激減したために銭湯と同じ料金でお風呂に入れるありがたいサービスです。
一人暮らしのお年寄りにとってお風呂は、コミュニケーションの場としても大事です。
(スタジオ)
遠藤
困ってる人の救済に力をそそいだ賀川ですが、自分の身を削ってまで活動し続ける その原動力はなんなんでしょうか?
賀川の人格を決定的に作ったのは賀川が育った徳島でした。
(VTR)
賀川豊彦は明治21年、神戸市で生まれます。
しかし、豊彦が4才のときに両親を相次いで亡くし、父の実家があった徳島に移ります。
豊彦は旧吉野川が近い鳴門市の大麻町で幼いころを過ごしました。
今は、家があった場所も畑になりました。
両親のいない孤独な少年時代を慰めてくれたのは旧吉野川の自然でした。
成績優秀だった豊彦は、旧制徳島中学校へ進みます。
英語の勉強にと通った教会で2人の宣教師と出会い洗礼を受けます。
16才のときでした。
賀川は72才で亡くなるまで、キリスト教の伝道に努めます。
名西郡石井町にある石井教会は「教会が欲しい」という地元の声を聞いた賀川が建てました。
黒田絢さん、80歳。
黒田さんの義理の父・黒田四郎さんは賀川が全国を伝道して回ったときに行動を共にしました。
絢さんと、賀川とは家族ぐるみの付き合いでした。
賀川はキリスト教を日本に広めるにとどまらず、海外でも多くの伝道をしたため賀川の教えは世界中に広がりました。
(スタジオ)
島川
賀川豊彦にとって、キリスト教との出会いが後の活動へ繋がっていくんですね。
また、賀川は少年時代、徳島で過ごしていますが賀川にとって徳島ってどんなところだったんでしょうか?
田辺さん
・・・
遠藤
助けを必要としている人々のために超人的に働き続ける賀川ですが、一人の力でできるほど簡単なものではありません。
賀川を影で支える良きパートナーの存在がありました。
(VTR)
明治45年、賀川は25才のとき、神戸での伝道のときに出会ったハルと結婚します。
ハルは生涯を通しての良き伴侶であり、賀川の最大の協力者でした。
二人は結婚式の直後から、式の衣装のままスラムで病人の介護にあたるほど目の前の仕事は山積みでした。
ハルは、子供の目の病気を治療するさいに自分も感染してしまい片目を失いましたが「私には、もう一つの目があります。賀川と合わせると3つあります。」
と言って仕事に励み、酒乱の男に「金を貸せ」と短刀を突き付けられても「この仕事に命を捧げていますから怖くなくなりました」と言っています。
ハルと二人三脚でよく働いた賀川でしたが、減ることのない貧困者をみて、救貧活動の限界を感じます。
「貧民階級を無くしてしまおうと思えば、今日の慈善主義では不可能である。
慈善主義は貧民を常に増加させる傾向がある」
賀川は、貧困者ひとりひとりを助ける、「救貧活動」よりも貧困者を生まない社会作り、「防貧活動」に重点をおきます。
大正10年、賀川は、3万5千人が参加した日本最大の労働ストライキに参加しました。
その後、デモは弾圧され賀川をはじめ幹部およそ180人が警察に検挙されますが、この取り組みはやがて労働組合運動や労働法の整備に発展していきます。
次に賀川は農民運動に取り組みます。
日本の人口の半分が農家で収入は工場労働者の半分しかない時代でした。
協同組合設立にも尽力します。
生活消費協同組合に代表される協同組合は賀川が提唱し、賀川を『協同組合運動の父』という人もいます。
賀川が作った「神戸購買組合」はのちに、「コープこうべ」となり生協の中でも最大規模になりました。
(スタジオ)
遠藤
また、賀川は小説も多く残しています。
賀川自身をモデルにした「死線を越えて」は(スタジオに小説の現物あり)大正9年に出版され400万部を超える、ベストセラーとなりました。

宗我部
印税収入は、現在のお金にして、およそ10憶円もありました。
しかし、そのお金も、自分のためには使わず

貧しい子供たちの救済や農民組合や労働運動の運営に使われました。
なので、賀川豊彦自身は質素な生活を送っていたようです。
島川
でもこれだけ、いろんなことをしてるわりには、他の偉人に比べると扱いが小さい気もするんですが・・・
田辺さん
・・・
遠藤
なるほど・・・
地元・徳島でも知名度の低い賀川豊彦なんですが、賀川の資料館や記念館は全国で5つあります。
そのうちのひとつ、鳴門市にある賀川豊彦記念館では後世に賀川の偉業を伝えようと地道な活動を続けています。
(VTR)
鳴門市賀川豊彦記念館は2002年、鳴門市大麻町にあるドイツ館のとなりにできました。


記念館を運営するのは、NPO法人賀川豊彦記念・鳴門友愛会です。
およそ20名の会員は、ほとんどがボランティアで賀川の名を後世に伝えようと活動しています。
熱心に案内をするのは、磯部浩二さん、76歳。
賀川記念館でボランティアガイドを務めています。
磯部さんの祖父の祖父は、豊彦の父と兄弟です。
磯部さんは大学生のとき、東京で4年間、豊彦と生活を共にしました。
磯部さんの家は、江戸時代から続く造り酒屋でしたが20年前に家業を閉じました。
磯部さんは、今の経営者のやり方に憤りを感じるといいます。
(スタジオ)
遠藤
今、格差問題や不景気なんかの問題があると思いますが、賀川豊彦から学ぶことってなんでしょうか?
田辺さん
・・・
宗我部
今年は、賀川豊彦献身100年記念としまして徳島でも、イベントをしています。
現在、鳴門の賀川記念館で「賀川豊彦と子どもの権利」と題したパネル展示が行われています。
また、来月の4日には、同じく鳴門市で「子どもたちのために歩こう!」と題したチャリティウォーキングも行います。
島川
最後に、晩年の賀川豊彦をご覧いただこうと思います。
(VTR)
終戦後、賀川豊彦は格差のない平和な社会を目指して世界を駆け巡ります。
国際的な平和会議の議長も務めた賀川はノーベル平和賞の候補に2回、名前があがりました。
そして、昭和35年、72歳で天に召されます。
息を引き取る前、家族らが見守る中、周りの人に向って微笑み、最後の祈りを残しました。
「教会を強めて下さい。
日本を救って下さい。
世界に平和を来らせて下さい。」
最期まで、自分のことより人々の幸せを願った賀川らしい言葉でした。
経済格差や派遣切りなど、社会的弱者が切り捨てられている今、賀川がとなえた愛と助け合いの精神を私たちはもう一度、思い出す必要があります。