2005/08/05 No.8380

 

金曜日

阿波藩の殿様 蜂須賀家政をたどる  詳細 >> 

 

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うちのペット自慢 *のあ(チワワ)
なつかしの徳島 *台風15号接近

けさの生け花 

*未生流・澤近恭甫さん

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阿波藩の殿様 蜂須賀家政をたどる

(VTR)

けさは動乱の戦国の世を生き抜き徳島藩の礎を築いた戦国武将蜂須賀家政の軌跡をたどりたいと思います。

「おはようとくしま」では、6月に蜂須賀家政の父親である蜂須賀小六正勝の生涯をご紹介しましたが覚えているでしょうか?
今回はその続編ということになります。

「阿波の殿様・蜂須賀公が今に残せし阿波踊り・・・」と「よしこの」の歌詞にありますが、
この蜂須賀公というのが小六正勝の息子・蜂須賀家政だったんですね。

徳島城の落成の時に阿波踊りを踊ったとか言われていますよね。
蜂須賀公とか蜂須賀さまとか唄にも出てきたりして名前は抜群の知名度があるんですが、
その実像となると地元・徳島でも意外に知られていないんですよね。

そこで阿波踊りを前に地元・徳島のお殿さまについて学んでみましょう。
まずはこの前放送しました父親の蜂須賀正勝がどういう人物なのか簡単に見ておきます。

蜂須賀小六の名前で知られる蜂須賀正勝は戦国時代を生きた武将で
尾張國、いまの名古屋の近くで生まれ斎藤道三や織田信長、豊臣秀吉に仕えました。

中でもよく知られているのは秀吉軍の家老格として墨俣の一夜城築城など数々の戦場で活躍、秀吉の天下統一の大きな手助けをしました。

とにかく常に豊臣秀吉と行動を共にしていた秀吉の名参謀なんですね。

さて蜂須賀家政はその小六正勝の長男なんですが
正勝に負けずとも劣らぬ非常に個性あふれる人物なんです。

(VTR)

戦国武将・蜂須賀家政。

「蜂須賀蓬庵 座像」 丈六寺蔵

格別の武勇に知略、それに時代の先ををよむ鋭い目で戦国の世を生き抜いたこの人物を後の人は「阿波の古狸」と称しました。

蜂須賀家政は尾張の国、現在の愛知県江南市宮後(こうなんし みやうしろ)に永禄元年、1558年に生まれました。

のちに家政が寄進した宮後八幡社

合戦に明け暮れる激動の時代に幼少期を過ごした家政はこの地で父・正勝から世を生き抜くための様々な教えを受けました。
   
家政が初めて合戦に参加したのは織田・徳川連合軍が甲斐の武田騎馬隊と戦った有名な「長篠の合戦」です。

 

長篠合戦図屏風(大阪城天守閣蔵)

こちらの屏風絵には織田鉄砲隊と共に卍(まんじ)の旗の下で勇敢に戦う若き日の家政の姿も描かれています。

その後も父・正勝と共に織田信長の家臣であった羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉の軍勢の元、様々な合戦に参加し、徐々に戦国武将として成長
していきました。

(解説)

番組内容をWindows Media Player でごらんいただけます。

徳島城博物館 学芸員 根津寿夫さん

家政と父、正勝は似ている。
正勝という人物は、敵対する大名とうまく交渉して
相手の力を温存させながら見方に組み入れるという交渉力がある。
家政は、父の考えや行動をよく学び父と同じように行動している。
父親譲りの交渉術や柔軟な対応で窮地を切り抜けチャンスに結びつけた。

そんな蜂須賀親子に大きな転機が訪れました。

それは本能寺の変で織田信長がこの世を去り主君である秀吉が後継者として天下人の道を歩み始めたからです。

有力なライバルを次々と破った秀吉は
今度は四国を支配する土佐の長宗我部氏の征伐に乗り出します。

四国攻めで蜂須賀親子は讃岐の国・今の香川県屋島から四国に攻め入り激戦地となった阿波の国を目指しました。

この時、家政は父・正勝とは別の部隊を率いて各地を転戦。
鳴門の木津城攻めなどで抜群の手柄を立てました。

出兵に先立ち家政の出した書状が徳島市の丈六寺に残されています。

こちらは家政が丈六寺に宛てたもので秀吉自らの出馬を伝え地域の治安を安定させようと出されたものです。

この手紙からもすでに家政が父から独立した一軍の将として活躍していることが分かります。

四国征伐のあと、秀吉は父・正勝に阿波の国を与えようとしましたが正勝は高齢を理由に辞退。

変わりに息子・家政に阿波一国17万石5千石が与えられました。
阿波の太守・蜂須賀家政の誕生です。
家政27歳でした。

そして家政の阿波入国の翌年、父・正勝がまるで息子の成長を見届けたかのようにこの世を去りました。

 

突然の訃報に嘆いた家政は、父の死のわずか10日後に絵師に命じてこの肖像画を書かせたというれています。

父を失い、名実ともに蜂須賀家の舵取りを任された蜂須賀家政。
しかし時代の荒波はますます高く激しくなっていきます。

(スタジオ)

蜂須賀家政は、若い頃から合戦に明け暮れる毎日。
まあ、父親があの蜂須賀小六ですから生まれたときから、そういう運命だったのでしょうか。

しかし、実際に織田信長や豊臣秀吉など時代の中心にいた人物と共に歩んできたのですね。

後に天下を獲る豊臣秀吉に最初からずっとついて行ったというのが運が良かったのでしょうね。 
それに、蜂須賀家には仕える主人を選ぶ目があったということですよね。

しかし、ここまでは秀吉の元で順風満帆だった蜂須賀家の命運もしだいに大きな時代の波に巻き込まれていきます。

移りゆく時代の中で蜂須賀家はどのように生き抜いてきたのでしょうか。

(VTR)

慶長3年、1598年。
時の天下人、豊臣秀吉が死去。

そしてこの時から時代は豊臣から徳川へと徐々に移り変わっていきます。

当時の豊臣政権は徳川家康や前田、毛利、上杉などいわゆる五大老による合議制政治が行われていました。

しかし秀吉の死後、実力者徳川家康は天下取りへの野望の牙をむきはじめます。

そんな家康の振る舞いに立ち上がったのが秀吉の懐刀と言われた石田光成です。

光成は毛利や宇喜多などの大名を見方に引き入れ、妥当家康ののろしを上げます。

そして関が原で日本を二分する歴史に残る大決戦を行いました。

(関が原リポート)

関ヶ原歴史民俗資料館蔵

実力、実績ともナンバーワンの徳川家康か。
はたまた豊臣秀吉の子、秀頼を擁する石田光成か。
全国の大名はその選択を迫られます。

そんな中、蜂須賀家と同じく豊臣家と近い関係にある福島家や黒田家は早々と徳川につくことを決めました。

時代の流れは明らかに徳川に向いている。
かと言って、恩のある豊臣家に弓引くわけにもいかない。

蜂須賀家政は悩みました。
そして、非常に珍しい行動に出たのです。

なんと、家政は西軍への参戦を断ったあと、
阿波の国と徳島城をすべて豊臣家に返上します。

そして自らは頭を丸めて「蓬庵(ほうあん)」と名乗り、高野山に蟄居したのです。

 

「蜂須賀蓬庵 画像」中津峰山如意輪寺蔵

また、息子・至鎮(よししげ)に少数の兵を率いさせ東軍・徳川方に向かわせます。

関ヶ原歴史民俗資料館蔵

しかし、その兵力はわずか18騎でした。
当時、蜂須賀家は徳島城に数千の兵を持っていたことを考えるとまさに今回は形だけの東軍参戦といえます。

(解説)

番組内容をWindows Media Player でごらんいただけます。

徳島城博物館 学芸員 根津寿夫さん

蜂須賀家政の戦いは、よく二股をかけたように言われるが特別だ。
家政自身は豊臣秀吉に、阿波の国を与えられ大名となった武将だ。
しかし、関が原の戦いでは西軍に見方する気はなかった。
しかも世俗を離れて高野山に隠居する。
豊臣にもらった部隊で豊臣家と争うわけにはいかないので家政は隠居した。
豊臣家に義理立てしているというのは、すごく筋を通した考えだったと思う。

関が原の合戦はわずか一日で終結。
家康率いる東軍の勝利に終わりました。

そして豊臣家に返上した阿波の国は関が原参戦功績により
戦後、徳川家から改めて息子、至鎮に与えられます。
ここに至鎮を初代藩主とする徳川時代の徳島藩が成立しました。

(スタジオ)

天下分け目の関が原で蜂須賀家は非常に珍しい行動を取ったわけですね。

日本中の大名が東軍・西軍に別れて戦うわけですが蜂須賀家に実質、中立の状態で阿波一国を守ったのはすごいですね。

しかし、ちょっとずるい気もしますね・・・

確かにこの家政の行動は二股をかけたようにも見えますし、
それ故のちに「阿波の古狸」と呼ばれるようになるんですが
最近の研究から家政が東軍・徳川方に付いたことは明白で、
ただ、主君・豊臣家に弓引くことができないという苦渋の選択からこのような微妙な行動に出たと言われているんですね。

私は今まで蜂須賀家政が徳島藩の初代藩主と思っていましたが、違うんですね。

そうなんです。

関が原の合戦のあと阿波の国は徳川家から息子の至鎮に改めて与えられていて
そこから、江戸時代の徳島藩が始まったので、初代藩主は至鎮になります。

ちなみに、蜂須賀家政は徳島藩の基礎を築いたので一般的に徳島藩の藩祖といい、
さらに家政の父、小六正勝は蜂須賀家を興したとくことで、家の祖、「家祖」と呼ばれています。

さて、関が原の合戦では豊臣家に筋を通しながらも無事、家を守りきった蜂須賀家政ですが時代はさらに大きく動きます。

(VTR)

関が原から十数年後。

すでに天下を手にした徳川家康と、大阪城にこもる豊臣家との武力衝突がついに起こりました。

世に言う「大坂の陣」の勃発です。

江戸に幕府を開いていた徳川家の以降は絶大で全国のほとんどの大名が豊臣討伐の兵を挙げ大坂に向け出陣しました。

蜂須賀家でも藩主・至鎮が兵9千を率いて出陣。
隠居である蓬庵、家政は徳川の居城江戸に向かいます。

自ら人質となることで徳川家への忠誠を示したわけです。

しかしこの直前に、家政はまたしても変わった行動に出ます。

番組内容をWindows Media Player でごらんいただけます。

(リポート 小松島市中田町で)

蜂須賀家政は大阪の陣直前に、豊臣秀吉を祀る豊国神社をここ小松島市中田町につくりました。
当時はこのあたり一帯がそうだった。
つまり、広大な敷地を有する立派な神社だったそうです。

(解説)

徳島城博物館 学芸員 根津寿夫さん

秀吉が亡くなった後、秀吉に仕えた大名は豊国神社を各地に作った。
ところが徳川の時代になって徳川の勢力が強くなると豊国神社はだんだんと閉ざされていくようになる。
そういう時期にあって、阿波の豊国神社は建てられている。

阿波の豊国神社(とよくにじんじゃ)は、蓬庵家政の隠居所があった今の小松島市中田町(ちゅうでんちょう)に建てられたといわれています。

明治になって再建されたいまの豊国神社です。

現在もご神体として豊臣秀吉の木像が祀られています。

「豊臣秀吉木像」 小松島市豊国神社蔵

この木像は家政が秀吉の遺言によって拝領したものと言われています。

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小松島市の堀越寺(ほりこしじ)に貴重な資料が残っていました。

(リポート)

堀越寺(小松島市中郷町)

住職・谷亮弘さん
「一般の家のものよりも非常に大きな棟札です。」

  

豊國大明神御社/蓬庵 阿波守至鎮/豊冨(豊臣)の文字が見える

札には、豊国神社を建立した蓬庵家政と至鎮の名が記されていますがその姓はかつて秀吉から与えられた「豊臣」を名乗っています。
つまりこの時期においても蜂須賀家は豊臣の家臣であると示しているわけです。

番組内容をWindows Media Player でごらんいただけます。

(解説)

徳島城博物館 学芸員 根津寿夫さん

実は、戦いが始まるという噂がきている、そういう中で敢えて豊国神社を建てたのは、
戦いが始まる2か月程前に建立した理由は、旧主君である秀吉に対する義理立て、お祀りする最後のチャンスだったわけだ。
家政の考え方や思いの込められているのが阿波、豊国神社である。

阿波の豊国神社建立の直後に始まった大坂冬の陣、夏の陣で大坂城はついに落城。

蜂須賀家が苦楽を共にしてきた豊臣家はここに滅亡します。

一方で蜂須賀家は大坂攻めの戦功により淡路の国を加増され、阿波、淡路25万7千石の大名へと成長しました。

(スタジオ)

小松島に豊臣秀吉を祀った大きな神社があったとは知りませんでした。
それにしても徳川と豊臣の戦争が始まる前にわざわざ豊国神社を建てたというのは、勇気ある行動ですね。

一歩間違えたらお家の取り潰しにもなりかねない・・・

今となっては、なぜ家政が、あえて豊国神社を建てたかは歴史の謎なんですが
ひっとしたら昔の主君に弓引かねばならない家政の
苦しいなりにも精一杯の、秀吉に対する義理立てであったのではないでしょうか。

さて、そんな蜂須賀家政ですが、もちろん戦国の名将としてだけではなく
優れた政治家としても評価されています。

最後は家政が徳島に残した数家具の偉業を見ながら締めくくりたいと思います。

(VTR)

家政は阿波入国の翌年に徳島城を築城しました。

城を築いた家政は同時に城下町を整備し、武家屋敷が並ぶ出来島や寺島、
商人が住む内町や新町といった今の徳島市中心部のほとんどの街を作りました。

また産業の振興にも熱心で、藍や塩などにも力を入れ徳島藩の大きな財源となる特産品を生み出します。

家政は、息子至鎮が35歳で亡くなった後も、孫で2代藩主となった忠英(ただてる)の後見として力をふるいます。
阿波入国から、81歳でなくなるまで実に50年以上に渡って
徳島藩を表から、時には裏から支えた家政は、まさに徳島の礎を築いた人物と言えるでしょう。

(解説)

徳島城博物館 学芸員 根津寿夫さん

家政が生きた時代は、激動から平和の時代。
家政はそれを乗り切った。
戦いだけでなく、政治の方も手腕を発揮した有能な大名だったと評価できる。

毎年8月12日。
蜂須賀家の菩提寺である、徳島市の興源寺(こうげんじ)では、阿波踊りが奉納されています。

「阿波の殿様 蜂須賀公が
 今に残せし 阿波踊り・・・」

しかし、実際に家政が今の阿波に残したものは
もっと大きくすばらしい数々の偉業であったのかもしれません。

 

Title

2005年8月12日

▼ 興源寺で奉納踊り

徳島市の阿波踊り開幕を告げる奉納踊りが徳島藩主、蜂須賀家の菩提寺、「興源寺」で行われました。「本家大名連」など9つの連から、およそ300人が集まり蜂須賀家3代目当主光隆公の墓に焼香し、今年の阿波おどりの成功を祈ったあと早速、奉納踊りを披露しました。

阿波踊り
「いえまさ公のお成りじゃー」

夜の本番を前に、集まった大勢の見物客らは、一足早く踊りムードに引き込まれていました。

踊り子の1人は「いよいよことしも始まったという神聖な気持ちです、4日間、踊り続けます」と話していました。

 

おはようとくしま 2005年の放送