2005/08/03 No.8378

 

水曜日

戦後60年特集 戦艦大和乗組員の証言  詳細 >> 

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取材ゲスト

岩本平八郎さん(83)
橋本正美さん(79)
中山久良さん(78)巡洋艦「矢矧」

取材協力:広島県呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)

仙波教授の阿波弁講座 動詞+「ん」+「ずく」
うちのペット自慢 *コスケ
なつかしの徳島

けさの生け花 

*未生流笹岡・近藤貞甫さん

戦後60年特集

>詳細

戦後60年特集 戦艦大和乗組員の証言


(VTR)

全長263メートル。
攻撃では、主砲46センチ砲を9門搭載。
防御では、410ミリの分厚い鋼鉄の表面、浸水を最小限に食い止めるために船体を無数に区切った防水区画。
昭和16年に建造された当時、戦艦大和は、世界最大最強にして絶対に沈まない不沈艦と歌われました。

しかし、海上特攻の命を受け、沖縄へと向かっていた昭和20年4月7日。

九州沖で3000人余りの乗組員とともにあえない最期を遂げます。
戦後60年、この悲劇の戦艦が再び、脚光を浴びています。
ことし4月にオープンした大和ミュージアムは
既に目標だった年間の来場者数、40万人を突破。

また、大和乗組員の生き様を描いた映画も制作され、ことし12月に公開予定です。

大和に関する本も相次いで発刊されています。
今、なぜ、大和なんでしょうか?

 


(スタジオ)

ご覧いただきましたように、
太平洋戦争当時、世界最大最強、不沈艦とさえ言われながら
悲惨な最期を遂げた「戦艦大和」。

その大和が今、再び、脚光を浴びています。
シリーズ「戦後60年」3回目のきょうは、
「戦艦大和乗組員の証言」と題し、お伝えしていきます。

今回、取材させていただいたのは、いずれも徳島県内に住む3人の方です。
戦艦大和の乗組員だった方が2人。

そして、もう1人は大和と共に沖縄特攻作戦に参加した
巡洋艦「矢矧」(やはぎ)に乗り組まれていた方です。

戦艦大和とはいったい何だったのか、3人の証言を通して考えます。

(VTR)

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*読経の様子

阿南市の岩本平八郎さん、83歳です。

岩本さんの毎日は、
かつての戦友の霊を慰めるために欠かしたことがないという読経から始まります。

壁には、戦艦大和の写真。

岩本さんは、太平洋戦争まっ只中の昭和17年、20歳で徴兵検査に合格。

海兵団での厳しい訓練を経て、
海軍なら誰もが憧れたという戦艦大和に高角砲の砲手として乗り組みました。

(インタビュー)

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戦後60年、岩本さんは、
自らの戦争体験を手記にまとめました。

悲惨な戦争は2度と繰り返してはならない。

そんな思いから綴った手記は109ページにもわたります。

既に戦局が悪化していた昭和19年6月。

米軍によるサイパン空襲を受けて出撃したマリアナ沖海戦ですが、
戦いは、既に艦隊同士が主砲を撃ち合う時代ではなくなっていました。

(手記の朗読)

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敵は基地よりB24が、
空母からグラマンが、
我が艦隊に波状攻撃を仕掛けてくる。
その数延べ700機。
攻防は熾烈を極めた。
大和も後部左舷に魚雷を受け浸水。
大きく傾くが右舷の同区画に注水。
艦は水平に戻る。

(インタビュー)

その対空戦闘の最中の出来事でした。

(手記の朗読)

私が配置についていた左舷12番高角砲塔にもグラマンが襲いかかる。
信管手、和田兵長が胸部貫通即死。
伝令、朝倉上水が右肩を打ち抜かれ、
衣服を伝って血が流れている。

(インタビュー)

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(手記の朗読)

玉砕覚悟、
次の血戦場はレイテである。

結局、マリアナ沖海戦で
空母3隻を失うなど戦局はさらに悪化、
大和が次に向かったのは、
フィリピンのレイテ島沖でした。

この海戦で日本海軍は戦艦武蔵を失うなど事実上壊滅します。

(手記の朗読)

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大和の主砲、副砲の一斉射撃。
対空砲火は凄まじく、
閃光は間断なく矢の如く走る。
左舷後部で大爆発。
魚雷が命中したか
艦を揺るがすビーンという振動。
天空を突き破らんばかりの火炎の柱。

岩本さんは、
そうした光景を目のあたりにしても
大和は絶対に沈まない船だと逆に確信したと言います。

(インタビュー)

レイテ沖海戦の後、
呉に戻った岩本さんは、砲術学校への入校を命じられ、
その後、広航空隊に所属。

2度と大和を見ることは、ありませんでした。


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大和ミュージアムを訪れたのは、徳島市の橋本正美さん、79歳。

橋本さんは16歳で志願して海軍に入り、沖縄への海上特攻作戦に参加。
奇跡の生還を遂げた数少ない乗組員の一人です。

(インタビュー)

橋本さんの大和での持ち場は
海面から40メートルの高さにある艦橋最上部の防空指揮所。

ここで、目標までの距離を測る任務についていました。

*大和に特攻命令

大和に沖縄への特攻命令が下されたのは、
米軍が沖縄に上陸した4日後の昭和20年4月5日。
乗組員に初めてそのことが知らされたのは、
徳山沖を出て豊後水道に差し掛かった
翌6日、夕方のことでした。

 

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甲板に集合した乗組員に対し、
大和の副長は、静かな口調でこう告げたと言います。
「二度と祖国の地を踏むことはできないと覚悟してほしい。
各人、故郷の方角に向かえ、遠慮はいらんぞ、大いに泣け」

(インタビュー)

そして、運命の日の4月7日。

大和の動きを察知していた米軍は大和に爆弾6発、魚雷10本以上を命中させます。
魚雷は左舷ばかりを狙った巧みな攻撃でした。
不沈艦、大和が大きく傾き始めます。

(インタビュー)

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大和は沖縄に辿り着くことなく、横転、爆発。
乗組員3000人あまりとともに沈没しました。
北緯30度43分、東経128度4分の海底が大和の墓場となりました。

(インタビュー)

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船が沈む際、やはり暗い海底へと引きずり込まれそうになりながら、
頭上に見えた明るい海面に向かって懸命に浮上。
生還を果たした人が那賀郡那賀町にいます。

(インタビュー)

中山さんは17歳で志願して海軍に入り、
沖縄への海上特攻の際は、艦隊のしんがりを務めた巡洋艦「矢矧」に砲手として乗り組んでいました。
しかし、米軍から大和とともに標的にされた「矢矧」は大和より18分早く撃沈されます。

生きるか、死ぬか、中山さんは、
矢矧から流れ着いたある漂流物にしがみつきます。

(インタビュー)

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米軍の機銃掃射をかわしながらの漂流。
味方の駆逐艦に救助されるまでの4時間が一番長く感じたと言います。

(インタビュー)

 


(海軍ラッパの音)

それは、深さ345メートルの海底から聞こえていました。
6年前に引き揚げられた大和の遺留品の数々。

橋本さんは、東京のテレビ局が行った海底探査に生存する数少ない元乗組員として同行し、次々と引き揚げられる遺留品を一つ一つ確認しました。

(インタビュー)

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橋本さんが引き揚げに立ち会った大和の慰留品は
大和ミュージアムに展示されています。
訪れた人たちは、大和の10分の1模型よりも今も生々しい遺留品の前で長く足を止め、
戦争の悲惨さを感じ取っていました。

(インタビュー)

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60年前、特攻と知らされないまま、大和に乗り組んで出港した呉港。

その同じ港から
体験航海の参加者をのせて
ゆっくりと出ていく自衛隊の艦船。
自衛隊の艦船。

有事には、この船も…
橋本さんは
複雑な表情で見送っていました。

 


(スタジオ)

岩本さんは、艦を降りるまで激しい実戦に耐えた大和を不沈艦だと信じていました。

それは、当時大和に関わっていた人の共通の思いだったはずです。

しかし、大和は沈みました。
橋本さんと中山さんは、海の上で機銃掃射にさらされながらも生き残りました。

一方で、多くの若者が海に消えました。
橋本さんは、奇跡的に生き残った罪悪感に苦しめられ、
長い間、大和に乗り組んだことを家族にさえ伏せていたと言います。

しかし、今は、こう考えています。

「生き残ったものがすべきは、悲劇から歴史の教訓を読み取り、伝えていくこと」

 


(VTR)

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呉港を見下ろす高台に旧海軍墓地があります。

ここにあるのが、「戦艦大和戦死者の碑」

上官、下士官の区別なく戦死者の名前が刻まれています。
 

「今回の呉訪問は、お盆を前に戦友が自分を呼んだのかもしれない」と
話していた橋本さん。

慰霊碑に花と線香を手向けると静かに語り始めました。

「…静かにお眠り下さい…」 

 

おはようとくしま 2005年の放送