2005/05/20 No.8326

 

金曜日 

徳島藩の祖 蜂須賀氏をたどる  詳細 >> 

ゲスト出演者 根津寿夫さん(徳島城博物館学芸員)

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行長万理の 50円のおかず 鶏キャベサラダ
うちのペット自慢 *キュー(雑種)
なつかしの徳島 *お休み

けさの生け花 

*嵯峨御流・後藤由美甫さん

>詳細

徳島藩の祖 蜂須賀氏をたどる

(VTR)

戦国の世を生き、阿波蜂須賀家の礎を築いた 蜂須賀小六 正勝。
豊臣秀吉の出世物語に登場するなどその名を広く知られた戦国武将です。
しかしそのイメージばかりが先行して実際の人物像についてはあまり知られていないのも事実です。   
謎多き戦国の名将・蜂須賀 小六正勝をたどります。

(スタジオ)

蜂須賀正勝。
一般的には蜂須賀小六と言った方がなじみが深いと思いますが
まぁ徳島に住んでいたらこの名前を聞いて知らないって人はいないと思います。

戦国の終わりから明治維新までおよそ300年近く徳島の地を治めたお殿様蜂須賀家の元祖ですからね。 

けさは戦国の世を駆け抜けた蜂須賀氏の軌跡を紐解いてみたいとおもいます。

まずは今年に入って新しく発見された蜂須賀正勝ゆかりの、こんなものからご紹介しましょう。

(VTR)

 

こちらの一枚の古い写真。
これは戦前まで徳島公園内に建てられていた「蜂須賀正勝」の銅像です。
片手に槍を持ち変わった兜をつけた勇ましい姿です。

この銅像のモデルとなったと思われる鎧かぶとが今年見つかり現在京都の個人の資料館で展示されています。
(京都市東山区にある京都井伊美術館)

  

こちらがその蜂須賀正勝のものと伝わる甲冑です。
確かに銅像の兜と同じようなユニークな形をしています。

(リポート)

京都井伊美術館館長・井伊達夫さん

見るからに古い。歴史を感じますが、いつ頃のものですか?
>時代はまさしく、小六正勝が活躍していた頃だと思います。
この甲冑に時代の特徴が現れていますか?
>変わり兜が流行し始めた時代です。
>これは鯰尾型、鯰尾体と呼ばれるものです。相当古いものです。
>さらに凝っているのは、胴体に巻いている紙の亀甲。
>亀甲の文様を漆で書いている。
これが、戦乱の時代を戦い抜いてきたであろうと言われるものですか。
>だから、信長も秀吉もこれを知っていた、見ていたでしょうね。
>戦でのシンボルマークだから遠くからでもわかるわけです。

(スタジオ)

普通に甲冑が見つかるっていうのならよくあることかもしれませんが、
昔の銅像と同じ形をしているっていうのがすごいですね。

まだ見つかったばかりではっきりとは断定できないんですが今後、この甲冑の研究がいろいろと進んでいく中で
何か新しい発見があるかもしれませんね。

ところで佐久間さんは蜂須賀小六っていうとどんなイメージ持ってますか?   

戦国時代の時代劇なんか見ていてもよく登場しますよね。
やっぱりテレビに出てくるような盗賊の親分みたいな存在。

確かに私もなじみはあるけどどんな人だったかは意外にしらない・・・

やっぱり山賊のような・・・

まぁそうですよね。
しかし蜂須賀小六、正式には蜂須賀正勝は一般的に持たれているイメージとは大きく違う人物なんですよ。  
そこで蜂須賀氏の故郷・尾張国今の愛知県に取材に行ってきました。   

(VTR)

(リポート)

 

愛知県岡崎市を流れる矢作川(やはぎがわ)。
その橋のたもとに石像があります。
これが太閤記にでてくる有名なシーン。

 

蜂須賀正勝と日吉丸、後の豊臣秀吉が出会った場面で「出会いの像」とあります。

 

こちらはその矢作橋での出会いを描いた錦絵。

幼い日吉丸・のちの豊臣秀吉が橋の上で昼寝をしていたところ、
子分を引き連れた野武士の蜂須賀小六正勝が知らずに頭を蹴ってしまいます。
怒った日吉丸は小六に食ってかかり、
この気概に感じ入った小六が日吉丸を召し抱えたというお話です。
物語では小六は盗賊まがいの行いをしている集団の親玉で
どの絵を見てもいかつい悪人顔で描かれています。

そしてこちらは徳島城博物館が所蔵する「蜂須賀正勝画像」。
正勝の死後すぐに息子の蜂須賀家政が絵師に書かせたもので、
書かれた経緯や時期をみても比較的忠実に表情などをとらえた絵と考えられます。
   
作品が古いぶん傷みも激しく不鮮明な所もあったんですが
近年の赤外線を使った調査で描かれているおおよその表情を見ることができるようになりました。
晩年の顔とは言え錦絵のイメージとはずいぶん違いますよね。

蜂須賀の故郷の愛知県に江戸時代に作られた蜂須賀家の系譜が残っていました。


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(リポート)


「矢作橋の出会い」や正勝が盗賊の親分であるという話は
江戸後期に書かれた「絵本太閤記」に出てくる話で、
秀吉の出世物語をより色づけするために作られた特殊なキャラクターなんです。

そこで蜂須賀正勝の実像を求めて蜂須賀氏の故郷、愛知県美和町を訪ねました。

 


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(リポート) 

 


この辺りは昔「蜂須賀村」と呼ばれていて正勝が生まれた蜂須賀屋敷は広さ1ヘクタールほどもあったと言われています。

屋敷があった場所には今、蜂須賀城址の石碑と正勝の顕彰碑が建てられています。

長年、豊臣秀吉を支えその天下取りに大きく貢献した正勝を称えて
碑の裏には
「群雄の中、ここに蜂須賀正勝あり。
秀吉の動くところ 正勝のあらざるなく」の文字が刻まれています。

また蜂須賀城址の隣には正勝の菩提寺・蓮華寺があります。
屋敷のすぐ隣にあるので正勝は幼少時代よくこの寺の境内で遊んだと言われています。
その後も蜂須賀家との関わりは強く、阿波入国後も代々、蜂須賀家によって蓮華寺は所領を保護され続けました。


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(リポート)

蓮華寺住職・美輪照海さん


また境内には正勝も見たと思われる古い日本庭園が残っていました。

(リポート)

またすぐ近くの法蔵寺には変わったエピソードの正勝ゆかりの品が残されています。
こちらは珍しい鉄でできたお地蔵さん。
桶狭間の合戦の時、正勝が縁起かつぎに蓮華寺から戦場に持って行こうとしたところ
あまりの重さにあきらめてこの場に捨て置きお地蔵さんが手に持っていた錫杖(しゃくじょう)だけを持って出陣したと言われてます。

そして徳島市中津峰山の如意輪寺にはその時の錫杖と伝わるものが今も残っています。
以来蜂須賀家では代々、錫杖を馬印とし戦陣や参勤交代の列の先頭には
常に錫杖をかかげていたと言われています。

正勝の故郷を訪ねて徳島と美和町との深い関わりを感じることができました。

(スタジオ)


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そしてけさはスタジオに徳島城博物館・学芸員の根津寿夫さんにお越し頂いています。

私もいろいろ誤解していることが多かったのですが・・・
有名な矢作橋の出会いは全くの作り話なんですね。

(矢作川に橋が架かったのは秀吉の死後。時代的にあり得ない)

それに蜂須賀正勝が盗賊の親分じゃなくてれっきとした領主であったとは知りませんでした。

>とにかく非常に作り話が事実と思われている。
>晩餐会で、菊のご紋入り食器を持ち帰っていいことになっていたにもかかわらず、食器がなくなったと明治天皇がからかったエピソードがある。

どうしてそこまで作り話が信じられてしまったんでしょうか?

>太閤記が当時の大ベストセラーであった多くの人に読まれた。
>最近もそのイメージで小説やドラマが作られている・・・

本当の姿が見えにくい蜂須賀正勝ですが実際はどのような人物だった?

>ひとことで言うと、秀吉の懐刀です。


それでは今度は秀吉と共に歩んだ武将・蜂須賀正勝の軌跡をたどってみたいと思います。

(VTR)
尾張国 蜂須賀村に屋敷を構えていた正勝ですが、
その後拠点を母の実家がある丹羽(にわ)郡宮後(みやうしろ)村、現在の江南市宮後に変えます。
そしてこの土地で後に阿波の国主となる嫡男・家政も産まれたといわれています。

そして時代が大きく動き始めます。
尾張を統一した織田信長は美濃国、今の岐阜を支配する斉藤氏の居城、稲葉山城攻略を目指し、北上を開始します。
そして美濃攻略の拠点として敵地である墨俣の地に出城を築く計画を立てたのです。 

(リポート)

信長から墨俣築城の命を受けたのが木下藤吉郎のちの豊臣秀吉。
この辺りで大きな影響力を持っていた正勝の力を借りて成し遂げた世に言う「秀吉の一夜城」です。 
お城と言っても実は 砦程度のものでかかった日数にしても
一晩ではなく2〜3日とかはたまた1か月以上要したなどいろいろな説もあります。 

しかし実際に墨俣城の完成の翌年、
信長は美濃・稲葉山城を攻略し天下統一に向け大きく前進しました。
墨俣の一夜城は秀吉の立身出世のエピソードとしてよく知られていますが
同時に蜂須賀正勝にとっても秀吉と共に歴史の表舞台に登場するきっかけになりました。 
この後、正勝は秀吉に従い織田家の大きな戦いに次々と手柄を立て秀吉・そして蜂須賀の名を天下に轟かせていきます。 

こちらは織田・徳川連合軍の鉄砲隊が武田騎馬隊を打ち破った有名な「長篠の合戦」を描いた屏風です。
秀吉の馬印である金の瓢箪近くに卍の旗を翻して戦う蜂須賀軍の姿を見ることができます。

まさに「秀吉の動くところ正勝のあらざるなく」です。

信長から中国地方の攻略を命ぜられた秀吉は播磨国、いまの兵庫県を攻略しここを拠点とします。
そして長年の功に報いるため正勝に竜野城5万3000石を与えました。
時に蜂須賀正勝、55歳です。

しかしここで時代の流れが大きく変わりました。
天正10年、京都本能寺で明智光秀の謀反にあい織田信長がこの世を去ります。  

この時秀吉軍は備中高松で毛利軍が立てこもる城を水攻めの最中でした。
「本能寺の変」の知らせを受けた秀吉は城主の切腹を条件に毛利軍との講和を急ぎます。
この難しい交渉に当たったのが蜂須賀正勝だと言われています。
和平交渉も成立し有名な「中国大返し」で謀反人・明智光秀を討ち取った秀吉は一気に天下人への道を上り始めます。
ライバルの大名を攻略し大阪城に拠点を移した秀吉の次なる狙いは四国の長宗我部討伐です。

当時、四国全域を支配していた長宗我部元親は阿波の城を中心に防衛網を作っていましたが
秀吉軍は阿波・讃岐・伊予の三方面から圧倒的な兵力で攻め込みました。

この時、正勝は出陣前に秀吉から「四国征伐が終わったら阿波の国を与える」との内示を受けていたとも言われています。

蜂須賀正勝は息子・家政と共に讃岐・屋島から上陸。
主戦場である阿波の国に入り城を次々と攻略しました。
そして秀吉軍の四国征伐はわずか2か月たらずで終了します。

こちらは長宗我部元親が戦いの直後に正勝に宛てた書状で 講和の時の、正勝の力添えに対する感謝と今後の指南を依頼する手紙です。 
この手紙で今回も正勝が戦後処理の交渉役を務め、しかも相手からも信頼される存在であったことが分かる興味深い内容です。

四国平定後、正勝は阿波国拝領を高齢を理由に辞退し息子・家政に譲ります。
阿波の国主・蜂須賀家政の誕生です。
300年近く続く蜂須賀家による阿波の統治が始まりました。
一方、正勝は阿波には入らず大阪の地でとどまりいままでと同じように秀吉の側で
軍事はもちろん、内政・外交など政治全般を支えることを望んだと言われます。

しかし秀吉と共に幾多の苦難にも打ち勝ってきた戦国の名将もやはり 押し寄せる歳の波には勝てず
息子・家政の阿波入国の翌年、大阪の蜂須賀邸で静かに息を引き取りました。
享年61でした。

蜂須賀正勝の伝記を記した渡辺文学博士は正勝を賞してこう述べています。 
「秀吉にとって唯一の謀臣であり離すことのできない股肱の臣であった」と。

(スタジオ)
こうやって蜂須賀正勝の活躍ぶりを見てみますと、本当に秀吉の天下取りには絶対に必要だった人物ですよね?

野蛮な荒くれ者って言うよりはむしろ交渉事に長けた人物ですよね。

長宗我部の手紙なんかも・・・

けさは徳島藩の礎を築いた戦国武将・蜂須賀正勝をご紹介しました。 

 

おはようとくしま 2005年の放送