2003/02/18 No.7780
まだまだ現役 まちの鍛冶屋
さて、テレビの前の年配の方なら、鍛冶屋さんにお世話になったという方多いと思います。
包丁の切れが悪くなったら研いでもらったり鍬の刃がちびたら直してもらったり・・・。
鍛冶屋は生活に非常に密着した存在で、県内でも戦後は130軒を超えていたそうです。
しかし今では本格的に刃物などを作っているのは4〜5軒にまで減っています。
農作業をする家が少なくなったというのもそのひとつの原因なんでしょう。
しかし、なんと徳島市内にもどっこいまだ現役で頑張っている鍛冶屋があるんです。こちら、徳島市の二軒屋町にある稲田農機具製作所です。
昭和23年創業で鍬や熊手などの農機具を専門につくってきました。
徳島市内に唯一残る、本格的な鍛冶屋さんです。
そしてこの鍛冶屋を支えているのがこの3人の職人です。親方の稲田 春夫さん77 歳、
そして、高井 光雄さん 69 歳
秦 義和さん66 歳です。
みなさん60 歳を超えている…。
会社だったらとうに定年ですよ。
この高井さんと、秦さんは中学を出てすぐ稲田さんのところに住み込みで修行に入りました。
3食食べさせてもらうかわりに、仕事をちゃんと覚える。
そんな昔ながらの丁稚奉公を経験した最後の世代です。
今朝はこの徳島市内に唯一残る鍛冶屋にカメラが入りました。
鉄をたたく高い金属音が鳴り響く、「元祖ものづくり」の現場です。
(VTR)
Real Playerでごらんいただけます。 徳島市二軒屋町の金比羅神社から南へ200メートル。
大通りに面した場所にその鍛冶屋はあります。「稲田農機具製作所」、まちの鍛冶屋です。
親方の稲田 春夫さん77 歳です。
黒くすすけた帽子がトレードマークです。
稲田さんがこの仕事に就いたのは15歳の時。
西須賀にあった鍛冶屋に修行に出たのが始まりでした。
戦争でいったんはこの仕事から離れたものの、鍛冶屋一筋の人生です。
Real Playerでごらんいただけます。 今の二軒屋に独立したのは昭和23年、当時は法花のあたりにかけて6軒の鍛冶屋がひしめきあっていました。
しかし残ったのは稲田さんの鍛冶屋だけです。
通いの職人さんがやってくるのは午前8時すぎです。
最盛期には6人いた職人も今では親方の稲田さんをあわせて3人です。
高井 光男さん69歳、
中学を出てすぐ、この稲田さんの鍛冶屋に修行に入りました。
3人の中で最も気の短い職人です。
一番若い秦 義和さん66歳。
秦さんも中学卒業後、15歳でこの世界に入りました。
農機具の注文は農家が忙しくなる4月から5月に集中しています。
今の時期は去年の注文の量をもとにつくりだめをしています。
この日は鍬をつくっていました。
まず適当な長さに切った鉄に鋼を繋げていきます。
硬い鋼は鍬の刃先になります。
鋼が繋がると釜の中に入れて焼き入れをします。
釜の温度は約1000度。
次第に透明なオレンジ色に輝いていきます。
釜から出すとプレスハンマーと呼ばれる機械で形をつくっていきます。
細かい調整はやはり金槌を使っての手打ちです。
鉄の微妙な温度変化を読みとりながらすばやくたたいていきます。
これはホウ酸に鉄の粉を混ぜたものです。
鍬の頭の部分をつなげるための接着剤です。
この頭をつける作業がもっとも難しい行程です。
再び釜から取り出してプレスハンマーでたたきます。
薄くのばしているのではなく、鉄をたたいて鍛える作業です。
いかに鉄を鍛えて丈夫にできるかそれが道具としての価値を左右します。
余分な端を切り落とし、刃の角度を調整すれば鍬の形はほぼできあがりです。
鍛冶屋の仕事に設計図はありません。
すべて、職人のカンがたよりです。
このあと機械のヤスリで形を微調整していきます。
刃先はきめ細かく磨いて仕上げます。
最後にさび止めのニスをぬれば完成です。
枝をつけての鍬の出荷値はおよそ1300円から1500円です。
業者が商品をとりにやってきました。
20年来の取引のある得意先の業者です。
売れたのはマンホールなどをあけるショウセンと呼ばれる道具です。農機具の出荷先は主に香川県です。
ほかに徳島市内にも古くからの得意先が数件あります。(取引先の業者:稲田さんのところは、品物がいいと思う。客からのクレームが全然ない)
しかし、安い中国製品に押されているのは事実です。
それでも稲田さんは自分たち職人の腕に自信をもっています。(稲田さん:中国のものは鉄を鍛えてない。自分の品物に自信がある。ちゃんとしたものでないと買ってくれない)
昼食はいつも工場の隣にある稲田さんの家で3人そろって食べます。
高井さんと秦さんは奥さんの手作り弁当です。
20年前に奥さんに先立たれた親方の稲田さんにとって2人は家族も同然です。(稲田さん:中学出てから結婚するまでは一緒に住んでいたから弟子は息子のようなものだ)
(昭和40年頃は電話で断るのに苦労した。電話をとると客から怒られる)
(長い間鍛冶屋の仕事をやった。その中ではいいときも悪いときもあった。いいときが続くはずがない)
休む間もなく高井さんと秦さんが2階のタンクにのぼっています。
中には釜の燃料の重油が入っています。
冬の間はこうして定期的にタンクの中をかき混ぜなければいけません。
高い場所での危険な作業です。
鍛冶屋の仕事はつくるばかりではありません。
午後からは修理の時間です。(高井さん:だいぶ痛んだ品物で先を切り落とさなくてはならない)
(親のかたみ だから頭だけを残して作ってくれと注文があった)
修理は新しいものをつくるより高度な技術と経験が必要です。
しかし、その修理がどんなに難しくても、断らないのが鍛冶職人です。
「他人ができないと、さじをなげたものこそ やりがいがある」
高井さんが修業時代に学んだことです。(高井さん:誰もできなもの、どこにも売っていないものを作るときは、力が入る。面白い)
新しい命が再び吹き込まれた道具にお客さんが喜んでくれる、これもこの仕事の大きな楽しみです。(秦さん:鍛冶屋という仕事は・・・自分の生き甲斐、男らしい仕事、やりがいのある仕事と思ってやってきた。ひとつの品物を自分がやってこしらえていく楽しみ喜びがあった)
高井さんと秦さん、ほんとは60歳で一度定年になりました。
でもこの仕事から離れられなかったのには理由がありました。
跡を継ぐはずだった稲田さんの息子が脳卒中で倒れたからです。
腕のいい職人でした。
毎日リハビリを続けてはいるものの、復帰のめどはたっていません。
「でももしかしたらまた仕事ができるかもしれない
戻ってくる場所を残してあげていたい」
そんなかすかな願いをこっそり胸にしまいながら2人はこの仕事を続けています。親方の稲田さんもふたりの思いには気付いています。
しかし、稲田さんは自分の代で終えることを覚悟しています。(稲田さん:もう5年じゃな、よういて。もう5年。5年ももたんな、5年・・・)
鍛冶屋の前の大通りは今、電線の地中化作業が進んでいます。
鍛冶屋をとりまく時代がまた大きく変わろうとしています。放送台本から抜粋。細部では実際に放送された内容と違うところがあります。
(This is an uncorrected transcript for site edition ,different from real program. )
放送記録 2003/02/18
けさの童謡 「こぎつね」 吾橋(あわし)小学校(西祖谷山村)
うちのワンちゃん ちろ(OMダックス)
なつかしの徳島 「和田島ヘリ基地問題で政務次官来県」
けさの生け花 池坊・板東紀み子さん