2003/01/31 No.7770
野球殿堂入り 闘将・上田利治
ゲスト:元・阪急ブレーブス、オリックスブルーウェーブ、日本ハムファイターズ監督 上田利治さん(宍喰町出身)
Real Playerでごらんいただけます。 殿堂入りの感想は・・・
証言:上田利治とはこんな人・・・
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母親・上田アゴさん(89) 「小さいときからしっかりしていた。かっちりしてね。学校行くようになっても口返事しない。近所の人がどなぞ言うたら、ちょっと上の人でもかかっていった。人は大事にした。」
「何を思ったか、急に(グローブを)買うてきて『お父さんがこれ買うてくてくれた』言うて、喜んで見せてました。それから一生懸命やっていた」
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上田さんの親友・生田雅義さん(66) 「まじめで、くだけたところがないし優秀な男だったから・・・・友達同ではアホも言い合って遊んだ・・・」
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当時教員だった・元海南高校校長 景石公信さん(75) 「上田さんは、特に生徒の人望があった。人を指導する素質があったと思う。あの人は、生まれながらに人の上に立つ素質があったと思う。・・・」
海南高校野球部主将・岸克行さん(17)
「上田監督が殿堂入りしたことでチームも活気づいたところで、より一層甲子園を目指したいと思っています。・・・徳島に帰ってきたらこの海南高校にも寄ってほしいです。」
海南高校 校長・内藤正義さん(59)
「高い目標、超えられないぐらいの高い目標です。生徒たちは一歩でも上田監督に近づこうという気持ちでがんばってくれると信じています。」
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大学時代に全日本優勝
上田さんの親友・生田雅義さん(66) 「村山の調子が抜群で、村山と上田のバッテリーの比重が60から70も占めていたんでしょうね。・・・どないも、言いようがな。うれしいて、踊りあがるぐらいの・・・・」
1984年 高知キャンプでの上田監督(四国放送取材)
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日本シリーズ ホームランをめぐる抗議について
上田さんの親友・浜田栄治さん(61) 宍喰町在住
元阪急ブレーブス投手・白石静生さん(58)徳島市在住
さて、お待たせ致しました。
けさのお客様をお呼び致しましょう。
時には鉄拳制裁も辞さず、強いリーダーシップと情熱で「闘将」と呼ばれた、元パ・リーグ日本ハム監督の上田利治(うえだ・としはる)さんです。
阪急、オリックス、そして日本ハムとのべ20年監督業を務めた上田さんは、今回、149人目の球界功労者として野球の殿堂入りを果たしました。
おめでとうございました!
現在はデイリースポーツの野球評論家として活躍されている上田さんですが、殿堂入りした今のお気持ち、一言お願いします。
>答え
けさは、徳島の誇る日本一のプロ野球監督、上田利治さんにお話しを伺ってまいります。
まず、こちらのVTRからご覧下さい。
(VTR)
昭和12年1月18日、漁村・宍喰で魚屋を営む上田武夫さんとアゴさんの長男として上田さんは生まれました。
体重およそ3000グラムの元気な赤ちゃんでした。
音生かし(母親)
「小さいときからしっかりしていた。口返事もしない、年上には厳しく年下には優しかった。」
正義感が強く、人に優しい少年に成長した上田さん。
初めてグローブを手にしたのは小学4年生のときでした。
「お父さんが買ってくれたと喜んで、一生懸命に練習していた。」
地元海南高校へ進学した後も野球部に所属。
キャッチャーとして活躍し、3年生の時にはキャプテンを務めました。
「50年前の写真ですから・・・」
中学から大学まで共に野球に励んだ同級生の生田さんは、上田さんのことを「とにかくいい男だった」と振り返りました。
「まじめで砕けたところのない選手。友達同士なら馬鹿も言い合ったけど。」
野球部キャプテンとして活躍する一方、勉強でも常にトップクラスの成績を残した上田さん。
卒業生総代をもつとめた姿は当時の先生達の記憶に、今も焼きついています。
(影石先生)
「生徒に人望があり人を指導する素質あった。生まれながらにして人の上に立つ人だ。」
現在の海南高校。
野球部員は総勢13人・・・。
(岸主将)
「殿堂入りによってチームが活気付いた。甲子園を目指して新しい気持ちで頑張る。」
(校長)
「上田監督に近づいて欲しい。」
ふるさとの大先輩が野球の殿堂入りという偉業を成し遂げたことで後輩達の胸に、新しい誇りが刻まれています。
(スタジオ)小学4年生で始めた野球を中学、高校と続けられたわけですけども、そのころから野球人生を歩むと考えていましたか?
>答え(弁護士になりたかった)
海南時代は野球部キャプテンで勉強もずば抜けてとのこと、さぞ、ファンも多くもてたでしょう!
>そんなことは、ありません
スポーツと勉強を両立させる秘訣は?
>集中力は必要だと思います。
さて、高校を卒業した上田さんは、関西大学にトップの成績で入学し、電撃的な出会いをしました。
大学時代からのVTRをご覧下さい。
(VTR)
1955年、関西大学法学部に進学した上田さんは、後の阪神タイガースのピッチャー故・村山実さんと出会い、バッテリーを組みました。
そして56年から3年連続して全国大会に出場、56年には日本一の栄冠に輝き、関西大学野球部の黄金時代を築きました。(生田さん)
「上田・村山の調子が抜群だった。ただもう、嬉しくて飛び上がったほど。」
大学卒業後、キャッチャーとして広島カープに入団しますが、現役生活にはわずか3年間でピリオドが打たれました。(スタジオ)
選手時代は121試合に出場、257打数56安打17打点、打率は2割1分8厘という成績でした。
高校、大学時代の華々しい活躍と比べますとプロの世界は厳しかったと言うことですね?
>答え
選手時代はどんなお気持ちでした?
>答え
後に「球界屈指の」と、言われるまでになった、野球理論を培っていかれたのですね?
>答え
卓越した指導力と野球に対する情熱など、人間としての力量を買われた上田さんは、現役引退後、なんと25歳の若さで広島のコーチになりました。
「闘将・上田利治」の始まりでした。
(VTR)
1962年から9年間広島のコーチを務めた上田さんは71年、阪急のコーチに就任。
時の西本幸雄監督の下で、後進の指導にあたりました。
西本監督の後を引き継ぎ、74年から阪急の監督に就任した上田さんは、持ち前のバイタリティで、チームを巧に操りました。
(白石さん)
「いい監督だった。野球の楽しさを学んだ。」
サウスポーとして活躍した元阪急のピッチャー白石静生さんは、選手生活17年の半分以上を上田監督と共に過ごしてきました。
記憶力がずば抜けてよい監督だったと振り返っています。
(白石さん)
「グラウンドでは非常に厳しい。私服に着替えたら放任主義。」
「ハンドマイクでしょっちゅう怒鳴られた。」
監督就任2年目の1975年、ついに阪急は悲願の日本一を達成。
上田さんはピッチャーの山田久志、足立光宏、盗塁王の福本豊ら、当時のスーパースター達を育て上げ、それからの3年間、連続して日本一となりました。
「名将」の名をほしいままにした阪急の黄金時代・・・、
その一方で、激しい情熱と妥協を許さない、まさに闘将の姿を目の当たりにしたのは、翌78年の日本シリーズ最終戦でした。
(浜田さん)
「1時間なんぼの中断のとき、普段とは想像もつかない闘志にびっくり!」
(白石さん)
「打たれたときは、ベンチはみんなファウルと思った。」
広岡監督率いる対ヤクルト戦。
上田監督は、ポールに当たってホームランと判定されたヤクルト・大杉の打球をめぐって1時間19分もの抗議を繰り広げました。
(白石さん)
「選手の総意で引き下がれなかったと思う。」
結局、判定は覆らず、ヤクルトに日本一の座を奪われたこの日、上田さんは、周囲の反対を押し切って
監督を辞任しました。
(スタジオ)最初の日本一が38歳という若さだった上田さんなんですが、実はきょう、その日本シリーズで監督ご自身が着てらっしゃったユニフォームをお借りしてきています。
こちら、上田さん、覚えてますか?
>覚えています。自分の家には無い。
これは、ふるさとの大親友、自称・上田監督の監督、浜田栄治さんにお借りしてきたんですよ。
>彼にはお世話になったし、ふるさとには、何人も私の監督がいます。そんな温かい町です。
今振り返ってみても、日本一の味は違いますか?
>違う。いいもんだ。みんなで勝ち取ったものだけに、みんなが喜んでいる姿を見るのはたまらない。
その日本一への執念があの、歴史に残る抗議へとつながったんですね?
>キャンプから選手たちには厳しい練習を課して「今年は絶対になんとしてでも日本一になる」と言ってきただけに、選手も応じてやってきたのに、あういうことで当時はたったひとつの審判の大きなミスで戦況が変わるのは、許せないと思った。当時はね。そして白石くんがいみじくも言っていたように選手からは、「こんなファールでなんでやらないかん」という雰囲気がすごかった。だから自分では抗議しに行っても、いつかはいい時期を見て、方向転換して、ゲームに集中しなあかんと思ったけれどあの時間には見つけることができなかったので自分は船長としてスキッパー(艇長)として監督として失格だと思った。
抗議している最中、何を考えていたか覚えてますか。
>答え
当時の選手はかなり厳しい監督だったと話されていましたがご自身でも自覚してらっしゃいました?
>意識して厳しくするところも必要だった。
選手達に伝えたかったことは何ですか?
>必死さ、真剣に取り組むこと。
さて、こちらが上田さんが監督になってからの歴史です。
1981年に再び阪急の監督となり84年にリーグ優勝しています。
そしてオリックスや日本ハムを経て99年に監督を退いていますが、これまでの、のべ20年間、
チームが再下位になったことは1度もありません。
監督業は孤独との戦いだったと思うんですが
振り返ってみて、一番心に残っていることは?
>好きなことをしているし、みんなとやったので決して孤独とは思わない。サラリーマンの方が孤独なのでは・・・
もう一度ユニフォームを着てとの要請があればどうしますか?
>体力のこともあるし・・・
(視聴者からの質問)
今回の殿堂入りを一番喜んでいるのは、やはりご実家のお母様だと思います。
そのお母様から、実はお手紙を預かっていますのでご紹介させていただきます。
手紙の朗読
このたびは、御目出度う御座居ます。
ちさい時から色々と苦労があったことと思いますが、
喜んでおります。
一番、思い出すことは、お父さんがいたら
どんなに喜んだことだろうと思うと涙が出ます。
これも皆様のおかげで、
こんなお祝いを頂いたと何よりです。
またこれからも 色々なことでがんばって下さい。
体を大切にしてね
利治へ
母より
ま、お母様は、手紙なんて恥ずかしいし、書いたこともないとおっしゃっていたのですが、
殿堂入りの記念にと、書いて下さいました。
上田さん、いかがですか?
>いつまでも子どもは子どもなんでしょうね。(体を大切にねって・・・)こっちが言わなくてはいけないのに。
今後力を入れたいことは?
>野球のすばらしさをこどもさんに伝えたい、教えたい。
けさは、今月11日に野球殿堂入りを果たされた元・日本ハム監督の上田利治さんにお越しいただきました。
上田さん、ありがとうございました。
(VTR)
上田さんの母校、宍喰小学校にある少年野球チーム、その名も「宍喰ブレーブス」。
小学3年生から5年生までの27人がプレーしています。
「野球が楽しい」と、日が暮れてもグラウンドに残る子供達。
上田さんの野球の原点が、そこにありました。
(岡監督)
「子供は殿堂入りのこと把握していないが、プロへの意識は高まっている。野球が大好きだ」
敗戦に沈む街を元気付けるための野球でした。
57年前、初めてグローブをつけた少年はその楽しさのとりことなり、日本を代表する野球監督になりました。
上田利治さん、66歳。殿堂入りは、野球人にとって最高の栄誉の一つです。
(授賞式の日。上田監督)
「皆の力を借りて頑張った結果だ・・・」
「和して同ぜず、前進あるのみ」上田さんが好きな言葉です。
ふるさとで味わった「楽しい野球」、その原体験に支えられた監督生活20年の勝ち星は、歴代6位の、通算1322勝でした。放送台本から抜粋。細部では実際に放送された内容と違うところがあります。
(This is an uncorrected transcript for site edition ,different from real program. )
から 2003年3月18日
▼ 上田元監督に県民栄誉賞
宍喰町出身で野球殿堂入りした元プロ野球監督、上田利治さんに、きょう、県民栄誉賞が贈られました。 贈呈式は、県庁でおこなわれ、県職員が拍手で上田さんを出迎えました。上田さんは、宍喰町出身で阪急ブレーブスの監督時代に5回のリーグ優勝と日本シリーズ3連覇を成し遂げました。県は、上田さんが野球殿堂入りしたのを受け、県民栄誉賞を決めました。きょうは上田さんに大田知事が賞状と盾を贈りました。
県民栄誉賞は、県民に夢と希望を与えた個人や団体に贈られています。これまでにプロゴルファーの尾崎将司さんや池田高校野球部の故・蔦文也さんが受賞していて上田さんの受賞は、個人としては5人めになります。
上田さん
「光栄だがおもはゆい気持ち。子供たちに野球の楽しさを伝えていくのがこれからの使命」現在野球評論家の上田さんは、「東京にいても徳島のスポーツは気になります。甲子園は期待できますね。」と話していました。
放送記録 2003/01/31
うちのワンちゃん プク(ゴールデンレトリバー)
なつかしの徳島 お休み
けさの生け花 嵯峨御流・石井和甫さん