2002/07/03
四国放送開局50周年 〜六人の知事が残したもの
四国放送はおととい7月1日開局50周年を迎えました。
おはようとくしまでは今週1週間四国放送開局50周年記念としまして過去の映像を中心に様々な企画をお送りしています。
今朝は「6人の知事が残したもの」と題してそれぞれの時代の知事が徳島の発展のために何に尽力したのかをご覧頂きます。
スタジオには戦後、公選で選ばれた歴代の知事の写真を並べました。さて四国放送が開局した昭和27年は終戦の荒廃からようやく立ち直ったという時期ですが、
初めての知事選はそれより5年前の1947年、昭和22年4月5日に行われました。
その時に当選したのが徳島市出身の弁護士・阿部五郎(あべごろう)さんでした。
阿部さんは当時全国でも数少ない社会党の知事でした。
阿部五郎知事の時代 Real Playerでごらんいただけます。
(VTR)
第二次世界大戦によって焦土と化した日本列島。
徳島県も例外ではありませんでした。
敗戦から2年後の昭和22年、人々がまだ戦後復興と食糧難にあえいでいる時代。
そんなさなか4月5日に初の徳島県知事選挙が行われました。
選挙から二日後の朝刊は阿部五郎の当選を報じるとともに、
当時全国では3人しかいなかった社会党の知事が徳島で誕生した理由についてこう記しています。
・「労農勢力結集」
徳島市出身で弁護士をしていた阿部は社会党の県連会長として農地解放運動の先頭に立っていました。
知事当選後もその姿勢は変わらず、農地解放に全力を傾注します。
就任からわずか2年で当時県内にあった小作地の4分の3にあたる1万3950ヘクタールの小作地を
小作農民に開放したのです。
知事時代にまとめた徳島県農地改革史の中で農地解放の成果について阿部はこのような感想を記しています。
「この偉業が2ヵ年余の短期間に達成されたということは、まさに驚異に値する業績と言わなければならない」
阿部五郎はその後、病に倒れ1期4年間だけの任期でしたが、農地解放と同時に米の増産にも力を入れ、徳島県の戦後復興に貢献しました。
「この農地解放は決して一時的・暫定的なものではあってはならない。農地改革によって獲得した農民自身の権利と義務こそ農民の深い自覚の下今後永久に保持されなければならない」
これが農地解放による戦後復興を目指した阿部五郎の信念でした。
(スタジオ)阿部五郎さんのあと、1951年昭和26年に戦後二人目の知事に選ばれたのが、こちらの阿部邦一(あべくにいち)さんでした。
阿部邦一さんは鴨島町出身で元内務省の官僚。
1951年昭和26年から1期4年間で徳島発展の礎を築きました。
阿部邦一知事の時代 Real Playerでごらんいただけます。
(VTR)
阿部邦一が知事に就任した昭和26年当時は戦後復興だけでなく徳島に新しい産業をおこすことが求められた時代でした。
(阿部邦一インター)
・産業は盛んでなかった
阿部は産業を興すには電力が必要だと考え、那賀川に長安口ダムとその下流に日野谷発電所の建設を
進めたのです。
工事は国に借金して行い、総事業費は当時の額で83億円、徳島県にとってはまさに戦後最大とも言える大プロジェクトでした。
阿部が知事を退任してから2年後に長安口ダムと日野谷発電所は相次いで完成しました。
そしてこの那賀川の電源開発によって昭和34年には那賀川下流の阿南市に神崎製紙の工場が進出するなど徳島県の産業の基盤となっていきました。
阿部が知事についた昭和26年当時、鳴門海峡に橋をかけ、徳島と本州をつなぐという構想はすでに持ち上がっていました。
しかし「夢の架け橋」というその名のとおり、当時としてはまだ夢物語でしかありませんでした。
このため阿部は昭和29年に鳴門と淡路島の福良を渡る国内初のフェリーボートを就航させたのです。
(阿部邦一インター)
・橋、橋といってもいつになるか分からんからねぇ
4月12日、フェリーボート「若潮丸」は阿部らを乗せて福良港を初めて出航しましたが、悪天候のため鳴門にはたどり着けず、福良港に引き返すというアクシデントにみまわれました。
(阿部邦一インタビュー)
・記者団に失敗と揶揄された
阿部が就航させたこの日本初のフェリーボートは大鳴門橋が開通する6年前の昭和54年まで人と車を乗せて鳴門海峡を渡りつづけました。(スタジオ)
さて1955年昭和30年に行われた3回目の県知事選挙で知事に選ばれたのが原菊太郎(はらきくたろう)さんでした。
原は病に倒れで辞任するまでの3期10年間、知事の座につきました。
もともと材木関係の商売をしていた原はその経営者としての才能を県政に持ち込みました。
原菊太郎知事の時代 Real Playerでごらんいただけます。
「本四道路の呼び水」。昭和36年小鳴門橋開通。「道路の鬼」。由岐町阿部の道路「原知事さんありがとう」石碑。
(VTR)
おととし、徳島市内で開かれた絵の展覧会。
会場に並ぶ水彩画や屏風絵などこれらの作品は原菊太郎が残したものです。
原は生前、県美術家協会会長を務めるなど画家としてもその才能は広く認められています。
鳴門市の小鳴門海峡にかかる小鳴門橋です。
昭和36年、原が知事だった時代に架けられました。
真っ赤な橋桁と白くそびえ立つ橋脚のコントラスト。
この配色を決めたのは他でもない原自身でした。
小鳴門橋の工事は原が知事に就任し2期目を迎えた昭和34年に始まりました。
(音生かし・原菊太郎)
・借金が・・・・
当時県は財政再建団体に陥るほどの厳しい財政状況でした。
そんな中県議会の反対を押し切り電力会社から融資を受けてまで原が小鳴門橋建設に踏み切ったのには
大きな訳がありました。
当時、鳴門と神戸を二本の橋でつなぐ本四ルート建設という県民の夢は増すばかりで県も誘致運動を盛んに行っていました。
(音生かし・原菊太郎)
・三木さんに頼んで・・・・・
原が小鳴門橋建設に固執したのは「架橋効果を示すことで本四ルート建設の呼び水にしたい」そんな思いからでした。昭和36年、赤と白に彩られた小鳴門橋が開通。
原が1日も早い建設を望んでいた大鳴門橋の工事が始まったのはそれから15年後のことでした。
昭和30年から40年までの10年間徳島県知事を務めた原菊太郎は「道路こそが経済の大動脈だ」という信念のもと、徳島県の道路整備に力を入れました。
このため原は「道路の鬼」とも呼ばれていました。
海部郡由岐町阿部(ゆきちょう・あぶ)。
この地域は三方を山に囲まれた海辺の集落でかつては「陸の孤島」と言われていました。
昭和32年、原は、阿部地区の住民のために由岐町の中心街までのおよそ10キロの道路を整備しました。
(リポート)・あった、「原知事さんありがとう」と書いてある
地元住民が石碑を建立してまで原に感謝の意を示したのにはこんないきさつがありました。
当時、由岐町の助役を務めていた喜多條瑞穂(きたじょう・みずほ)さんは昭和30年の暮れに町長とともに知事であった原のもとに阿部地区への道路整備の陳情に出かけました。(喜多條さんインタビュー)
・押しかけだった
・人道上の問題からやると言ってくれた
しかし当時県は財政再建団体に陥っており、県の財布に余裕など全くありませんでした。
そんな中原に名案が浮かび上がりました。
それは自衛隊に協力を求めるということでした。
喜多條さんらの陳情から1年半が過ぎた昭和32年6月、阿部地区の海岸にブルドーザーと自衛隊員50人を乗せた船が到着。
道路の建設工事がスタートしたのです。
(地元住民インター)
・我々も手伝った
工事開始からわずか半年後、かつて「陸の孤島」と呼ばれていた阿部地区から由岐町の中心街までの
10キロに及ぶ道路が開通したのです。
自衛隊に協力を求めるという原菊太郎のユニークな発想で昭和32年に開通した道路はその後舗装され
今も阿部地区の住民にとって唯一無二の生活道として利用されています。
(音生かし)
・老人が石碑の前を歩く
(喜多條さんインター)
・あの石碑は住民の本当の感謝の気持ち
(スタジオ)武市、三木知事の時代 Real Playerでごらんいただけます。
武市、三木知事の時代 高度成長のひずみ Real Playerでごらんいただけます。
武市さんへのインタビュー。流血」の惨事。
さて原さんのあと1965年、昭和40年から知事に就任したのが貞光町出身で衆議院議員だった武市恭信(たけいち・やすのぶ)さんでこの方は戦後の歴代の知事の中で最も長い4期16年つとめました。
そしてその次の三木申三(みき・しんぞう)さんは山川町出身。
県議会議員からの転身で1981年から93年まで3期12年知事の座につきました。
武市さん、三木さんまでの28年間は徳島県民にとっては悲願だった本州と四国とをつなぐ本四架橋の建設がようやく始まった時期でした。
しかし、そこに至るまでには大変な紆余曲折がありました。
(VTR)
(武市さん)
・44年県議会
・80万県民の悲願である
神戸・鳴門の優先を勝ち取るこの当時、本四架橋については神戸・鳴門ルート、児島・坂出ルート、そして尾道・今治ルートのうちどのルートを優先するのか、ルート争いが激化していました。
(音生かし・阿波踊り)
・武市知事踊る
夏の阿波踊り。
県知事の武市も先頭で踊りながら神戸・鳴門ルートの早期着工を全国の観光客にアピールしていました。
ルート争いがヒートアップする中、昭和45年、自民党の田中角栄幹事長は3ルートとも同時に着工するという政治決断を下します。
47年に総理として来県したときもこう話しました。
(音生かし・田中角栄)
・3ルートとも同時着工
そして3ルート同時着工の日取りは昭和48年11月25日に決まりました。
しかし起工式を5日後に控えた11月20日、事態は思わぬ方向に展開します。
それは3ルートとも工事開始を凍結するというものでした。
その年に起きたオイルショックが原因でした。
(武市インター)
・まさかという感じだった
凍結から1年後、三木武夫内閣が誕生しました。
県内では凍結解除という期待が高まる一方で、国会では四国に3ルートも必要なのかという批判も噴出しました。
こうした中当時の仮谷忠男(かりや・ただお)建設大臣はある決断を下しました。
(武市知事)
・仮谷建設大臣は「一本のルート(児島・坂出ルート)に絞ってやらざるをえない」と話した
・三木総理はご存知ですか?と聞くと軽くうなずいた
結局、比較的工事が簡単な児島・坂出ルートが優先されました。
神戸・鳴門ルートの内大鳴門橋だけが昭和51年に工事が開始されましたが、その名目は「地域開発橋」というものでした。
(音生かし)
・大鳴門橋開通
9年後の昭和60年6月、大鳴門橋が開通。
しかしこの時点で神戸・鳴門ルートのもう1本の橋明石海峡大橋はまだ工事すら始まっていませんでした。
しかし当時、知事だった三木申三はこう話します。
(三木インター)
・いけそうな感触はつかんでいた
三木の感触どおりその年の暮れ、明石海峡大橋の工事は翌年に開始されることが決まりました。
かつて「80万県民の悲願」とも言われた神戸・鳴門ルートは紆余曲折の末、ようやく開通にこぎつけました。
ルート争いに明け暮れた昭和という時代が終わり平成に入って10年目のことでした。
(スタジオ)
ご覧頂きましたように武市さん、三木さんが知事を務めた時代は、本四架橋建設という県民にとっては
長年の夢が叶った時代でした。
一方で日本経済の高度成長のひずみに直面し公害問題などが噴出した時代でした。
(VTR)
かつて「阿波の松島」と呼ばれた阿南市の橘湾です。
この橘湾の開発問題を巡っては昭和40年代から50年代にかけて状況が二転三転し、「県政のアキレス腱」とも言われていました。
「国民所得倍増計画」で知られる池田内閣は昭和39年、全国10数か所を新産業都市に指定。
橘湾を含む徳島県の東部臨海地域もこの指定を受けました。
翌年、知事に初当選した武市恭信は橘湾開発に力を注ぎます。
(武市知事)
・議会答弁
昭和43年には関西電力と四国石油興業が相次いで橘湾への石油基地の進出を申し入れます。
これに対し武市は前向きな姿勢を示します。
(武市インタビュー)
・徳島は遅れていたから
県内だけに限らず、全国的にも工業開発一辺倒だったこの時代。
その一方で公害という「開発のツケ」が確実に広がりを見せていました。
石油関連産業による橘湾開発を目指した武市に対し地元住民は公害が発生するとして猛烈に反対を繰り返しました。
県と地元住民が対立を深める中、昭和44年6月28日、県政史上最悪の出来事とも言える流血の惨事が起きました。
県庁で武市と話し合いをしていた地元住民がプラスチックの箱を投げつけ、これが武市の頭に命中。
武市は怪我を負い病院に運ばれたのです。
(武市知事)
・偶然にあたったんだ
この惨事から1か月後、県議会は橘湾への石油関連企業の進出を白紙撤回するという決断を下しました。
再び橘湾開発問題が浮上したのはそれから4年後の昭和48年のことでした。
住友重機が大型造船所の立地を県に申し入れたのです。
県はすぐさま誘致を決定し、周辺の漁業団体に合計49億円の漁業補償を先払いします。
しかし造船不況の中、住友重機の進出はあっけなくとりやめになってしまいました。
(武市知事)
・新しい企業を早く探していきたい
その後も橘湾へはいくつかの企業が進出の意向を示しましたが、武市の願いとは裏腹にいずれも立地にまでは至りませんでした。
県が先行投資した漁業補償費49億円は宙に浮く格好になり、橘湾開発問題はいつしか「県政のアキレス腱」と呼ばれ政争の具となっていったのです。
(音生かし)
・三木申三知事初登庁
三木申三が就任した昭和56年当時、県は電力会社に対し石炭火力発電所を立地してくれるよう働きかけを行っていました。
そんな中、三木は石炭火電に難色を示したのです。
(三木インタビュー)
・その時は、環境面で石炭火電に疑問
ところが三木は就任から半年後の県議会で石炭火電受け入れに前向きな姿勢を示し、橘湾開発問題は一気に終結に向かうことになります。
(三木知事)
・環境に配慮して・・・・・
(三木インター)
・地元の意向を聞いたし公害面でクリアーできるなら環境に問題がないことが理解できたから
・石炭火電スイッチオン
三木が知事を退任してから6年後の平成11年、橘湾石炭火力発電所の稼動が始まりました。
昭和39年に新産業都市に指定されてから実に35年の歳月が流れていました。
(スタジオ)
武市さんそして三木さんの後、戦後6人目の知事となったのがこちら、
板野町出身の圓藤寿穂(えんどう・としお)さんでした。
1993年、平成5年から今年3月まで知事の座につきました。
元運輸省の官僚だったことから中央とのパイプを遺憾なく発揮しましたが、公共事業を巡っては住民の批判を一身に受けることになります。
圓藤知事の時代 Real Playerでごらんいただけます。
(VTR)
・圓藤知事初登庁
平成5年の選挙で当選した圓藤寿穂は知事就任後さっそく運輸省のエリート官僚だったその実力を遺憾なく発揮します。
(音生かし)
・テープカット
知事に就任してから1年後にはそれまで徳島空港に1社しか乗り入れのなかった東京便に新たな航空会社を誘致することに成功します。
(圓藤知事)
・もっともっと飛ばす
さらに圓藤は福岡線、札幌線、名古屋線、鹿児島線、そして関空線と新規路線を次々と開設。
圓藤の手腕によって徳島の交通事業は大きく飛躍しました。
圓藤が知事に就任した平成5年以降、日本経済はバブル崩壊後の不況にあえぎ続けました。
・第十堰の水の音
そうした中、無駄な公共事業に対する県民の批判も大きなうねりとなって高まり、やがて圓藤自身もその激流の中に飲み込まれていきます。
(圓藤知事)
・可動堰案がベスト
・私は信念を持っています
しかしこの信念が後に仇となります。
・住民投票1、2、3
平成12年1月可動堰建設予定地の徳島市で計画の賛否を問う住民投票が実施されました。
結果は反対が9割を超え、民意は確実に圓藤と乖離していきます。
住民投票から半年後、圓藤は県政に対する考えを1冊の本にまとめました。『とくしま 感動の世紀へ向けて』
「私自身は現時点においても可動堰案を推進すべきだとの考えに変わりはありません」
最後まで信念を貫いた圓藤でしたが、その思いとは裏腹に可動堰計画はこの年与党3党の手によって白紙に戻されました。
(スタジオ)
こうして戦後の6人の知事がそれぞれどういった事業に情熱を燃やしたのかを見ていきますとその時代、その時代を見事なまでに映し出していることが分かりますね。
そして戦後7人目に当たる知事が今の大田正さんです。
果たして大田さんは今後徳島県をどのような方向に導いていくのでしょうか。
そしてどんな歴史が刻まれていくのでしょうか。
今朝は「戦後の知事が残したもの」と題して6人の知事の足跡を辿り、知事のエピソードを交えながら
それぞれの時代がどういう時代だったかのかをお伝えしました。
皆さんはどのようにお感じになったでしょうか?
(VTR阿部五郎の銅像)
徳島駅から眉山まで伸びる徳島のメインストリート。
「50メートル道路」とも呼ばれるこの道路は戦後間もない昭和24年に整備されました。
この一角に昭和22年、初めて県民の手によって知事に選ばれた阿部五郎の銅像が立っています。
阿部五郎は県政をつかさどる上でこんな言葉を残しています。
「知事以下高級官吏は常に民衆と接する機会を持つこと、知事をとりまく資本家とのくされ縁をたちきり公平と機会均等を保証することにより産業の振興を図る」
おはようとくしま 四国放送開局50周年〜映像ライブラリーから
おはようとくしま 四国放送50周年〜アナウンサーが伝えた半世紀
放送記録 2002/07/03
仙波教授の阿波弁講座 お休み
けさの童謡 「きらきら星」川島小学校(川島町)
うちのワンちゃん お休み
なつかしの徳島 水難防止活動
けさの生け花 池坊・石井智子さん