2001/07/05
ユダヤ人を救った外交官 杉原千畝(すぎはら・ちうね)
ユダヤ人を救った外交官 杉原千畝(すぎはら・ちうね)
ゲスト:千畝夫人・杉原幸子さん
第二次世界大戦の最中
ナチス・ドイツの迫害を受けていたユダヤ人にビザを発給し
6千人をヨーロッパから脱出させた日本人外交官がいました。
杉原千畝。
国の命令にそむいてまでも多くの人々の命を救った杉原千畝の行動は
60年後の現在、世界中でたたえられています。
みなさんは「杉原千畝」という人をご存知でしょうか。
第二次世界大戦中、多くのユダヤ人を救った外交官と言えば
思い当たる方も多いと思います。
こちらは、去年発行された「20世紀デザイン切手」の第9集です。
20世紀の日本を象徴する人や物をデザインした切手のシリーズですが
この中にも杉原千畝が登場しています。
まさに、20世紀の日本を代表する人物の一人だったんですね。
この杉原千畝についての講演会がきょう、徳島市文化センターで開かれます。
そこでけさは、講演会の講師として招かれている
杉原千畝の夫人、幸子さんにスタジオにお越しいただいて
杉原千畝の業績を振り返ります。
(杉原幸子さん)
杉原千畝は、どういう人物だったのか。
まず、生い立ちから、外交官として活躍するまでをご紹介します。
杉原千畝は1900年1月1日に岐阜県で生まれました。
学生時代から外国語が得意だった杉原は
19歳のときに外務省留学生として中国のハルピンに渡りロシア語を学びます。
そして24歳で外務省書記生に採用され外交官としてのスタートを切ります。
(VTR)
1932年杉原千畝は、建国されて間もない満州国の外交部に派遣されます。
ロシアに関する知識を買われての登用でした。
当時、満州国とロシアの間で鉄道の売買交渉が行なわれていました。
この交渉で杉原は、満州国の書記長として腕をふるい、
交渉は日本に有利な条件で決着しました。
出世コースを歩んでいた杉原でしたが
1935年、満州国外交部を退官し日本の外務省に復帰します。
このときの心境について杉原は後にこう記しています。
「若い職業軍人が狭い了見で事を運び無理強いしているのを見ていやになった」
(スタジオ)
杉原千畝・35歳のことでした。
満州から日本に帰った年に杉原千畝は、幸子さんと結婚されたわけです。
(杉原幸子さんにインタビュー)
さて、外務省に復帰した杉原千畝の次の仕事場はヨーロッパでした。
(VTR)
1937年、杉原はフィンランドの日本公使館に一等通訳官として赴任しました。
妻の幸子さん、長男の弘樹さんを伴っての海外赴任でした。
華やかな外交の舞台には千畝はもちろん幸子さんも出席し
夫婦ともども忙しい毎日が続きました。
1939年、杉原はヨーロッパ北部の国・リトアニアの日本領事館領事代理に任命されます。
この映像は、当時の首都カウナスにあった領事館での杉原千畝と家族の様子です。
一家の幸せそうな生活ぶりがうかがえます。
しかし、ヨーロッパに戦争の足音が近づいてきました。
1939年、ヒトラー率いるナチスドイツのポーランド侵攻を
きっかけに第二次世界大戦がはじまります。
ナチスドイツは、とりわけヨーロッパ各地に住むユダヤ人たちを激しく弾圧しました。
ドイツに占領された地域でユダヤ人は次々に逮捕、虐殺されていったのです。
杉原千畝がリトアニアの日本領事館に赴任した次の年、1940年7月18日。
その日の朝6時ごろ、杉原は領事公邸の外で大勢の人の声がするのに気づきました。
「私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、
なんとこれは大部分がヨレヨレの服装をした老若男女で
いろいろの人相の人々がざっと100人も公邸の鉄柵に寄りかかって
こちらに向かって何かを訴えている光景が目に映った。」
群集はポーランドに住むユダヤ人達でした。
ポーランドを占領したドイツ軍による迫害から逃れてリトアニアまでやってきたのです。
ユダヤ人たちの代表は杉原に面会してこう訴えました。
「日本を通過するためのビザを交付していただきたい」
彼らの目的は、ナチスの手が届かない遠い外国に脱出することでした。
そのためには途中、日本を通過する必要があったのです。
(スタジオ)
当時、杉原千畝が領事代理をつとめていたのがこのリトアニア。
ご覧のようにポーランドと国境を接していますね。
で、1939年にドイツ軍がポーランドに侵攻し占領下に置きます。
当時ポーランドには350万人のユダヤ人が住んでいましたが
たちまちナチスによる弾圧、迫害を受けることになります。
命からがらポーランドを脱出したユダヤ人の一部が
リトアニアの日本領事館に助けを求めてきたわけです。
その数は、最初の7月18日の朝の時点では100人ほどでしたが
日がたつにつれてどんどん増えていきました。
ユダヤ人難民の目的はカリブ海のオランダ領・キュラソー島でした。
オランダのビザはもらっていたのですが、
ここへ行くためには東回りにソビエトを横断し、
日本を経由するコースが最も現実的でした。
そのためには日本の通過ビザがなければソビエトを通る事ができません。
ユダヤ人たちには日本のビザが何としても必要だったのです。
(スタジオ)
幸子さんにインタビュー
ビザ発給を求められた杉原千畝でしたが
当時の国際情勢はとてもそれが許される状況ではありませんでした。
(VTR)
杉原は外務省にビザ発給の許可を求める電報を打ちました。
これほど大量のビザを発給するには日本本国の判断を仰ぐ必要があったのです。
しかし、外務省はユダヤ人難民へのビザ発給を認めませんでした。
当時、日本はドイツとの間で日独防共協定を結び協力関係にありました。
ユダヤ人にビザを発給すればドイツの意向にそむくことになります。
「仮に、本件当事者が私でなく
他の誰かであったならば
百人が百人、拒否の無難な道を選んだに違いない。
昇進停止とか馘首(くび)が恐ろしいからである。
私はこの回訓を受けた日、一晩中考えた」
本国の命令か、人々の命か。
悩んだ末に、杉原はビザの発給を決意しました。
その時の模様を妻の幸子さんはこう記しています。
「夫が表に出て『ビザを発行する』と告げたとき、人々の表情には
電気が走ったようでした。一瞬の沈黙と、その後のどよめき。
抱き合ってキスし合う姿、
天に向かって手を広げ
感謝の祈りを捧げる人、
子供を抱き上げて
喜びを押さえきれない母親。
窓から見ている私にもその喜びが伝わってきました」
ビザの発給は骨の折れる作業でした。
一人一人に面接を行い名前やトランジット条件などの長い文を領事代理である
杉原が手書きで記入しなければなりません。
杉原は朝から晩まで作業を続けました。
使っていた万年筆は壊れ、肩や手首の痛みに悩まされながらも
毎日、領事館にやってくるユダヤ人達のためにビザを発給し続けました。
そんな杉原のもとに、リトアニアを退去せよという命令が届きます。
リトアニアがソビエトに併合されたためです。
杉原は退去命令を無視してビザを発給し続けましたが
とうとうリトアニアを出て行かざるを得なくなりました。
駅で汽車を待っている間にもビザを求めて何人もの人がやってきました。
汽車が走り出し、夫はもう書くことができなくなりました。
「許してください。私にももう書けない。
みなさんのご無事を祈っています」
夫は苦しそうに言うとホームに立つユダヤ人たちに深々と頭を下げました。
「バンザイ、ニッポン」
誰かが叫びました。
「スギハァラ。
私達はあなたを忘れません。
もう一度あなたにお会いしますよ」
杉原はユダヤ人に発給したビザの数を1500と外務省に報告しました。
しかし実際には、より多くのビザが発給されたと見られています。
ビザは家族ごとに発給されたので6千人ものユダヤ人がヨーロッパを脱出できました。
彼らはソビエトを横断して日本に渡り、その後アメリカなどの安全な国々に逃れていったのです。
(スタジオ)
杉原千畝は外務省の指示に逆らって、ユダヤ人難民にビザを発給したわけですが・・・
(幸子さんにインタビュー)
さて、杉原さん一家は戦時中、ヨーロッパ各地を転々とし
終戦後は一時、ソビエトの収容所に入れられるなど苦労の末
1947年帰国します。
しかし、日本で待っていたのは外務省からの辞職勧告でした。
この理由については諸説ありますが
やはり、外務省の指示にそむいてビザを発給したことが問題になったと言われています。
戦後杉原さんはいくつかの仕事を経た後
貿易会社のモスクワ駐在員として働いていました。
その杉原さんのもとに思いがけない知らせが舞い込んだのです。
(VTR)
昭和43年、杉原のもとに突然イスラエル大使館から連絡が入りました。
大使館に行くと、杉原の前に一人の男性が現われました。
男性は、杉原にボロボロの紙切れを見せて
「これを覚えていますか」と言いました。
それは28年前、リトアニアで杉原が発給したビザでした。
杉原のビザで命を救われたユダヤ人たちは
戦後ずっと杉原を探し続けていたのです。
「ユダヤ人の命の恩人杉原見つかる」
このニュースは世界中に伝えられました。
その翌年、杉原はイスラエルから勲章を受けます。
当時のイスラエルの宗教大臣・バルハフティック氏もまた
杉原のビザで脱出した一人でした。
1985年にはイスラエル政府が外国人に与える最高の勲章、
「諸国民の中の正義の人賞」を杉原は受賞しました。
終戦直後は報われることのなかった杉原の行動は、
数十年を経て世界中からたたえられるようになったのです。
1986年。杉原千畝は多くの人々に惜しまれながら
86歳の生涯を閉じました。
杉原の生まれ故郷、岐阜県八百津町。
ここに去年、杉原千畝記念館がオープンしました。
館内には杉原のビザ発給にまつわる様々な資料が展示され
訪れる人たちに杉原の業績と精神を伝えています。
展示品の中には杉原が晩年に残した手記の一部があります。
「ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで
ビザ(発給)を拒否してもかまわないとでもいうのか。
それが果たして国益に叶うことだというのか。
苦慮、煩悶の揚げ句、私はついに
人道、博愛精神第一という結論を得た」
(スタジオ)
今こうして安全な所にいる我々は
ビザを発給してユダヤ人を助けるべきだと考えることができますが
戦前の軍国主義の時代に
助けたらくびになるかもしれないという状況で
人道、博愛の精神を貫いたというのは感銘を受けます。
(幸子さんにインタビュー)
けさは、第二次世界大戦中
6千人のユダヤ人を救った外交官、杉原千畝の生涯を振り返りました。
幸子さんありがとうございました。